3
小鳥がパンくずを求めて、朝の庭に降り立つ。
「おいでおいでー」
チチチ、と囀りながら私の方へと近づいてきて、足元でパンくずが落ちてくるのを待っている。
「うん、今あげるからね」
朝の支度が終わってから庭に出るのが習慣になって、どれくらい経つだろう。
私が雪の嵐の日にこの庭に落ちてきて、雪解けから春になって、その頃からだから・・・実際には、ほんの数カ月くらいだろうか。
もっと多くの時間を、このお屋敷で過ごした気がしてしまうのは、短い間に大変な出来事が満載だったからなのか。
小鳥たちは、パンくずを持って庭に出る私を覚えてくれたのか、毎朝必ず同じくらいの時間にやって来る。
そして、私が足元に放り投げたそれを、時折仲間同士で小さなケンカをしながら啄む。
最近は太陽が朝早くに昇るから、庭に出る頃にはずいぶん暑くなってしまう。
もしかしたら小鳥たちも暑いかも知れないから、ジェイドさんにお願いして、水浴び場を作ってあげた方がいいかも知れないな。
「今日も暑くなりそうですね。
そろそろ庭に、パラソルを用意しましょうか」
「・・・ジェイドさん!」
突然声がかけられて振り返った私に、彼が困ったように微笑みながら近づいてくる。
大きな声と動作に驚いたらしい小鳥たちが、一斉に飛び立った。
「つばき・・・」
「あー・・・」
足元に残ったパンくずを見て声を漏らした私に、彼がくすくす笑いながら手を伸ばす。
「大丈夫ですよ。
そのへんに蒔いておけば、そのうち戻ってくるでしょう」
おでこに手が当てられて、私は上目遣いに彼の目を覗きこむ。
空色の瞳は、たっぷり眠ったからなのかスッキリしているように見える。
「・・・ん」
なんとなく頷いた私に、彼が柔らかく微笑んで口を開いた。
「体調は?」
「元気だよ?」
小首を傾げれば、彼が小さく吐息を漏らす。
夏の朝の庭は、小鳥たちもいなくなってしまったから静かだ。
お屋敷は街中から離れているから、人の気配もない。
だから、庭に出るとそこだけ時間が止まったみたいに、すごく穏やかで。
「今日は、焼き菓子店はお休みでしたね」
「うん。ミエルさん、旦那さんとお出かけするんだって。
・・・ヘイナの街まで、材料の買い付けも兼ねて、って言ってた」
少しひんやりした手がおでこから離れていって、代わりにひとつ、キスが降ってくる。
なんだか何かのおまじないみたいだな、なんて思っていたら、彼がぽつりと呟いた。
「ヘイナですか・・・」
「どしたの?」
何かを考える素振りを見せる彼に、小首を傾げて尋ねる。
すると彼は私の手を取って、木陰に向かって歩き始めた。
広い庭には、たくさんの木や花が植えられている。雪がたくさん降った時期には気付かなかったけど、春になると色に溢れた素敵な空間になる。
庭師さんがいるのかと思っていたら、植えたのは教授とリジェルさん・・・ジェイドさんのお父さんとお母さんで、手入れは食事を作ってくれている熊さんがしているそうだ。
・・・いつか私も、芋虫と仲良く出来るようになったら庭いじりをしてみたいけど・・・。
草の上に彼が腰を下ろして、自分の膝を叩く。
「え、え?」
明らかに“どうぞ”と目が言っているけど、すんなりそこに座れるだけの度胸はまだない。
戸惑って思わず後ろへ一歩下がろうとする私の手が、あっさり捕まる。
「ほら、いつまで日差しの下にいるんです?」
そう言った彼が、くいっと手を引っ張って。
にこにこと笑みを浮かべるのを見ていると、なんだか恥ずかしさに腰の辺りがムズムズしてきて、顔に熱が集まってくる。
「えぇ・・・」
照れを隠すように唸ると彼がもう一度、くいっと手を引いた。
「ほら」
催促する彼が、あんまり堂々としてるから、なんだか私の方がワガママを言ってるんじゃないか、なんて錯覚してしまいそうだ。
「・・・ダメですか?」
上目遣いに言われてしまっては、もう降参するしかない。
私は内心で天を仰いで、ため息を吐いた。
彼は、私がこんなふうにお願いされると弱いってことを、よく知ってる。さすが補佐官さま。
