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にゃんこの件から、数日。
私は体調をみながら、ミエルさんのお店で売り子さんをしていた。
ショーケースには、涼しげなゼリーがたくさん並んでいる。
熟れた果物がごろごろ入っているものや、柑橘類のつぶつぶが入っているもの、それから透明な中にハートや星の形にくり抜いたミントの葉が浮いているもの。
どれも綺麗なガラスや陶器の器に入って、毎日お客さんの目を楽しませている。
「♪~♪、♪~♪~♪」
一番楽しんでいるのは、ここで働いている私かも知れないけど。
ジェイドさんに打ち明けてから、鼻唄混じりになるくらいに体が軽くなった気もする。
「今日はどれをお持ち帰りしようかなぁ~」
焼き菓子コーナーの商品を手に取って賞味期限をチェックして、値下げ出来そうなものを別のカゴに移し替える。
大体半額くらいに値を下げて、お客さんに食べてもらえるようにするのだ。
私も、たまにこのカゴからいくつか買い取って、お屋敷に持って帰ることにしている。
こんなに美味しくて、ミエルさんが愛情いっぱいに手をかけたものを捨てるなんて、勿体なさすぎるから。
賞味期限ぎりぎりで、栗鼠さん達には申し訳ないんだけど・・・。
最近ショーケースに並び始めたゼリーは、発売を始めた時に買って帰った。
ジェイドさんが思いのほかお気に召してくれて、冷蔵庫でよく冷やしたものをお風呂上りに一緒に食べたりする。
私の今のお気に入りは、桃のゼリー。
ふんわり甘い匂いが、口の中でじゅわっと溶け出す瞬間がたまらなく美味しいんだ。
「・・・うん。今日も買って帰ろっと。
ジェイドさんには、何がいいかなぁ・・・」
商品がショーケースに入る時間帯に、1回目のお客さんの波がやって来て、次はおやつが欲しくなる時間帯に第2波がやって来る。
今はその間の時間帯で、見上げた天体盤の太陽は、斜め上あたりを漂っていた。
私は「こんにちは」とか「いらっしゃいませ」とか、お客さんに合わせて挨拶をする。
常連さんには「こんにちは」で、初めてか、あんまり話さない人には「いらっしゃいませ」だ。
お客さんがショーケースの中を覗きこんでいる時は、邪魔にならないように一歩後ろにさがる。
目が合ったら、声をかけて接客する。
そこで話が弾んだりすることもあるし、頻繁にくる人だったら店に入って来た瞬間から、世間話が始まることもある。
王都は広くて人も多い街だけど、交通手段が乗合バス中心だからなのか、住んでる人の行動範囲はそれほど広くないらしい。
向こうの世界みたいに、映画館や遊園地、水族館や動物園があるわけでもないから、きっと遠くまで行く必要がないんだろう。
デートや家族で出かけるなら、他の街まで行ってしまった方が魅力的なのかも知れないし。
それに、ジェイドさんみたいに車を所有するような、有体に言うところのお金持ちは、お家にお菓子職人を呼んで作らせたりするみたいだから、うちみたいな街のお菓子屋さんには来ない。
だから、最初にジェイドさんやヴィエッタさんが来た時に、ミエルさんが吃驚仰天してた理由が、今なら納得出来る。
ちなみにシュウさんは別だ。
彼は蒼の騎士で、街を闊歩して目を光らせるのが仕事だったから。
それはそれで、ミエルさんが何か疑われているのかと不安になったらしいけど・・・。
カランコロン・・・と、ドアベルが鳴った。
私は焼き菓子の整理をしていた手を止めて、誰が入って来たのかを見ようとして顔を上げる。
そして、ぱっと見た時に男の人だと分かって、咄嗟に「いらっしゃいませ」と声をかけた。
男性の常連さんは、今のところシュウさんと紅の団長、それからアンの婚約者になったノルガくらいのものだったから。
ちなみにジェイドさんは除外。彼はたまに私を迎えにくるけど、店に顔を覗かせたら、すぐに外のベンチに座ってしまうんだ。
