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「・・・あー・・・胃がむかむかするなー・・・」
不快感を隠そうともせずに低く呟いたその人は、真っすぐに私を見据えた。
・・・そんなに嫌なら、さっさとどこかに行けばいいんじゃなかろうか・・・。
そんな心の声は、私の中だけにしまっておこう。
さく、と草を踏む音に続いて、彼が私に近づいた。
私はまた腕を掴まれたらと、咄嗟に一歩後ろへ退く。
木陰の中は、汗が引けば少し肌寒いくらいだ。
鳥肌が立った腕を思わず擦りつつ、少し屈んで私をまじまじと見つめる彼から、顔を背けた。
封筒も戻ってきたし、本当は走って逃げたいけど・・・こんな体でそんなことしたら、絶対に良くないということくらい、私でも分かる。
「・・・あの、」
だから穏便にこの場を立ち去ろうと、心を決めて口を開いた。
「うん?」
私が困った顔をしていることなんか、意にも介さないとでもいうような、適当な相槌。
彼の興味は、私が纏う匂いに向けられているらしい。
ジェイドさんの匂いを嗅いで、胃がむかむかするとか言うくらいだから、きっと彼のことを良く思っていない人なんだろう。
そう結論づけた私は、目の前の人に、匂いがジェイドさんのものだと気づかれる前に、なんとか離れようと言葉を選ぶ。
「私、人を、」
「は?」
言葉を遮るように、不満そうな声が頭上から降ってきた。
その威圧的な態度に、私は思わず口を噤んでしまう。
それを跳ね返すだけの勇気を、いつも誰かに守ってもらい続けてきた私が持っているはずもない。
私は閉じた口をもう一度開くことも出来ずに、目を伏せた。
「まさかとは思うけど・・・俺に口応え、しちゃう?」
一瞬見せた威圧感を消し去って、彼は軽い口調で囁く。
ずいぶんと大きな態度だ。
ぱっと見ただけだけど、きっと私よりも年は下だろう。
彼が、ジェイドさんの匂いに不快感をあらわにするなんて、一体どうしてなんだろう。
大体、彼がジェイドさんの匂いに覚えがあるだなんて、どうして。
からかうように囁かれたことが頭を素通りしていって、代わりに次々と疑問ばかりが浮かんで、頭の中で渦を巻き始める。
その渦がぐるぐる、胃の中までかき回しそうで怖くなった私は、深呼吸して視線を上げた。
そんな私が気に食わなかったのか、彼は口元を歪めて笑う。
「おっかしいな。
俺の知名度って、意外と低いの?」
自尊心の塊のような発言に、私は内心でため息を吐いた。
・・・このタイプは、自分が周りの人にちやほやされて当たり前だと思ってるんだろうな。
もしかしたら、どこかの貴族のお坊ちゃんなのかも知れない。
ぼんやりそう思った私は、オーディエ皇子が王立学校を卒業して王都に戻ってきたから、陛下が夜会を企画してると、ジェイドさんから聞いたのを思い出した。
そして、その招待客のリストの中に、この人がいるとしたら・・・と考えて、それならジェイドさんと顔見知りであっても不思議ではないことに思い至る。
・・・それなら余計に、私が神経を逆撫でしたら、困るのはジェイドさんだ。
この人が、“補佐官殿の逆鱗”を知らないということも、少し不思議ではあるけど・・・。
内心でぼやいた私を、彼はどう見ていたんだろうか。
歪めた口元で笑みを作ると、私に向かって口を開いた。
「君、俺のこと知らないの?」
「すみません」
・・・知りませんし、興味もありません。
いろいろ意味を込めて肯定すると、彼はきょとん、として瞬きをする。
近くで見ると、とても綺麗な顔だ。黙ってたら、すごくモテるに違いない。
「知らないの?!」
「はぁ・・・すみません」
我に返ってもう一度訪ねた彼に、私はもう一度同じことを返す。
すると、そんな私を見た彼は、片方の眉を器用にひくつかせた。
