5
人を避けて歩いていたら、いつの間にか、今までに来たことのない場所にいた。
・・・どこ、ここ・・・?
そう我に返った瞬間に、体に異変が起きた。
顔がかーっと熱くなったかと思えば、急に汗が噴き出してくる。
こめかみを伝う汗を拭おうとした手が、ぶるぶると震えていることに気がついた時には、体が悲鳴を上げていた。
「・・・ぅ、気持ちわる・・・」
こみ上げたものをやり過ごすために、咄嗟に近くにあった木陰に駆けこむ。
口元を押さえて座ろうと膝を折った刹那、がくん、と足から力が抜けてしまって、私は崩れるようにしてその場にうずくまった。
自分の体のどこかが、ドクドクと音を立てて脈打っているのが分かる。
頭がガンガンして、胃がひっくり返りそうだ。足は震えてるし、なんだか視界がぐらつく。
キッチンで急に倒れそうになった時のことが、フラッシュバックする。
あの時は、ジェイドさんが来てくれた。
・・・呼べば来てくれるって、言ってた。けど・・・。
喉元まで何かが這いあがってくる気配に、とにかく落ち着こうと深呼吸を繰り返す。
何も考えずに、ただ、自分の中暴れているものを鎮めるように、呼吸を整えながら胸を擦る。
そうしているうちに、だんだんと体が落ち着きを取り戻していくのを感じた私は、やっと、大きく息を吐いて胸を押さえていた手を離すことが出来たのだった。
木の枝が作ってくれる自然の日傘が、吹き抜ける風を涼しくしてくれる。
へたり込んだまま大きく息を吐いた私は、そっと視線を上げた。
冷や汗が出たから、服が肌にへばりついていて気持ち悪い。
・・・少し乾くまで、休んでいこ・・・。
体の中に異物が入り込んでいるような不快な感覚はまだ残っているけど、こうして座っている分には支障なさそうだ。
そう思えるくらいの冷静さを取り戻した私は、やっと落ち着いて周囲を眺めることが出来た。
柔らかく青々とした芝生が続くこの場所は、王宮のどこに位置してるんだろうか。
手入れされた色とりどりの花が咲いているから、庭なのは分かる。
けど、どっちに行けば王宮から出られるのか分からない。
自分がどの方向から来たのかも、なんだか曖昧だ。
・・・ちょっと休んだら、あそこから王宮の中に入って、最初に会った人を呼びとめて・・・。
視界の隅に、建物に続く小道が見えて、そんなことを考える。
そうやって少しの間庭に咲く花を眺めていると、ふいにジェイドさんの言葉が勝手に頭の中で再生されてしまって、私は俯いた。
「・・・また逃げて来ちゃった・・・」
沈んだ気持ちで零した呟きは、小鳥の囀りにかき消されて。
頬にへばりついて離れないほつれた髪をよけようとして、持っていた封筒が汗でよれよれになってしまっていることに気付く。
大事な書類なのに・・・と、余計に気持ちが落ち込んで、息を吐く。
私は重い気持ちを何とか持ち上げて、封筒を芝生の上に置いてポシェットを乗せて、休んでいる間だけでも乾かすことにする。
怖いことや、嫌なものから逃げ出してしまう、悪い癖。
自分が傷つくかも知れない、と予感したら本当のところなんて考えもしないで、とにかく逃げてしまいたくなる、臆病な自分。
まだ、こっちの世界で生きていくことなんて、考えられなかった頃のことだ。
帰れないと分かって発狂する自分を想像した私は、ママを刺した彼女みたいに、狂気に飲まれてしまうのが怖くて、その時にはこの世から消して欲しいとジェイドさんにお願いした。
少し前までは、刃物も怖かった。
ヴィエッタさんと向き合うのも、怖かった。
・・・怖いものばっかりで、逃げてばっかり。
いつも、ジェイドさんの背中に隠れて。
刃物恐怖症は、入院したジェイドさんの傍にいたくて必死になってたら、いつの間にか克服出来てたけど・・・。
