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目の前がくらくらチカチカして、しゃがみ込んでいるというのに倒れこみそうだ。重心がぐらついて、自分の体重を支えられない。
違う。眩暈が酷くて、視界がぐにゃぐにゃしてるからだ・・・。
「・・・あ、やば・・・」
シンクの縁を掴んでいた手がずるり、と離れる気配に声が漏れる。
・・・あ、ダメだ・・・。
いよいよ観念した私の体が傾いだ、その瞬間。
べしゃり、と床に崩れ落ちるかと思った私の体が、ふわりと抱きとめた腕が。
「・・・ああもう、」
ため息混じりの声に、目を閉じてしがみ付く。
「声が聞こえたから来てみれば・・・。
どうしたんです?
・・・怪我をしたわけじゃあ・・・なさそう、ですね?」
ジェイドさんの胸に額を押しつけたまま頷くと、また1つため息をくれた。
まだ目の奥がチカチカしている気がしながら、億劫なのを我慢して口を開く。
「トマト・・・切って、くらくらして・・・貧血かも・・・」
「なるほど」
一度だけ、ぎゅ、と腕に力を込めた彼は、へたり込んだままの私の膝を掬って、抱きかかえて立ち上がった。
ふわっと浮き上がる感じに、思わず息を飲んだ私は、気づくと間近で空色の瞳に覗きこまれていたことに、しばらくしてやっと気づく。
瞳の奥の、奥の方まで覗きこんで何かを探しているような彼に小首を傾げると、何度か瞬きをした後に苦笑いされた。
「とりあえず、眩暈は治まったみたいですね」
「うん、と・・・たぶん」
「良かった」
目を細めた彼は、視線を調理台に投げる。
ぶつ切りの真っ赤なトマトが、無造作にお皿に並んでいる。
「1人で、椅子に座ることは出来ます?」
眩暈も治まったし、頭の芯が冷えて血の気が引いていく感じもしない。
これならもう大丈夫そうだと、ジェイドさんの言葉に頷いてみる。
すると彼は、私を手近な椅子に座らせて調理台を片づけ始めた。
「ごめんなさい、お仕事してたのに・・・」
天下の補佐官様になんてことさせてるんだろ、と思ったら、咄嗟に謝っていた。
そんな私の言葉を、彼は背中で笑って済ませてしまう。
・・・こういう時のジェイドさん、すっごく大人だなぁ・・・。
「いいよ」とも「気にするな」とも言わないところが、とっても素敵だ・・・と、彼にメロメロな私は思うのだ。
・・・こんなに素敵な人のつ、妻になっちゃったわけか・・・。
「このトマトは?」
その背中に見とれていた私は、彼のひと言で我に返った。
完全に不意打ちで、慌てて口を開く。
「た、たべる!」
慌てたからなのか、思いのほか声が大きく響いた。
きっと驚いたんだろう、彼が音がしそうなくらいの勢いで振り返って私を凝視する。
「嘘でしょう・・・?!」
「ほんと、倒れる寸前だった人が食欲を優先させるなんて正気じゃないです」
ぐちぐちとお小言をくれる彼は、その口調の割に私を優しく抱き上げた。
その私は、トマトの載ったお皿を持って大人しくしてるんだけど・・・。
実は、横抱きにして抱き上げられると、彼の喉仏のあたりが目の前にくる。
若々しいけど決して若くはない喉は、匂い立つようなセクシーさを備えてると思う。
夜になると顎には無精ひげが伸びてきて、それも男くさくて好き。
首の後ろで香水と彼の匂いが混ざり合ったのを嗅ぐと、体の中心がきゅんと反応してしまう。
・・・ああ、私、変態かも。
・・・でもそれならジェイドさんと、需要と供給のバランス取れてるのか。
体調が急に悪くなったことなんかどこ吹く風、私はぼーっとそんなことを考えていた。
すると、お小言に返事もしなくなった私を不審に思ったんだろう、彼が私の目を覗きこんでくる。
「つばき?」
「・・・ん?」
小首を傾げれば、ふわりと微笑まれて鼓動が跳ねてしまう。
ずっと、この目を柔らかく細めたような微笑にやられっぱなしだ。
恥ずかしさを紛らわそうと瞬きを何度もする私を見た彼は、苦笑しながらドアを開ける。
「トマトは、もし夜中にお腹がすいて目が覚めてしまったら食べなさい。
大丈夫、逃げませんから。ね?」
ソファに下ろされて、目だけでトマトの行方を探していた私は、彼のひと言に振り返った。
見れば、今まさに彼が部屋に備え付けられている小さな冷蔵庫に、お皿をしまうところ。
「・・・やっぱり、だめ?」
確かに、倒れそうになったくせに食い意地が張るなんて、正気じゃないとは思うけど・・・。
彼が、世界で一番私に甘いってことを承知の上で、一応食い下がってみるけど、あんまり効果はなかったらしい。
思い切り渋いカオで、ひと睨みされてしまった。
こうなっては、閉口するよりほかない。
「はぁーい・・・」
頑張って切ったのに、口に出来たのはひと切れだったことを思い出して、なんとも残念な気持ちになってしまった私は、肩を落として息を吐いた。
そして思い出す。
「あ、そういえばカップケーキ・・・」
彼は私を抱き上げていて、カップケーキの載ったお皿なんか持てるはずもないのだ。きっと、まだキッチンに置いてあるに違いない。
・・・取って来なくちゃ。
思い立ったまま立ち上がろうとすると、急に動いたからなのか、また血の気が下がる感覚に襲われてしまった。
目の前にチカチカ点滅するものが見えて、思わずまた座りこむ。
目頭を押さえて深呼吸していると、ふいに頭を撫でられたのが分かって、顔を上げる。
点滅は一瞬で、目を開ければ、彼がドアを開けるところだった。
「取りに行ってきます。
つばきは、着替えてベッドに入ってなさい」
「もう・・・?」
自分が思うように動けない情けなさも、彼が行ってしまう寂しさも、いろいろがごっちゃになった私が口を尖らせると、彼は苦笑を浮かべて戻って来る。
そして、体を屈めたかと思えば私の前髪をそっとよけて、額にちゅ、と音を立ててキスをした。
「え、ぁ・・・?!」
「いい子ですから、ね?