そして見るからにがっかりと、肩を落として呟く。
「・・・そっか・・・」
そんなに自分の知名度が気になるなんて、一体普段どんな生活をしているんだろうか。
半ば呆れつつ、私は肩を落としてぶつぶつ呟いている彼から、一歩離れた。
なんだかお腹の中が、ぐるぐるするのだ。近づくな、と体が語りかけてくるみたいに。
私が本能に従って、そのまま距離を取ろうとすると、彼がふいに視線を上げて私を見た。
「じゃあ、」
がっかりから立ち直ったのか、その目の奥に何かが灯っているような気がして、私はそれに耐えられずに視線を逸らす。
「教えてあげようかなぁ」
笑みを含んだ、楽しげな声が耳元で響いた。
その声がすごく不快で顔を顰めると、さらに楽しそうな笑い声がすぐ傍で零れる。
・・・思いっきり、大きな声を出してみようか。ジェイドさんの名前を叫べば・・・。
耳から入った声が、首筋をぞわぞわと気味悪く揺らす感覚に耐えられなくなった私は、後のことなんて考えずに叫びたい衝動に駆られた。
その瞬間、彼の手が私が首から下げているペンダントに伸びる。
金の鎖に、空色の石が光るそれは、ジェイドさんがプレゼントしてくれたものだ。
・・・触られたくない!
背中を悪寒が走るのと同時に、喉元に何かがせり上がるのを感じた私は、小さく息を吸い込む。
その刹那、声がした。
「つばき、」
私を呼ぶ声は、彼の向こう側から聞こえた。
「・・・あ」
彼が、後ろから聞こえた声に振り返って、小さく声を上げる。
何かを見つけて上げた声でもなく、呆然と漏らした声でもない。
強いて表現するなら、後ろめたいことをして見つかった、子どもみたいな声だった。
私は、高飛車な彼がそんな声を上げたことに驚いて、一瞬言葉に詰まる。
返事をしたいのに、嬉しいのに声が出せなかった。
そんな私をどう思ったのか、ジェイドさんが草を踏んでやって来る気配がする。
「なんでこんな所にいるんだよ」
何かから立ち直ったらしい彼が、非難めいた声を上げる。
やっぱり、ジェイドさんのことは知っていたらしい。
見た目だけは良い彼の背中を眺めていた私は、その向こうにいるはずの姿を探そうと、そっと体をずらした。
でも、ひょこ、と顔を覗かせた私を見たジェイドさんが、すごく怖い顔をしていることに気がついて、怖気づきそうになってしまう。
「・・・ジェイド、さん」
視線がぶつかった瞬間に、ジェイドさんが目を細めるのを見て、やっとのことで声を絞りだした私は、咄嗟に駆けだした。
上から目線の彼は、駆けだした私に構うつもりはないらしい。
自分の体のことは、すっかり頭の隅に追いやられていた。草の上に置きっぱなしのポシェットも、もうどうでもいい。
・・・封筒は、ちゃんと持ってたけど。
「あぁ、こら・・・っ」
驚いたカオをしたジェイドさんが、慌てて両手を広げて私を受け止めてくれる。
夏だというのに半袖のシャツに切り替えない彼の腕は、しっかり私の体重を支えてくれた。
「ジェイドさん・・・!」
彼の名前を呼びながら、腕の中に着地した途端、私の足から力が抜けてしまう。
かくん、と急に視界が一段下がったかと思えば、次の瞬間には視界がぐんと高くなった。
彼の腕が私を抱き上げてくれたと気づいた時には、目の前に空色の瞳があって。
「まったく、その体で走ったりして・・・」
小さく息を吐いた彼の目は、やんわり細められている。
甘い何かが溢れて零れる瞳は、決して私を叱りつけるような形をしてはいなかった。
そのことに胸を撫で下ろした私は、小さく「ごめんなさい」とだけ囁く。
もちろん、彼にだけ聞こえるように、その耳元で。
「それで、」
私をそっと草の上に下ろしたジェイドさんの手が、私の肩を抱いて、目の前で呆然と立ち尽くしていた彼に視線を向けた。
彼が、小さく肩を揺らす。
我に返ったらしい。
