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「お姉ちゃんは、このお屋敷に来るのは初めてなの?」
私の質問に、お姉ちゃんがきょとん、としたカオをして瞬きを繰り返した。
そしてすぐに頷いて、ガーゼの羽織りを脱ぎながら口を開く。
「うん、初めて」
視線は部屋のいろいろな所に向けられていて、やがて私の所に辿りつく。
「すっごく広いんだねぇ。
・・・さすが補佐官さまのお屋敷・・・」
ほぅ、とため息をつきながら言う彼女に、私はお茶の用意をする。
もう何度もジェイドさんにお茶を淹れてるから、これだけは手慣れてきたと胸を張れると思う。
あっちの世界にいた頃は、刃物が怖かったこともあったけど何より興味も関心もなくて、普段は全く家事をしなかった。
せいぜい自分の服を畳んで、タンスにしまうくらいのもので・・・本当に、甘えてた。
今だってお屋敷には使用人さん達がいて、掃除も炊事も洗濯も、ほとんど彼らがしてくれる。
それを羨ましいと思うか、怠け者と思うかは人それぞれだと思うけど・・・さすがに下着だけは自分で洗濯したいとお願いした時に、ジェイドさんが言ったのだ。
「彼らに職を提供するのも、私の仕事のうちですから」と。
それ以来、そんな考え方もあるんだなぁ・・・と流されて今に至るわけで。
そんな私はお姉ちゃんの目にどう映るんだろう・・・と考えながら、沸かしたお湯をポットに注いでいると、彼女がお腹を擦りながら腰を下ろす姿が目に入る。
「大丈夫?」
「ん、平気だよ」
だいぶ目立つようになったお腹は、赤ちゃんが順調に育っている証。
冬のある日に突然もといた世界に戻された彼女のお腹には、新しい命が宿っていて。こっちに戻ってくるまでの間、お腹の赤ちゃんにはホタルが宿っていなかったから、こっちの胎児とは成長の仕方が少しずれてるらしい。
だから、予定日もいまいちハッキリしないんだそうだ。
パンパンに膨らむまで待って、あとは数日置きに検診して、予定日を割り出すみたい。
・・・ほんとに、新しい命を育むというのは、大変だ。
感心しながらカップにお茶を注いで、お茶菓子と一緒にトレーに載せて持って行く。
「ありがとう。
・・・なんだか不思議な感じがするなぁ」
お礼を言ってカップを傾けた彼女は、ひと息ついてから呟いた。
「つばきは、ジェイドさんの奥さんになったんだねぇ」
「うぅ、しみじみ言われると照れる・・・」
向かいに腰掛けてお茶を啜っていた私は、改めて言葉にされることに、くすぐったさを覚えて視線を彷徨わせる。
彼女はそんな私を小さく笑ってから、小首を傾げた。
「ねぇ、ジェイドさんとは、どんなふうに暮らしてるの?」
「・・・って、言われてもなぁ・・・」
可愛い訊き方をするくせに、そこには白状しなさい、という雰囲気が漂っている。
お茶菓子に出したクッキーは、熊さんが作ってくれたものだ。
チョコチップの入ったそれを1つ摘まんだままの格好で、私は言葉に詰まってしまった。
お姉ちゃんのくすくす笑う声と表情が意地悪で、頬を膨らませたくなるのを堪える。
「普通の生活だよ。
一緒に寝て、起きて、ごはん食べて、別々に仕事に行って・・・。
帰ってから一緒にごはん食べて。
家で仕事してるジェイドさんにお茶を淹れたりとか、カップケーキ作ったりとか・・・」
「ふぅん・・・」
一気に言葉を並べてクッキーを頬張った私に、彼女は何か言いたそうに相槌を打ってから、にんまり笑った。
「幸せそうだねぇ」
「そりゃあ、まあ、ねぇ」
否定することもないかと思うけど、すんなり頷くのもなんだか恥ずかしくて、曖昧に頷いてみたり言葉をゆだねてみたり。
そんな私を見て、お姉ちゃんは息を吐いた。
「・・・良かった。ほんとに」
その表情に優しさが滲んでいるのに気づいた私は、言葉が出なくなってしまって、半分見とれるようにしてお姉ちゃんの顔を見つめる。
すると、彼女が苦笑混じりに言葉を紡ぐ。
「つばきったら、いつもウチに駆け込むみたいに来るじゃない。
ジェイドさんと何かあった時ばっかり来るから、ちょっと心配してたんだよ」
眉を八の字にしている彼女に、私はやっと言葉を見つけて口を開いた。
「・・・いつも心配かけて、ごめんなさい」
「ううん、そういうつもりじゃなくて・・・。
ただ、良かったなぁ、って・・・いかついお兄ちゃんも心配してるからさ。
今度は、ジェイドさんと仲良く遊びに来て欲しいなぁ・・・」
「うん、そうする。
・・・それで、いかついお兄ちゃんって、シュウさんのこと?」
尋ねた私に、お姉ちゃんは曖昧に微笑んだ。
「それで、外の木箱にワイン隠しててね、」
「えー・・・あ、」
お喋りを楽しみつつ手を伸ばした私は、お茶菓子のクッキーがなくなりそうなことに気付いて、出した手を引っ込めた。
「つばき、お腹すいてるの?」
「んー・・・そういうわけじゃ、ないんだけどさ・・・」
お姉ちゃんが怪訝な顔をして見ているけど、私は自分でもよく分からなくて首を捻る。
「なんか、手が伸びちゃうんだよね。
口寂しいって言うのかなぁ・・・これ、絶対太るよね」
なんとなく、食べ過ぎだと言われたような気持ちになった私は、頬を抓りながらぼやいた。