私も早く仕事を片づけて、一緒に寝ますから」
かちゃ、という音を、すごく遠いところで聞いた私は、意識がゆっくり浮上していくのを少し不快に、少し怖く感じて息を吐く。
目を開けようともがいていると、くすくす笑う声が聞こえてきた。
「・・・んー・・・じぇいどさん・・・」
何笑ってるの、と言いたくて私は彼の名前を呼ぶ。
でも彼は返事もしないで、ただそっと私の頭を撫でた。じんわりした熱が、ゆっくり頭の先から肩の方に向かって通り過ぎていく。
時々、首のあたりが空気に晒されるのを感じる。それから、しゅ、と何かが擦れて、パラパラと落ちてくるような・・・それは不思議な感覚で、でもすごく気持ちがいい。
大きな手の動きに沿って意識を働かせていくうちに、もう少しで目を開けられそうな気がしてきて、私は息を吸い込んだ。
でも、そうするとジェイドさんの匂いが肺いっぱいに広がって、再び意識が沈んでしまう。
そうやって浮いたり沈んだりを繰り返していると、ふいに体が引っ張られた。
「つばき、離して」
くすくす笑いながら私の体を引っ張る彼は、見かけよりもずっと力がある。
私はぐいぐい引っ張られるのが不快だったのと、体が揺さぶられるのに助けられて、ようやく目を開けた。
「引っ張らないでよぅ・・・」
むすっとしながら告げると、彼は困ったようなカオで微笑む。
私の隣に横になって、肘をついて間近から見下ろしていたらしい。ものすごく近くに顔があって、起きぬけにドキドキがやってくる。
寝室の照明は落とされていて、足元にわずかな明かりがあるだけだ。
間接照明に浮かび上がる金色の髪が、糸のように流れて落ちている。それは出会った時よりもずいぶん伸びて、今では前髪が目に入りそうなのが気になって仕方ない。
目に飛び込んできた彼の顔を眺めていた私に、彼が小さく笑って手を伸ばした。
「もしかして、1人で眠るのが寂しかったんですか・・・?」
囁く声に、鼓動が跳ねる。
ずいぶん上から目線な響きだけど、それに込められた甘さに、気がつけば私は素直に頷いてしまっていた。
そんな私を見て、彼が嬉しそうに目を細める。
「でもね、私も枕がないと眠りづらくて。
だから返していただけると助かるんですけど・・・?」
「まくら?」
きょとん、と何度か瞬きをした私は、彼が指差しているものに視線を移して気がついた。
彼の枕を抱きしめているうちに、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。
・・・だからジェイドさんの匂いがしたのか・・・。
思い至って黙っていると彼が動く気配がして、同時に抱きかかえていた枕が、すっと抜かれる。
「これはもう、必要ありませんよね」
「ん・・・」
「それで、」
いつものように彼の腕が私を抱きこんで、口を開いた。
肩口に頭を預けると、大きな手が髪を撫でていく。
「体調は?
気分が悪いとか、頭が痛いとか・・・そういうことは?」
「だいじょぶみたい。
ジェイドさんは、お仕事終わった・・・?」
彼の問いに頷いてからそっと尋ねる。
すると、同じように頷きが返ってきた。
「なんとかね。
・・・カップケーキのおかげで、頑張れましたよ」
「そっか、良かった」
ほっと息を吐くと、真夏の近づく庭から聞こえる虫の音が、沈黙を埋めてくれる。
1人きりで聞いていると雑音のようなのに、ジェイドさんと一緒だと思うと、心地よく耳に響くから不思議だ。
これなら、きっとまたすぐに眠りに堕ちるだろう。
でもまだ、眠りたくない。昼間別々に過ごしているから、私たちがゆっくり話す時間を持てるのは、夕食の時か、こうしてベッドに入った後くらいだ。
たまに、言葉を紡げなくなるくらいに翻弄される夜もあるけど。それは置いておいて。
「そういえば、」
眠気がやってきたのを感じながら、私は口を開いた。
何か話していないと、目が閉じそうだ。
「どうして、キッチンに来てくれたの?」
「だって、私を呼んだじゃないですか」
すぐに返ってきた答えに、私は内心で首を傾げる。
そっと体を離してその目を見ると、どうしてそんなことを聞くのか、とでも言いたそうに彼が私を見つめていた。
「呼んだけど・・・聞こえたの?」
「聞こえましたよ?」
キッチンとこの部屋じゃ、ずいぶん離れてる。階だって違う。それなのに当然のように聞こえたという彼が、不思議でならない。
私が眉根を寄せていると、彼が「あ」と声を漏らした。
「もしかして、言ってませんでしたか・・・?」
「何を?」
彼が独り言のように呟いたのに疑問を投げて、その顔を見る。
すると、彼は視線をあちらへこちらへ彷徨わせてから、口を開いた。
「いつだったか、匂いのことを話したでしょう?