「君は、ここで何をしていたんです?」
氷のように冷たい声。
ジェイドさんのこんな声は、聞いたことがない。
いや、少し前に執務室で立ち聞きした声は、これによく似てたような気もするけど。
彼は、ジェイドさんの問いかけに口を閉ざした。
まるでお小言をやり過ごそうとする、子どもみたいだ。
そんな彼のことを眺めていると、肩を抱いた手がさわさわと落ち着かないのを感じて、私はジェイドさんの顔を仰ぎ見た。
ジェイドさんにしては、なんだか苛立っているような、おかしな動きだ。
「・・・そうですか。
彼はなんだか後ろめたいようなので・・・つばき?」
「うん・・・」
上から私を一瞥した視線が、少し険しい。
私は、緊張に小さくなる声を意識しながらも、そっと続きを促した。
「彼は、あなたに何をしました?」
「え、っと・・・」
口ごもった私に、彼が目を細めた。
言葉の外に、「正直に話しましょうね」と言われた気がして、私は口を開く。
もちろん、全部まるっと、起きたことを伝えるために。
・・・どうして私がここに来たのか、ということは、とりあえず伏せておくことにして。
「・・・なるほど」
耳打ちした私に頷いたジェイドさんが、ものすごく低い声で頷いた。
そして私の目を覗きこむように見つめて、そっと目を細める。
空色が、小学生の悪戯を見抜く先生の目のようにきらりと光った・・・ような、気がした。
思わず息を、う、と詰める私に、彼はにっこり微笑んで口を開く。
「あとでちゃーんと、お話聞きますからね。
・・・どうして、つばきが、ここにいるのか」
「うぅ・・・。
・・・はぁーい・・・」
・・・やっぱり、分かってるよね・・・。
見逃してくれる気はないらしい彼に項垂れると、苦笑しながら頭をぽふぽふされた。
絶対に叱り飛ばしたりしないし、逃げ道も用意してくれる。いつもそう。
頭をぽふぽふする手がいつも通りなのが分かった私は、最終的には甘やかされるのが目に見えて、こっそり息を吐いた。
そこへ、バツが悪そうに俯いていた彼が口を開く。
でも。
「その女が、」
そのひと言が、ジェイドさんの怒りを買った。買い占めた。
「その、女・・・?」
地を這うようなものすごく低い声が、聞いたこともないような低くて冷たい声が、頭の上で風に乗って解けていく。
背中が冷たくなるような声に思わず顔を上げたら、そこには私には一度も見せたことのない表情を浮かべて、彼のことを睨みつけるジェイドさんがいた。
悪い予感がして咄嗟に腕を掴んだ私を一瞥したジェイドさんは、にっこり微笑む。
その微笑みすら空恐ろしくて、私は息を飲んでしまった。
こんなふうにジェイドさんの豹変ぶりに怯えたら、絶対に彼を傷つけると分かるのに・・・。
ジェイドさんは、大きな手にやんわりと力を込めて私の手を剥がすと、目の前の彼に視線を移して口を開いた。
「つばきはね、」
そして、言いながら一歩踏み出す。
鋭く尖った声を受けた彼は、顔を強張らせた。
さく、と草を踏む音がする。
緊張感が漂うのを肌で感じた私は、息を詰めてジェイドさんの挙動を見守った。
正直に言ってしまうと、不審なイケメンなんて、どうなっても良いと思うけど。
そんなことを考えているうちに、ジェイドさんが彼の目の前で足を止める。
彼は強張った顔をしながらも、強い視線をジェイドさんに向けていた。
反抗期の父親と息子みたいにも見えるけど、ジェイドさんの冷え切った声の中に、情を探すことなんて出来そうにもない。
「君のような子どもが、」
大きな手が、彼の手首を掴む。
「う、あ、おいジェイ・・・ド・・・ッ」
みし、と骨の軋む音が、かすかに耳に届く。
私は別に痛くないから、全く気にしない。でも、ジェイドさんが手を汚すのは嫌だ。
・・・絶対、後になって傷ついて、うじうじするに決まってる・・・!
