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「あのねぇ・・・」
珍しく、私はため息混じりに言葉を紡いだ。
すぐ横、ぴっちり密着したジェイドさんは、未だに視線を彷徨わせている。
「あんなに大きい声で怒鳴ったら、外に聞こえて当たり前!」
立ち聞きした私も私だけど、聞こえてしまったんだから仕方ない。
私もいけなかったとは思うけど、明らかにジェイドさんが後ろめたそうにしてるから、なんだか強気に出てしまった。
「・・・う、すみません・・・」
人差し指を突きつけると、しょぼん、とジェイドさんが萎れる。
彼が「う」なんて呻くのを初めて聞いた私は、今なら勝てる気がして追求することにした。
少しだけ、たまには優位に立って苛めてみたい、だなんて思ってはいない。
・・・いや、ほんのちょっとだけ、思うけど。
そんな気持ちを抱えた私は、すぅっ、と思い切り息を吸い込んだ。
「それで、私で手がいっぱいって、どういう意味?
私がお荷物だってこと?
手がかかっちゃって大変だってことなの?
諦めろって、誰が、何を諦めるの?!
てゆうか一緒にいたのは一体誰?!
女の人だったら今すぐ家出するからね!
シュウさんの前でさめざめ泣いてやるんだからね?!
・・・・・・ぅ、はぁ・・・・・・っ」
思いつく限りの言葉を一気にまくしたてた私は、乱れた呼吸を整える。
お腹に力を入れたせいなのか、クラクラする。
喉の奥の方が、酸っぱい気がして生唾を飲み込んだ。
「うぅ・・・気持ち悪い・・・」
呻いて額を押さえれば、隣から大きな手が伸びてくる気配が。
続いてふんわりと、頬に柔らかい布が触れる。
おろおろしながらも、ジェイドさんはしっかり私を抱きとめて包んでくれたらしい。
・・・あったかくて、いい気持ち・・・。
包まれる安心感に、自分が子どもになった気分になって、私はそっと息を吐く。
すると、彼は腕に力を込めて囁いた。
「・・・私が言うのもおかしいですけど・・・。
何もそんなに一気に喋らなくても・・・もうちょっと体のことを・・・っぐ、」
ジェイドさんの、くぐもった声が聞こえる。
私が、言葉の途中で彼の胸を叩いたからだ。
眩暈と吐き気がひと段落した私は、一瞬緩んだ腕の中から抜け出そうと、そのまま彼の胸をそっと押し返した。
体が離れた隙間から、空色の瞳を見上げる。
「・・・ねぇ、誰?
もしかして、たくさんいる元カノの中の誰か?」
思ったままを口にした私を見て、彼は目を見開いた。頬が強張ったようにも見える。
そんな彼の様子に、私はなおも言葉を続けた。
「最近私が、おやすみのキスして、すぐ寝ちゃうから?
奥さんが妊娠したら、男の人は浮気しちゃうって本当だったの?
ジェイドさん、む、ぅ・・・っ」
発音しようとしていた唇が塞がれて、言葉が変な音になって鼻から抜けていく。
ふにゅ、と生温かく柔らかい感触。
瞬きすると目じりのしわが、ものすごく近くに見えて。
最近2人して早寝早起きの生活をしてるからか、目の下のクマが薄くなった気もする。
「・・・ん、ぅーっ、じぇぃ・・・っ」
噛みつくような勢いで、唇が重ねられる。
こういう時の彼のリズムは、もう体が覚えてるから呼吸が苦しくなることなんてない。
手を振り上げて突っぱねたいけど、気持ちと体がちぐはぐだ。
スイッチが切り替えられたみたいに、薄情にも私の手はジェイドさんのシャツの胸元を掴んで、握りしめてしまう。
離れないように、力を込めて。
手も、気付いたら重ねた唇も熱くなっていた。
その熱に気を取られていると、大きな手が私の後頭部を引き寄せる。
ぐい、と少し強引に。磁石でくっ付いたみたいに、彼との距離がゼロになる。
そうして私が、ここは執務室なのにな・・・なんて思いながら、いうことを聞かない自分の体を諦めようとした時だ。
にゅるん、としたものが唇を割った。
条件反射で隙間を作ってしまった私は、口の中で蠢くそれを捕まえようと、目を閉じて、一生懸命意識を集中する。