あの時に話したつもりでいたんですが・・・」
「・・・あんまり覚えてないや・・・」
お互いに記憶を手繰り寄せては小首を傾げて、相手を見つめる。
先に言葉を発したのは、彼の方だった。
「あの時は、私も手がいっぱいだったので・・・。
改めて説明しておいた方が良さそうですね」
「うん。
・・・大事なこと?」
「そうですね・・・大事というか、この世界では一般常識、ですか」
暗黙の了解ってやつか。それは教えてもらわないと困るかも知れない。
私は「ふぅん」とだけ呟いて、先を促す。
「男性はね、番の居場所が匂いでなんとなく分かるんです。
それに、名前を呼ばれると感知出来ます」
「・・・すごいねぇ」
素直に感心した私に、彼は小さく笑みを零した。大きな手で、私の頬をひと撫でする。
「でもね、相手が受け入れてくれていないと、全く感知できないんです」
「どういう意味?」
言葉が難しいのと眠いのとが、理解する力を奪っていくようで、私は眉間にしわを寄せた。
すると、彼がまた小さく笑う。それはどこか、自嘲しているように見える。
「つばきが最初に家出した時のこと、覚えてます?
実はあの時ね、匂いを辿ることが出来なくなったんです。
・・・私のこと、嫌いになったんじゃないですか?」
「・・・あぁ、あれかぁ・・・」
思い至ることがあった私の、思わず打った相槌に、彼は思い切りため息を吐いた。
眉が八の字になって、部屋が薄暗いからなのか余計に悲しそうに見えてしまう。
「やっぱりね・・・。
ほんと、失敗ばかりで申し訳ないです」
「ち、違うの!
嫌いにはならなかったよ?!」
あまりの落ち込みように慌てて言葉を挟んだ私は、ひと思いに続けて言葉を紡いだ。
「ちょっとガッカリしただけ!
嫌いになったりはしてないって!」
「がっかりですか・・・そうですか・・・」
しょぼん、という擬音語がぴったりなくらいの悲しそうなカオに、なんだか私が苛めているみたいな、おかしな気持ちになる。
・・・なんだこれ、面倒くさいな。
気分の急下降してしまった彼の頬に、半ばやけくそ気味にキスをした私は言った。
「あれはもう忘れようよ~。
それより呼んだら聞こえるなんて、すごい体の造りしてるんだね」
話題を変えようと口にした言葉に、彼は頷く。
どうやら、ほっぺにキスが効いたらしい。
・・・なんか、思ったより単純かも。
「でも、限界はありますよ?
あまりに遠ければ聞こえませんし、聞こえてもすぐに駆けつけられるわけじゃない。
過信してはいけません」
「・・・そうなの?」
「じゃないと、つばきはいろいろ油断するでしょう?」
呼べば聞こえるなんて、とっても便利だ・・・くらいに考えていた私を見透かしていたかのように、彼がチクリと釘をさす。
もしかして、私の心の声も聞こえてるとか。それはまずい。
「う、ううん・・・」
いろいろなことが頭の中を廻った私は、曖昧に頷くしかなかった。
「まあでも、何かあったらすぐに呼ぶといいですよ。
例えば、今日みたいに誰もいない場所で意識が遠のいた時とかね」
「でも・・・」
短い期間とはいえ、彼の働く姿を間近で見てきた私は口ごもる。
「お仕事中に呼ぶなんて出来ないよ。
いろんな人に迷惑かかっちゃうもん」
囁くように言って首を振った私に、彼は苦笑しながら手を伸ばした。
髪を撫でて、おもむろに額にキスをくれる。
「・・・どうしても駆けつけられなかったら、鉄子さんを派遣しますよ」
その表情が甘くて甘くて、悔し紛れに呟く。
「職権乱用?」
すると彼は、またしても苦笑した。
「そうですねぇ。
もはや1回も2回も、似たようなもんです」
絶対に否定しないところ、ジェイドさんらしいと思う。
そう思いながらも何も言わずに苦笑した私を見て、彼は目を細めた。
それから、いくつか話をして。
おやすみのキスをして、彼の匂いを吸い込んだ私は、あっさり眠りに堕ちたのだった。