7
「私が、」
空色の瞳が、柔らかく、甘く笑みを形作った。
彼の唇が音を立てた場所が熱くて、思わずこめかみを押さえた私は、呼吸を整える。
「気づいていないとでも思いました?
・・・まったく、見くびられたものですねぇ・・・」
ジェイドさんの囁きには棘があるのに、私に向ける表情が甘すぎて、どんなカオをしてそれを聞いたらいいのか分からなくなってしまう。
もう、頭の中はジェイドさんのことでいっぱいで、少し離れた場所に立ってこっちを見ているだろう彼のことなんて、どうでも良くなった私は囁いた。
「知ってたの・・・?」
きっと怒りたいけど怒れなくて、ひたすら甘やかして私の良心の呵責を誘うつもりだろう。
そんな彼の思惑を予想しながらも、私はその通りに心が痛んで俯いた。
ごめんなさい、のひと言を胸の中に用意しながら尋ねると、ジェイドさんが小さく笑って、肩を揺らす気配がする。
「あなたね・・・私はあなたの何ですか。夫ですよね?
毎日何を食べているとか、どれくらい眠っているとか・・・ちゃんと把握してるんです。
しかもうちは、家の者の目もありますからね。
あなたの様子がおかしいと、栗鼠さんも熊さんも、皆さん心配してるんですよ?」
「・・・そっか・・・」
・・・皆が少しずつジェイドさんに私の様子を伝えてたから、すぐに分かっちゃったのか。
私は、自分だけが知っている小さな秘密を、どうやってジェイドさんに打ち明けようかと楽しんでいたけど、それがかえっていろんな人に心配をかけることになってたんだ・・・。
「ごめんなさい、ジェイドさん・・・黙ってて・・・」
言いながら、窺うように顔を上げる。
すると、ジェイドさんの両手が私の頬を包んだ。
汗が引いて少し肌寒い気すらしていたのに、彼の手が熱くて茹だってしまいそう。
いや、熱いのは手じゃなくて、彼の瞳から溢れる何かなのかも知れない。
こういう時、空色に澄み切って冷たそうなジェイドさんの瞳は、ものすごい熱を孕む。
「いつ教えてくれるのかって、ずーっと待ってたんです・・・楽しみにね。
・・・それなのに・・・」
私を見下ろす瞳が、ほんの少し細められた。
声に拗ねたような気持ちが滲むのを感じた私は、何かを言おうと口を開くけど、結局「ごめんなさい」としか言えないような気がして、黙って彼の視線を受け止める。
「あなたが執務室のドアをノックしないから、追いかけて来ちゃったじゃないですか」
困ったように微笑む彼が、「格好がつかないですね」なんて呟いて。
はっとした私は、思わず口走っていた。
「気づいてたの?
私が、執務室に行ったこと」
「もちろん。
いつでも、あなたの気配を探してますから」
けろりと言い放った彼に、私は訝しげに眉をひそめる。
「・・・そうなの・・・?」
そんな私に、彼はさらりとひと言。
「寂しがり屋なんです、私。
知ってるでしょう?」
「・・・ん、ちょっとだけね」
甘い声で恥ずかしげもなく囁かれ続けた私は、悔し紛れな気持ちになって呟いた。
すると、彼は苦笑を漏らして私の頬から両手を離す。
急に外気に晒された頬が、すぅっと冷えて寂しくなってしまう。
カオに出してはいけないと思うのに、どうやら私は無意識のうちにそんな表情を浮かべてしまっていたらしい。
ジェイドさんはそんな私の頭をぽふぽふして、おでこにキスを落とした。
ちゅ、と漏れた小さな音に続いて、彼が囁く。
「執務室に戻って、お茶でも・・・」
「うん、淹れてあげるね」
途中で言葉を遮って囁き返した私に、彼が小さく笑って頷いた。
「だから、無視するなって!」
少し離れた場所で上がった声に、私達は揃って目を向けた。
「・・・まだいたんですか」
しれっと酷いことを言い放つジェイドさんの横顔が、ちょっと怖い。
・・・怒ってるんだろうなぁ、これ・・・。
決して私には向けないカオを間近で見て、大人しくしていようと心に決める。
そう思って口を閉じた私は、少しの間その存在を忘れていた彼のことを、じっと見た。
整った顔立ちは、不愉快ように歪んでいる。
「俺を無視するだなんて、ほんといい度胸してるよね」
大口を叩いて口元をひくつかせる様子は、とっても不快だ。
よく知らない私ですらそう思うのに、ジェイドさんはよく我慢出来るな、と感心してしまう。
・・・いや、もしかしたら普段から関わりがあるから余計に、我慢してるのかも知れないけど。
私がそう思いながらも冷静にその場を見守っていると、ジェイドさんが大きなため息を吐いた。
「・・・ほんっとうに、少し前のリュケルみたいですねぇ・・・。
ここまでお馬鹿さんだと、いっそのこと微笑ましくて可愛らしいですよ。
・・・今は可愛さが余りに余って憎さが百倍になってますけど」
「・・・リュケルって、リュケル先生?」
・・・お姉ちゃんを呼び戻す時に怪我をした私達は、彼のお世話になったっけ。
「あんなのと一緒にするな!」
私が、咄嗟に脳裏に浮かんだ人の名前を尋ねるのと、彼が不満そうに漏らすのは、ほぼ同時だったはずなのに、ジェイドさんは丁寧に私に向き直って口を開く。
「ええ、リュケルも少し前までは、甘ったれで親の威光を振りかざしてましたから」
にこやかな表情に似つかわしくない棘のある言葉を聞いて、彼が肩をぷるぷる震わせる。
私に向かって言ったはずなのに、ジェイドさんが言葉の最後で彼を一瞥したせいだ。
・・・ちょっと、やりすぎなんじゃないかな、ジェイドさん・・・。