「・・・もうっ」
勢いをつけて彼の膝の上に体重を預ける。
すると蔦のように彼の腕が私に巻きついて、重心がぐらつかないように支えてくれた。
木陰を通り抜けていく風が気持ちよくて、思わず目を細めていると、彼がそっと囁いた。
「つばき、」
「ん・・・?」
私がジェイドさんに気を取られている間に、小鳥たちが戻ってきたらしい。
蒔いておいたパンくずを啄みながら、囀っているのが聞こえてくる。
その気配を耳だけで捉えて、私は彼が続きを囁くのを待った。
「どこか、行きたい場所はありますか?」
秘密の話をするように言う彼に、私は小首を傾げる。
「行きたい場所・・・?」
「ええ。
・・・あまり長くは、王都を離れることは出来ませんけど・・・」
「どしたの、急に」
その表情があんまり晴れやかでないことが気になった私は、そっと彼の目を覗きこんだ。
さっきまで私を映していたはずの空色は、あっちへこっちへと視線を彷徨わせていて、なんだか後ろめたそうにしている。
「ジェイドさん?」
「・・・つばきも、普通の夫婦のように出かけたりしたいでしょう?」
バツが悪そうに話す彼のカオが、まるで悪戯を白状した子どもみたいで可笑しくて、おまけに可愛くて仕方ない。
私は衝動のままに彼を抱きしめて、我慢しきれなかった笑いを零してしまった。
当の彼は、突然動いた私に困惑しているのか、蔦のように絡ませていた腕をぴくりと震わせて、一瞬呼吸を止める。
「ミエルさん達が羨ましいだなんて、全然思ってないのに」
気にしてくれて、ありがとう・・・という思いを込めて、言葉と一緒にもう一度、戸惑う彼をぎゅっと抱きしめた。
さらさらと流れる金色の髪が、頬を撫でてくすぐったい。
すると、少しの間緩んでいた蔦が、再び絡まってくる。
「・・・でも、世の中の夫婦は、」
「こら」
ぐちぐち言いたそうな彼の頬を摘まんで、私はほんの少し語気を強めた。
むにに、と摘まんだ頬を引っ張ると、とてもじゃないけど補佐官さまには見えなくなる。
それが可笑しくて可愛くて、吊り上げた目じりが下がってしまったのが自分でも分かった。
「ひゅふぁひ~」
「あはは、へんなかおー」
情けない顔を晒させて喜んでるなんて、と思う反面、こうやって私の好きなようにさせてくれることが、とっても嬉しい。
言葉にならない言葉で私を呼んだ彼から手を離すと、引っ張られていた頬を若干膨らませた彼が、私を見つめていた。
「もう・・・」
「ごめんね。
でも・・・ほんとに、全然気にしてないんだよ」
小首を傾げた私に、彼は小さく首を振る。
「・・・我慢、してるんじゃないですか?」
「普通って言葉に拘ること、ないと思うけど。
・・・私、今幸せいっぱいだし。
だから行きたい場所は、ジェイドさんが引退してから考えればいいよ」
耳元で囁いて、そのままこめかみに音を立ててキスをする。子どもの頃、元気がない時にパパがよくしてくれたことだ。
木陰に爽やかな風が吹いて、金色の髪がふわりと揺れる。
そういえば子どもの頃は、金髪の友達が羨ましかったっけ・・・なんて、そんなことを思い出していると、彼がふいに息を吐いた。
我に返った私は、その表情がどこか自嘲気味なのが気になって問いかける。
「ジェイドさん?」
すると、彼はもう一度短く息を吐いてから、口を開いた。
「なんだか、格好悪い自分ばかり、あなたに見せてますねぇ・・・」
血迷ったことを口走って叱ってくれた時も、ヴィエッタさんに剣を突き付けられた時も、王宮の食堂で紅の団長を睨みつけた時も、ホタル絡みでいろいろあった時も・・・それから、私をこの世界に繋ぎ留めてくれた時も。
いつだって、ジェイドさんは格好良かった。
特にあの時、普段声を荒げたりしない彼が必死に私の手を掴んでくれた、あのカオなんて、一生忘れられないと思うのに。
・・・もしかしたら、これが俗に言う“恋愛フィルター”ってやつなのかも知れないけど。
都合の良いことだけが私の中に残るようになってるなんて、すごく便利だと思うのは、少しポジティブ過ぎるんだろうか。