それでも、私はやっぱり傷つくことが怖くて、逃げることで自分を守ろうとしてしまう。
・・・ドア越しに、断片的な言葉を聞きかじっただけなのに。
「気付かれちゃったかなぁ・・・」
ジェイドさんは、とっても勘がいい。
どこにいても、何をしていても、いつも私のことを頭の隅に入れていて、気配を感じ取っているような気がする。
もしかしたらそれは、この世界の男の人の本能みたいなものなのかも知れないけど。
「でも、なんか声が怖かったし・・・頭に血が上ってて気づいてないかも・・・」
私の足音はしなかったと思うし、立ち聞きされてると気づいていたら、彼はきっとドアを開けると思うのだ。
そうやって、体調が落ち着いたのを自覚しながら考えを巡らせていた、その時。
人の気配に気づいて、私は顔を上げた。
いつの間に目の前にいたのか、その人は、綺麗な顔をしていた。
「これ、お姉さんの?」
高くもなく、低くもない声。それなのに、なんだか艶っぽい。
ほんの少し口角を上げて、私を上から見下ろしている。
すごく失礼な表情をしてると思うのに、それすら格好良いと思えるような、不思議で怪しい人。
「・・・あ・・・っ」
その人は、流れるような動作で私が置いておいた封筒を手に取って、口元を隠した。
体調は落ち着いたと思うのに、声が思ったタイミングで出てくれない。手も、頭の中で描いた動作とは一瞬遅れてしまう。
結局私は、大事な封筒が彼の手に渡る瞬間に、ただ声を漏らしただけだった。
「ちょっと、黙っててよ?」
彼は封筒で口元を隠したまま言ったかと思えば、封筒を口に咥えて、私が休んでいる木から伸びた太い枝目がけてジャンプする。
そして器用に、体操選手がするみたいに、くるり、と一回転して枝の上に立つと、そのまま木登りの要領で上へと登っていってしまった。
「は?
ちょ・・・っ」
非難の声を上げたものの、上からの応答はない。
「・・・なんなの・・・?!」
人の物を掠め取っていくなんて、と思う反面、大事な物から目を離してしまった自分に反省する。
あれが何の書類なのかは知らないけど、封筒に大事だという印がしてあったのを見ていた私は、自分にがっかりしてしまった。
ジェイドさんにまで、がっかりされたら立ち直れない・・・。
とにかく、彼が降りてくるのを待って・・・と心づもりをしていると、今度は違う声が。
「あのぅ、」
声のした方へ視線を走らせると、そこには見るからに気の弱そうな、頼りない雰囲気の騎士が立っていた。
手首に白いコインが巻かれているのを見た私は、彼が白の騎士団所属だということに気付く。
「・・・何でしょうか・・・」
私の知ってる騎士・・・シュウさんやノルガしかいないけど・・・とは雰囲気が全然違う。
すぐ熱中症になってしまいそうな、ひょろんとした人だ。
・・・いやいや、蒼の騎士団も通過したんだろうし、きっと脱いだら・・・。
返事をしながらも、想像が可笑しな方へ転がり始めた頃、彼は私に尋ねた。
「こちらに、見た目はいいけど微妙に怪しい、そんな男が来ませんでしたか?」
・・・来ました。ばっちりそんな感じの人、この木の上にいますよ。
咄嗟に喉元まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。
そして、刹那の間に考えを巡らせる。
この人に、木の上の人のことを教えたら、封筒が戻ってくるかも知れない。
でも、教えた瞬間に怒って封筒を破り捨てられたら・・・。
あれは大事な物が入っているはずの封筒だ。絶対に無事にジェイドさんの手に渡らなくちゃ、彼だけじゃなくて、あれに関わる人達にも迷惑がかかる・・・。
・・・なんてこと、しちゃったんだ私・・・。
そう思うけど、浅はかだった自分を後悔しても仕方ない。今さらだ。
私は目の前の白騎士に向かって、小さく首を振った。