・・・男の人が1人で、ケーキ屋さん・・・甘いもの、好きなんだろうなぁ・・・。
そんなことを考えて私が小首を傾げてると、お客さんは店のドアを閉めながら外へと視線を走らせ、何かを確認する素振りを見せた。
・・・もしかして、変な人なんじゃ・・・。
後ろ姿がそんなふうに見えた私は、若干腰が引けそうになる自分を叱咤して、お客さんが振り返るのを食い入るように見つめる。
外の様子を窺う彼の姿に、“まさか、蒼の騎士団に追われてる犯罪者とか、そんなんじゃないだろうな”・・・なんて、物騒なことが頭をよぎった。
すると、肩に力の入っていた後ろ姿が少し萎む。
どうやら大きく息を吐きだしたらしい。
そして、彼はゆっくりと私の方へと向き直った。
「・・・どうも」
「・・・っ?!」
ぶっきらぼうな言い方と、その声に、思わず発しそうになった悲鳴を飲み込む。
咄嗟に両手で口を塞いだ自分を、心から褒めてあげたい。
いや、褒めてもらいたい。ジェイドさんに。
何も考えないで両手を離したから、手にしていたカゴとお菓子が床に散らばってしまった。
カラン、というやけに軽い音と、小さく息を吐く音が響く。
「お、おう・・・っ?!
ど、ど、して・・・っ?!」
何が聞こえても、私の頭は沸騰したままだ。
彼が目の前にいるということだけで、その現実を受け止めるだけで精一杯。
小さく息を吐いた彼は、沈痛な面持ちで俯きがちに、ゆっくりと私に近づいてきた。
「・・・っ」
思わず身構えて、息を飲んでしまう。
この人が近づいたら何か嫌なことが起こる、と体が学習してしまったんだから仕方ない。
動けなくなった私には目もくれず、彼は床に散らばったカゴやお菓子を拾い集めて、ため息混じりに差し出した。
顔をわずかに上げて、私の目を見る。
その瞬間、何を言われるんだろう、と体がびくついてしまった。
「・・・はい、これ」
固まったままの私を小さく笑った彼は、半ば押しつけるようにカゴに入れたお菓子をくれる。
私はそれを取り落としそうになって、慌てて両手で受け止めた。
「・・・焼き菓子を、買いたいんだけど・・・」
カゴを持って呆然としていた私に、彼はぼそりと言葉を紡いだ。
「は?
あ、あぁ・・・え?」
聞き逃しそうになる声を捕まえた私は、その意味を理解して思わず聞き返してしまう。
「いやだから・・・」
そう呟いた彼は、困ったように視線を彷徨わせて肩を落とした。
少しして我に返った私は、動悸のする胸をそのままに彼に対峙していた。
「・・・落ち着いた?」
「はぁ・・・まぁ・・・でも、」
小声で問いかける彼に背を向けて、私は手にしたカゴとお菓子をカウンターの中に持って行く。
せっかく選別したものだけど、一度床に落としてしまったし、全部私が買い取ってお屋敷に持って帰ることにしたのだ。
食後のお茶の時間にでも、今日のこの出来事をジェイドさんに密告しながら、美味しくいただくことにしよう。
私は小さくため息を吐いて、ショーケース越しに彼に尋ねた。
「街角の焼き菓子店くんだりまで、何のご用でしょうか・・・皇子さま?」
“皇子さま”と口にした私を、見た目麗しい彼は眉間にしわを寄せて一瞥する。
・・・ああ、眉間のしわはシュウさんに似てるかも・・・。
そんな感想を抱いて、シュウさんと陛下が従兄弟同士だということを思い出す。
それなら、何かしら似ているところがあっても不思議はないはずだ。
気分を害したらしいオーディエ皇子は、眉間のしわを観察している私に視線を戻して口を開いた。
「その、皇子さまっていうの、やめてもらえないかな」
素っ気ない言い方だけど、そこには私を攻撃しようとか、そういう意図は見当たらない。
少なくとも、そこに込められたものが悪意とは違うものだと分かった私は、目を伏せて言った。
「・・・でも、他に呼びようがありませんから」
「ジェイドの妻なんだろ?