もともとジェイドさんは少し意地悪だから時々、私をおちょくるみたいに舌を動かす。
だからいつも私はそれが悔しくて、一生懸命になってしまう。
そうなると、だんだんと息が上がってくるのも、嫌というほど知っているけど。
「ん・・・っ」
耳は触らないで欲しい。
ジェイドさんの指先が熱くて、呼吸が乱れてしまうから。
私がその熱から逃げようとすると、大きな手に引き寄せられた。
なんだか悔しくなった私は、はぁっ、とジェイドさんが短く息継ぎをした瞬間を狙って、蠢くそれを絡め取る。
でも、彼が捕まったのは一瞬で、すぐにすり抜けて、私の歯列の裏をなぞった。
それをされると、私はくすぐったくて変な声が出てしまうことを、彼は知っているのだ。
そんなことを続けて、鼻から抜ける声がだんだんと湿っぽくなって、私の体に力が入らなくなってきた頃、彼はそっと唇を離す。
「ん・・・っ、はぁ・・・っ」
唇が離れて初めて、私は自分が息も切れ切れになっていることに気がついた。
「・・・ひりひりする・・・」
呆然としつつ、じんじんする唇を舐めて言うと、ジェイドさんが小さく笑った。
なんか、してやったり顔だ。
「こんなに赤くして・・・美味しそうですねぇ・・・」
囁きと一緒に、指先で唇をなぞった彼が空色の瞳を細める。
それがとっても艶やかで、色気に溢れているような気がして、背中がむず痒くなってしまった。
我慢出来なくなって身を捩ろうとしたら、ジェイドさんは私の頬を両手で挟みこんだ。
逃げ場を失った私が視線を彷徨わせると、彼はまた小さく笑う。
そして、堪え切れなくなったように口を開いた。
「ああもう・・・これからずっと忍耐の毎日かと思うと、気が遠くなりそうですよ・・・」
「忍耐?」
思わずオウム返しをした私に、彼は曖昧に微笑んだ。
「ええ・・・だって、生殺しです」
「・・・その割に、嬉しそうだけど・・・」
どうも言葉と表情が噛み合ってないような気がして、私は小首を傾げる。
ジェイドさんが嬉しそうに私の顔を覗きこんだままでいるから、そろそろ首が痛い。
すると、空色の瞳がまた柔らかく細められた。
「それは、つばきが妬いてくれたと分かったので・・・にやにやが止まらないだけです」
・・・だからそんな、緩んだカオしてたのか・・・。
頭の中の、どこか冷めた部分でそんな感想を抱いた私は、彼の言葉を聞いて思い出した。
浮気疑惑が、置き去りにされているということを。
私は勇気を振り絞って、ジェイドさんのわき腹を思い切り抓ってやる。
「妬いたんじゃなくて、怒ってたの!
キスして誤魔化そうとするなんて、あなたはタラシですか?!
女の敵だったんですかジェイドさん!」
怒り再燃。
本当は、そんなに沸点低くないはずなんだけど、今はお腹に赤ちゃんがいて体調が不安定だからなのか、なんだかとってもイライラする。
少しの間絆されてしまった自分にも、イライラしていた。
「痛いですよ、つばき。
あと、言葉の端々に意味が分からない単語を入れないで下さいね」
怒りをかわすように苦笑したジェイドさんが、囁きながら、そっと私の手首を掴んで上げる。
そして、にっこり微笑んで、そこへキスをした。
・・・もうそのテには乗らないんだから・・・。
手首から伝わる熱に、思わず目を逸らしながら胸の中で呟く。
すると、ジェイドさんがそっと息を吐いた。
「ちゃんと話しますから・・・ね?」
諭すように言われた私は、無意識のうちに、こくりと頷いていた。
・・・こういうところ、知らない間に躾けられてたんじゃないかと思ってしまう。
「まず、あの時部屋にいたのは、陛下です」
ジェイドさんが、私の髪を手で梳きながら話し始めた。
無我夢中でいちゃついている間に、髪がほつれてしまっていたらしい。
言いたいことはいろいろあるけど、あの時受け入れてしまった私も私だ。
・・・惚れた弱みって、こういうのを言うんだろうなぁ・・・。
内心でため息混じりに呟いて、私は彼が髪を直してくれるのを黙って受け入れているわけだ。
「陛下・・・?」
「ええ。
いえ、呼んだのは私なんですが・・・」
「陛下を呼んだの?