「ごめんなさい。
私、気分が悪くてここで休んでて・・・」
とさ、と軽い音を立てて、上から人が降ってくる。
「・・・助かったよ」
何枚かの葉っぱが舞い散って、その中の1枚が私の頭に乗ったような気がして、手を伸ばす。
「ああ、取ってあげる」
彼が私のしようとしていることに気付いたのか、手にしていた封筒を差し出した彼が、さっと背後に回った。
私は咄嗟に封筒を受け取って、背後に神経を集中する。
葉っぱを取ろうとしてくれている彼は、見た目の割に不器用なんだろう。
髪に絡んでしまったのを力技で切り抜けようとしているらしく、何度か引っ張られる感覚があって、私は顔を顰める。
すると、ふいに頭が軽くなった。
「はい、取れた」
彼の声がして視線を上げると、そこには葉っぱと、赤い花の髪留めが。
「あ、どうも」
ずいぶん力を入れるんだなと思ったら、髪留めごと葉っぱを取ったらしい。
私は彼の言葉にお礼を言いながら、手を差し出した。
この際だから、何も知らない振りをして封筒を届けて、髪を結い直してもらえばいいや・・・そんなことを考えながら。
けど、彼はなかなか動こうとしない。
当然手のひらに髪留めを乗せてくれると思っていた私は、目の前でにこにこしている彼に催促した。
「返して下さい。髪留め」
自分でも、普段出さないような低い声が出てしまったと自覚しながらも、不快感を押し隠すことなんか出来そうにない。
私の大人度はまだまだ、ジェイドさんとは程遠いらしい。
眉根を寄せた私に、彼がおもむろに一歩、近づいた。
とはいえ、彼が着地した場所がもともと至近距離なのだ。
そこから一歩踏み出せば、自然と私が距離を保とうと一歩退くことになる。
さく、と草を踏む音が、やけに耳元で響く。
嫌な予感が、背中を走った。
・・・この人、怖い。
最初から怪しい人だとは思った。
思ったけど、こんな、明るい場所でにじり寄ってくるような、変質者めいた人だとは思わなった。
大体ここは王宮で、紅の騎士団が警戒している場所なんだから、そんなに簡単におかしな人が徘徊出来るような所じゃない。
自分を勇気づけるように考えを巡らせていると、それを頭ごなしに否定するように、彼が手を伸ばしてくる。
「・・・やっ・・・!」
一瞬殴られるのかと思って体を竦んだ私の腕を、彼の手がぐいっと掴んで引き寄せた。
ふわっと足元が浮くような、体が引き上げられるような感覚に、眩暈がする。
ジェイドさん、と名前を呼ぼうとした瞬間、驚きに息を飲む。
彼が、私の首元に鼻先を近づけたのだ。
「ひ、ぁ・・・っ」
変な声が出て、思わず口を噤む。
すると、すぐに彼が私から離れた。
掴まれていた腕が自由になって、指先に勢いよく血が流れ込むのが分かる。
・・・い、痛かった・・・。
軽く痺れているような感覚に、自分がどれだけ強い力を加えられていたのかを思い知って、呼吸が浅くなってしまう。
過ぎてから恐怖を感じるなんて、どれだけ鈍感なんだろう。
だからいつも、ジェイドさんにお小言を言われるんだよね、なんて・・・半ば現実逃避気味に頭の隅で考えた。
そんな中、呆然としながらも腕の痛みを感じて立ち尽くしていた私は、彼の視線に晒されていることを思い出して我に返る。
気づけば、苦々しい表情をして整った顔立ちが台無しになった彼が、静かに私を見ていた。
そして、その表情を向けたまま私の目を見つめて、口を開く。
「・・・少しだけど、男の匂いがする」
ぽつりと、吐き捨てるように彼が呟いた。
そして、自問自答するように言葉を紡ぐ。
「誰だ、これ・・・なんか、知ってる気がするんだけど・・・」
木陰に風が吹いて、少し乱れた私の髪を揺らす。
小鳥の囀りの合間を縫うようにして、彼が言う。
「・・・嫌な匂いだ」
その視線の強さに、私は逃げ出したくなった。