風が吹いて、また少し肌寒さを感じた私は、両腕を擦る。
「まあ、これじゃいけないっていうのは、本人が一番よく分かってるでしょうけど」
肩を竦めたジェイドさんが囁いたけど、私はどんな反応をすればいいのか分からず、ただ口を閉ざして向こうにいる彼を見遣った。
夏の太陽の下、立ちつくしている彼は何か言いたそうなのに、どう口にしていいか分からないらしく、ただ体の横に下ろした手を握りしめている。
伏せた目は、何を見ているんだろう。
不快そうに歪んでいた顔は、眉間にしわを寄せて、何かに耐えるような表情に変わっていた。
・・・なんだろう、あの雰囲気、どこかで見たような気がするんだけど・・・。
記憶の中の何かが彼の姿に重なりそうな気がして、私は彼をじっと見つめた。
すると、隣でジェイドさんが息を吐いて、一歩踏み出す。
草を踏む音に、彼は顔を上げてジェイドさんに目を向ける。
私の位置からはジェイドさんの背中しか見えないけど、おそらく怒ったり苛立ったりはしていないだろう。
頭上に聞いたため息が、私がよく聞くものと同じだったから。
きっとその心は“しょうがないな”・・・だ。
そんなことを考えながら見ていると、ジェイドさんが、彼の目の前で足を止めた。
そして、しばらく動かないと思ったら、草の上に置きっぱなしにしてあった私のポシェットを拾い上げて、ゆっくりと私の所に戻ってくる。
その表情は穏やかで、売り言葉に買い言葉があったようにも思えない。
私がそんなふうに見ていると、ジェイドさんは立ち止まるなり私の手を取って、彼に背を向けようとした。
王宮の中、執務室へ戻るつもりなんだろう。
それが分かって、やんわり手を引かれた私は、抗わずに体の向きを変えて一歩踏み出した。
・・・どうでもいいけど、どうして私、絡まれたんだろ・・・。
釈然としないものを抱えた私は、なんとなく振り返って視線を彼に投げる。
そこには、苦虫を噛み潰したような、言い返せなくて悔しそうな彼がいた。
目が合って、お互いに一瞬息を詰めて、逸らされる。
すると、そんなやり取りをしていた私に気づいたジェイドさんが、振り返って口を開く。
「決めるのはあなたですよ、オーディエ」
静かな口調が、風に乗ってよく響いた。
「ジェイドさん?」
「うん?」
執務室に入ってすぐ、有無を言わさずにソファに座るように促された私は、気になったことを尋ねるべく口を開いた。
小首を傾げたジェイドさんは、私が持ってきた封筒を机に置きながら、先を促す。
「あの人がオーディエ皇子なの?」
「・・・残念ながらね」
確認するように尋ねると、彼は肩を竦めて肯定した。
私は、さっきまで対峙していた彼を思い浮かべる。
高飛車で傲慢、幼くて少しだけ癇癪持ち・・・思い切り、ちまたのイメージとは真逆だ。
「そっか、あの人が・・・」
人づてだと、こんなに人物像が変わるものか。
ミエルさんの焼き菓子店のお客さん達から聞いてた噂話からは、全く想像がつかない人だった。
残念な気持ちで呟いていると、ジェイドさんが隣に腰掛けてソファが沈んだ。
すると、体が傾きかけたところを、大きな手が支えてくれる。
「・・・こら、思い出してるでしょう」
小さく咎める声が聞こえて、私は顔を上げた。
空色の瞳が、すっと細められる。
「やきもち焼いちゃいますよ?」
「いやいやいや。なんか、イメージと違うなぁって思ってただけ!
・・・やきもちは嬉しいけど」
ドキっとした私がぽつりと付け足したひと言に満足したのか、ジェイドさんが肩を揺らして頷いた。
「・・・彼はね、長いこと反抗期なんですよ。
だから、あなたに突っかかったかも知れませんけれど、ちょっと大目に見てやって下さい」
「うん・・・でも・・・。
私がどうして絡まれたのか、さっぱり分からないからなぁ・・・」
さっきまで怒りを撒き散らしてたジェイドさんが、急に彼の擁護をするから、なんとなく腑に落ちないものを感じた私はぼやいてしまう。
すると、彼は私の頭をぽふぽふして言った。
「・・・じゃあ今度会ったら、聞いてみるといい。
私がしっかり叱ったので、あなたとは、きちんと話をすると思いますから。
もちろん、今度またあなたが不快に思うことをしたら、その時は私を呼んで・・・ね?」
そう言って小首を傾げたジェイドさんに、私は曖昧に頷いてみる。
・・・また会うことがあるなんて、あんまり考えたくないんだけどな。
鉄子さんが持ってきてくれたお茶をいただきながら、ひと息ついた時だ。
「あ、あのね、ジェイドさん」
ふと思い出したのは、さっきこの部屋の前で私が立ち聞きしたことだった。
ちなみにもう、お腹の中を渦巻いていた気持ちはすっかり消えている。
私を探し出してくれたジェイドさんを見てしまったら、それだけもう、言葉なんかくれなくても良いような気がしてしまうのだ。
・・・でも、これからの夫婦のあり方として、隠し事は、ない方がいいような気がする。
・・・ジェイドさんの隅から隅まで把握しておかなくたって、構わないんだけど・・・。
そんないろいろが頭の中を一周した私は、やっぱり一応尋ねておこうと決めて、口を開いた。
「さっきここで、誰かと話してたよね?
“今は、つばきで手がいっぱい”だって・・・」
きっと結局気になって、お腹の赤ちゃんによくない気がするのだ。
「・・・それ、聞いてたんですか・・・」
ジェイドさんは、そう呟いて視線を彷徨わせた。