確かに、ほっぺとか太もも辺りにお肉がついたような気がする。
・・・もしかして、胸が大きくなったような気がしたのは、そのせいか。
「口寂しいかぁ・・・」
言葉の通りに何だか口寂しくて、何杯目かになるお茶を含もうとカップを傾けている私を見ながら、彼女は何かを呟いて、そして、小首を傾げた。
「もしかして・・・つばき、妊娠してるんじゃ・・・?」
一瞬、時が止まったのかと思った。
「えぇぇっ?」
突然の言葉に、鼓動が速くなるのを感じて息を詰める。
そして、ぐっと体の芯に力が入るのを感じた刹那、頭がクラクラして額を押さえた。
お姉ちゃんのひと言が、そんなにショックだったのかと自分で自分にがっかりしてしまう。
「いやいや、まさかそんな・・・」
力の抜けた喉で、掠れた声を絞り出す。
すると、もしかして、と言ったきり黙っていた彼女が口を開いた。
「でも、さっき貧血で倒れかけたって言ってたじゃない。
それにトマトばっかり食べてるって・・・」
「それは、でも・・・そういうことだって、」
「ちゃんと調べた方がいいと思うなぁ・・・」
遮るように放たれた言葉に視線を移すと、お姉ちゃんが、さっきまでとは別人なんじゃないかと思うくらいに真剣な眼差しを私に向けていたことに気付く。
それにひるんで、咄嗟に言葉が出なかった私は、ただ俯いて両手を握りしめた。
「・・・ちゃんとって、どうするの・・・?」
「病院、かな」
「病院・・・」
その単語が出てきた途端に、鼓動が速くなる。
組んだ手は汗をかいて、なんだか息が苦しいような、ここから逃げ出してしまいたいような、そんな気持ちになってしまう。
突然突きつけられたことに、まだ心が追いつけない。
このお腹の中に別の命が入っているなんて、想像しただけで未知過ぎて頭がパンクしそうだ。
固まってしまった私を、彼女が苦笑する気配を感じて、私は息を整えようと深呼吸をする。
酸素が脳にまわっていくような感覚に浸っていると、彼女は私を真っすぐ見つめて言った。
「一緒に病院、行こうね」
そのひと言からは、あっという間に時間が過ぎた。
お姉ちゃんは「次の検診の時に予約してくるね」と言い残して。
そしてその日は、10日もしないでやってきたのだ。あっという間だったのを覚えている。
これまでの人生で、一度だけ検査薬を使ったことはあった。
・・・ちゃんとしてたはずなのに・・・まあ、結局何もなかったけど。
ともかく、どうしようもなく意識の低い触れ合い方をしてしまったのだろう。
私は十分注意していたと思っていたけど、それに関しては、ものすごく反省している。
けど今は結婚だってしてるし、ジェイドさんの稼ぎに不満などあるはずもない。
ましてや、彼と生きていくと決めたし、彼と一緒に子どもを産み育てるこの環境に、不満などあるはずもないのだ。
だから、新しい命を拒絶しようだなんて、そんなことは1ミリたりとも考えなかった。
脳裏をよぎることすら、なかった。
それでも私が病院に行くまで不安だったのは、自分の体が変化することへの戸惑いのようなものだったのかも知れない。
うまく言葉に出来ないけど、知らないものだからこその怖さ、というような。
そうして診察を受けた私は、お姉ちゃんの予想通り妊娠していると告げられたのだった。
実は、妊娠が分かっても、私はジェイドさんに話すのはもう少し先にしよう、と決めていた。
理由はいろいろあるけど、一番は“驚く顔を見たい”からだ。
そして、どう話せばいいものかと考えていた矢先、私はジェイドさんの仕事の書類が机の上に置きっぱなしにしてあるのを見つけて、ひらめいた。
王宮の執務室に届けて、そのついでに打ち明けてはどうかと。
その考えは私を、久しぶりに手を叩きたくなるような気分にさせた。
彼はきっと驚いて、喜んでくれる。
空色の瞳を大きく見開いて、息を止めて。
それからきっと、甘く微笑んで私を抱きしめてくれる。
そんな光景を思い浮かべながらの道のりは、私の胸の中に幸せな気持ちを溢れさせた。
早く会って言いたい。
早く教えたい。
そう思って辿りついた彼の執務室の前・・・そこには、いつもの鉄子さんも、代わりの紅侍女も紅騎士もいなかった。
おかしいな、と思った次の瞬間、下の階から黄色い悲鳴が聞こえてくる。
「・・・あぁ、皇子様か」
すぐにその存在が思い当たった私は、そっとため息を吐いた。
高貴な方が移動中だから、警備の紅の人達が動員されているんだろう。
「まあいいや」
鉄子さんにも会いたかったな、なんて思いながらも、気持ちはすでにジェイドさんのところに飛び立っているのだ。
早くノックして、中に入れてもらおう・・・そう思って、片手を軽く握って胸の辺りまで持ち上げた、その刹那。
「・・・いい加減に諦めて下さいませんか」
氷のように冷たい声が、ドアの向こうから漏れてきた。
・・・ジェイドさんの声なのに、ジェイドさんじゃないみたい・・・。
お行儀が悪いな、と自覚しつつも、ドキドキしながらその声に耳を傾ける。
すると、同じ声が耐えかねた、というかのように鋭い声色で言い放った。
「・・・だから、今はつばきで手がいっぱいだと言っているのです」
足元のぐらつきは、貧血なんかじゃない。