「そんなこと、ないと思うけどなぁ」
今までを思い出しながら言葉を紡ぐと、彼が笑う。
「つばきは良い所しか見えてないんですよ」
そう苦笑混じりに呟くのを聞いた私は、なんだかお腹の底から何かが湧いてくるのを感じて、思わず言葉を発していた。
「・・・てゆうか、ジェイドさんお仕事行かなくていいの?」
よく分からない悔し紛れのひと言に、彼はにっこり微笑んで、私にそっと耳打ちした。
「お姉ちゃん!」
「おはようございまーす」
玄関ホールに現れた未菜お姉ちゃんが、ひらひらと手を振って、私の後ろに立っているジェイドさんに向かって会釈する。
「お邪魔します」
ふぅ、と息をついた彼女に、ジェイドさんが頷いた。
「いらっしゃい」
いつもより長く庭に出ていたのは、お姉ちゃんを迎えに車を動かしていたから、だそうだ。
今日は旦那さんのシュウさんが、家業のことでお勉強することがあって王宮に出ることになっているから、お姉ちゃんは私とこのお屋敷でお留守番をすることになったらしい。
ジェイドさんは昨日の夜のうちに話そうと思っていたみたいだけど、私がキッチンで貧血を起こしたから、タイミングを逃してしまったそうだ。
結局、従姉妹の来訪は私にとって、嬉しいサプライズになった。
「おはよう」
低い声が響いて、少し開いていた扉の向こうから男の人が入ってくる。
「シュウさん!」
「車で待っていればよかったのに」
嬉しくて声を上げた私とは対照的に、ジェイドさんが渋い顔でぼそりと呟く。
・・・本当は大好きなくせに。素直じゃないんだから・・・。
同じようなことを考えていたのか、お姉ちゃんと目が合って、どちらからともなく苦笑する。
「リア、最近は苛められてないか?」
「うん、大丈夫です」
ジェイドさんのことは綺麗に無視したシュウさんは、お姉ちゃんを呼び戻すために一緒に行動しているうちに、いつの間にか私を妹のように可愛がってくれるようになっていた。
蒼の騎士団で団長さんを務めていたこともあるからなのか、いかつくて怖い外見からは想像を絶するような面倒見の良さがある。
それは、この世界との繋がりが少ない私にとって、とっても心強いことだ。
「いつでも、嫌なことがあれば家出してくるといい」
「恒例行事になっちゃったねぇ」
力強く言葉を紡ぐシュウさんを見て、お姉ちゃんが苦笑しながらも楽しそうに言うけど、私の背後では、ジェイドさんが大きくため息をついている気配がしていた。
「ふざけてないで、行きますよ」
力のない声に仰ぎ見ると、ジェイドさんが沈痛な面持ちをしていた。
そのカオは、もう補佐官さまだ。
「じゃあ、行ってきますね」
「うん、気をつけてね」
出かけのやり取りをしている私達の横で、お姉ちゃんとシュウさんも何やら言葉を交わしている。
残念ながら、自分のことで手がいっぱいの私には聞き取れないけど、きっとラブラブな何かに溢れているんだろうな。
「お喋りに夢中になって、無理しちゃダメですよ?」
「はーい」
お小言の中にも甘い何かが含まれているのを感じて、私は片手を小さく上げる。
見上げた先の瞳が、柔らかく細められた。
「ジェイドさんも、ちゃんと休憩取らなきゃダメですよ?」
「はいはい」
口調を真似した私に苦笑して、彼が少しだけ屈みこむ。
そして、私のこめかみにキスを落としてから、悪戯っぽく微笑むと、「それじゃ」と言って颯爽と出て行った。
一瞬の出来事に、ぽかん、と口を開けて固まった私が視線を感じて我に返ると、そこには居心地の悪そうなシュウさんと、両手で頬を押さえて口を開けているお姉ちゃんの姿が。
シュウさんの感情の動きは全然分からないけど、お姉ちゃんの方なら分かる。
たぶんあれはきっと、心の中で「わぉ」と感嘆の声を上げているに違いない。
てゆうか、2人だって似たようなことばっかりしてるの、私は知ってるんだから。
家出して泊ると毎回そういう場面を見ちゃう、こっちの気持ちにも、たまには、なってみればいいと思います。