・・・あいつ補佐官のくせに、俺のこと呼び捨てにするし殴るし蹴り飛ばすし・・・」
「この間は、骨を粉砕されそうになりましたよね」
「それは・・・」
つい、ちくりと言葉をの棘を向けてしまった。
ジェイドさんのことを邪魔そうに言うのが、心のささくれに引っかかってしまったから。
ショーケースに手をついた彼は、子どもが言い訳をするように視線を彷徨わせて、呟く。
「悪かったよ。悪戯が過ぎた。
・・・だから、とりあえず焼き菓子を買いたい」
「だから、っていう繋ぎ方、ものすっごくいい加減。誠意がないですよね。
・・・皇子さまがそんなんでいいんですか?」
彼の嫌がる呼び名を、もう一度囁いた。
だって、納得がいかないのだ。
彼は私に謝ってくれたけど、きっと、話の流れで言うだけ言った、というだけ。
確かに私よりも身分は上だ。
何かやらかしても、謝る必要が、今まではなかったのかも知れない。
でも、実際にはジェイドさんの方が力関係では上にあるんだろうし、この際だから、夫の威光を借りてもいいと思う。
・・・謝りに来たんじゃないんだよね。お菓子買いに来たって言ったよね。
確かに、ここは焼き菓子店だ。
ミエルさんの生み出すお菓子は、どれも美味しい。
いろんな人が食べてくれたら、私も嬉しい。
でも。
まずは、ちゃんと謝ってもらって、あんなことをした理由を教えてもらいたい。
相手に敵意がないと分かった私は、思い切ってぞんざいな口調で言い放った。
私の方が年上なのは知ってるから、いっそのこと敬語もやめてしまえ。
なんとなくだけど、ここで舐められたら、後々に影響するような気がするのだ。
「・・・ちゃんと謝って。結構怖かったんだよ」
カウンターの中だから、きっと私が両手を腰に当てたのは彼から見えていない。
でも、そうすることで気持ちが大きくなったような気がした。
「私はあの時、悪阻で気分が悪くなって、木陰で休んでて・・・」
思いのままに言葉を紡いで、大変だったんだからね、と言おうとした私は、彼の視線が私に向けられていることに気付いて口を噤む。
すると、一瞬の間を縫うようにして、彼が言った。
「だからだよ」
「え?
・・・あの木が、皇子さまにとって特別だったってこと?」
短く、放り投げるような言い方をされた私は、咄嗟に思いついたことを訊き返す。
でも、彼は硬い表情を浮かべて首を振った。
「・・・違う。
君が、妊婦だったから・・・」
言いにくそうに呟いた彼に、私は小首を傾げた。
「よく分かったね?
まだお腹もぺったんこだし・・・私だって、この間まで貧血で体調が悪いのかと・・・」
「分かるんだ。どういうわけか・・・匂いとか、雰囲気とかで」
「まあ、それはいいけど・・・」
顔を歪める彼は、なんだか苦しんでいるようにも見える。
私はなんとなく言葉を続けるのが躊躇われて、口を閉じた。
すると、彼は戸惑ったように視線を彷徨わせながら、言葉を紡ぐ。
「妊婦だって思う前に、匂いで気持ち悪くなって・・・イライラして・・・」
「・・・どうして妊婦だと、イライラするの・・・?」
知らない間に、彼を不快にさせていたんだろうか。
頭をよぎったものを口にして問いかければ、彼はまた首を振った。
「分からないけど、ダメなんだ。
妊婦と接してると、」
言いかけて、途中で言葉を切った彼は、そのまま手で口元を押さえて私から顔を背ける。
それはあっという間の出来事で、私は彼のその行動に何かを思う暇もなかった。
そして、皇子さまは私から顔を背けたまま、言葉の続きを並べる。
「・・・吐き気がする」
この子、失礼過ぎる。
帰ったら絶対、ジェイドさんに事細かに報告しよう。
そう誓った私は、彼が辛そうにしているのを見てしまって、どうやら本当に吐き気がするらしいことを悟った。
短い呼吸を繰り返す口元で、彼の手が小刻みに震えている・・・。