そう思った瞬間には気持ちが焦って、口が勝手に動いていた。
「ジェイドさん、折れちゃうよ・・・!」
押し殺した声が届いたのかは分からないけど、ジェイドさんの手が少し力を緩めるのが分かる。
呻いた彼の表情が和らいだのが、少しだけど見えた。
そして、ジェイドさんが言葉を紡ぐ。
「・・・ありがとう、つばき。
もう少しで使いものにならなくなるところでした」
顔だけで振り返ったジェイドさんは、わずかに口角を上げた。
・・・粉砕しようとしてたの、ジェイドさん・・・?!
そう思いつつも私は、詰めていた息をゆっくり吐きながら頷く。
すると、ジェイドさんは再び彼に向き直って、その手首を持ち上げた。
ちらりとだけ見えたのは、赤い花の髪留め。
・・・そっか、まだあの人が持ってたんだった・・・。
ジェイドさんが彼の手から髪留めを取り上げるのを見て、この世界では、髪が女性の貞操観念と結びついているということを思い出した私は、はっとした。
・・・だから、あんなに怒って・・・?
それにしては、感情の針が振り切っていたような気がする私は、何となく腑に落ちないものを感じて内心首を捻る。
すると、髪留めを取り上げながら、ジェイドさんが彼に言う。
「とにかく、君みたいな子どもが・・・」
手にした髪留めを、まじまじと細部まで眺めるジェイドさんは、不愉快そうに目を細めた。
「髪に触れて、その女呼わばり出来るようなひとじゃ、ないんですよねぇ・・・」
纏わりつくような声色は、どうやって仕返ししてやろうかと考えているように思えてならない。
嫌な予感はするけど、私が口を挟んだらジェイドさんが余計な勘繰りをしそうだから、何も言えなかった。
どうしたらいいのかと考えて立ち尽くしていた私は、ふいにジェイドさんがこちらを振り返る気配がして、背筋を伸ばす。
ジェイドさんは彼の手首を解放すると、私の所へ戻って、ため息を吐きながらも私の髪を手早く整えて髪留めをつけてくれた。
そして、もう一度私の肩を抱いて彼に対峙する。
「私の可愛い、大事な大事な奥さんによくもまあ、いろいろしてくれて・・・」
綺麗な笑顔で言い放ったジェイドさんに見とれていると、少し離れた所から、彼の素っ頓狂な声が上がった。
「・・・は?!
奥さん?!」
でもジェイドさんは、そんな彼の声を綺麗に無視して私を見つめる。
空色の瞳が柔らかく弧を描いていく様子に、鼓動が跳ねた私は、その視線を受け止め切れずに目を伏せた。
「無視するな!」
手首を擦りながら彼が喚くけど、そんなものはジェイドさんが黙殺してくれる。
俯いたままの私には、そんなジェイドさんの表情を見ることは出来なかったけど。
「しかも、」
大きな手が頬に添えられて、温かい。
心地よくて思わず目を閉じそうになった私は、その手にされるがまま、顔を上げた。
目の前で待っていたのはジェイドさんの、何かを灯した瞳。
そっと細められて、何かを言おうとしている瞳だ。
私は何を言われるんだろうと思いながら、ジェイドさんに見つめられるのが嬉しくて、その言葉を待った。
「今は大事な時期なんですよ」
そっと紡がれた言葉は、私に向けられてる。
そう分かったのは、ジェイドさんの瞳の中に、強く光る何かがあることに気付いたからだ。
分かって欲しいと、その目が主張しているから。
でも、一体何の話をしてるのかが分からない私は、黙って小首を傾げた。
するとジェイドさんは、そんな私に困ったように微笑んで、頬に添えていた手をゆっくりと上へと移動させる。
そして、やんわりと力を込めた手は、私の耳元を引き寄せた。
同時にジェイドさんの気配が近づいて、次の瞬間には、こめかみにキスが降ってきた。
小さく息を吸い込んだ私に苦笑しながら、ジェイドさんが囁く。
「お腹に、私達2人の赤ちゃんがいるんですから」
大きく目を見開いた私を、ジェイドさんは小さく笑った。