補佐官が、陛下を、執務室に?」
本人達がいいなら、それでいいのかも知れないけど、なんだか序列がおかしくないか。
そんな私の胸の内を読んだのか、ジェイドさんは苦笑混じりに続けた。
「ま、そこは深く考えないでもらえると助かります。
ともかく、彼を呼んで少し話を・・・。
それで、本題が終わった頃に、彼が言ったんですよ」
大きな手が、器用に編みこみを施していく。
こめかみの辺りから毛束を取って、捩じりながら丁寧に。
絶妙な力加減は私に、少しも痛みを与えることなく動く。
・・・そういうところ、本当に愛されてるなぁ、って思っちゃうよね。
場違いに嬉しくなってしまう心を、なんとか宥めていると、ジェイドさんは息を吐いた。
「猫の仔をね、貰って欲しいんですって」
「ねこのこ・・・って、にゃんこ?」
「ええ、にゃんこです」
思いもしない告白に呆然と問い返した私に、彼はゆっくりはっきり、もう一度同じ言葉をくれる。
「にゃんこ・・・飼うの?」
彼の手が離れたのを感じ取った私は、恐る恐る、そっと振り返って尋ねた。
すると、目が合った彼が渋い顔をして私を見下ろす。
「飼いません」
「えーっ」
きっぱり言い放ったジェイドさんの顔に向かって、思い切り不満の声をぶつけてみる。
でも、私の反応なんて予想済みだったんだろう、彼はもう一度きっぱり。
「・・・飼いませんよ」
「にゃんこ・・・」
「ダメです」
「うぅ・・・」
「うちでは飼えません」
情に訴える作戦で、瞳を潤ませて見つめてみたものの、敢え無く撃沈。
これは梃子でも動かないかも知れない、と諦めるつもりで息を吐いた私を見て、ジェイドさんが大きく息を吐いた。
そして言葉通り、吐き捨てるようにして言う。
「だから、あなたに聞かせたくなかったんです」
「・・・どういう意味?」
小首を傾げる私に、彼は観念したように口を開いた。
わずかに、眉間にしわが寄る。
「あなたが聞けば、ふたつ返事で飼うと言うでしょうから。
・・・でも、今はそれどころじゃないでしょう?」
「どうして?」
「つばきと、お腹の中の赤ちゃんが一番大事だからです」
完全にお小言モードに入ったジェイドさんが、渋い顔をしたまま私を諭そうと言葉を紡ぐ。
空色の瞳が揺れるのを見てしまった私は、なんだか彼を苛めているような気分になってしまって、結局それ以上食い下がることが出来なかった。
すると彼は、口を閉じた私の頬を撫でる。困ったように微笑んで。
「私だって、にゃんこを飼いたい気持ちはあるんですよ。
だからね、つばき。
子どもがある程度大きくなって、そうしたら飼いましょうね」
一度揺れたはずの瞳が、甘く弧を描く。
そんなカオをされたら、少しくらい甘えてもいいかな、なんて思ってしまうじゃないか。
「ほんと?」
「ええ。
にゃんこでも、犬でも鳥でも、何でもいいですよ。
馬や牛も、いいかも知れませんね」
「羊は?」
「毛を刈り取って、セーターが編めますね。
・・・引退したら、牧場でも始めますか?」
くすくす笑いながら囁いたジェイドさんが、小さな音を立てて、私のつむじにキスを落とす。
そして私が、同じように笑いながら目を細める・・・そんな午後。
余談だけど、ちょうど私達がそんな話をしていた頃。
執務室の外では、事務官達が書類片手に列を成していたそうな。
鉄子さんが怖いから、押しかけることは出来なかったみたいだけど・・・。
私は、部屋の中の声が外に漏れてませんように・・・と必死に祈ってしまった。
ちなみにジェイドさんは、外に何人もの人がいることに気付いていたらしい。
しょうがないから私は無言で、彼のわき腹を抓ってやった。
今度から執務室にお邪魔する時は、なるべく長居しないようにしよう。