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「うー・・・あっ、つー・・・」
車を降りた途端に、じりじりと照りつける太陽がつむじに痛い。
昼前だというのに日差しが強くて暑いんだから、きっと今日はこの夏で一番暑い日になるんだろう。
季節は夏のど真ん中。毎日暑くて、日差しが強くて。
ジェイドさんは、今年の夏は今までにない暑さだ、と言ってたっけ・・・。
私にとっては、この世界で初めて過ごす夏。
初めて感じる夏の空気は、割とあっさりしている気がする。
でも太陽はすぐ近くにあって、じりじりと日差しを容赦なく照りつけて・・・。
だから、あっちの世界ほどの質はないけど、一応日焼け止めを塗って過ごしてるんだ。
皮膚が薄い私は、油断すると真っ赤になって痛いのが、何日も続いてしまうから。
街路樹の作る日陰を縫うように歩きながら、空を見上げる。
雲ひとつない綺麗な青空が、気持ちいい。
昨日はお休みで、1日のんびり過ごさせてもらったから、体調は万全だ。
お腹の子は大人しくて、妊娠が発覚したばかりの頃に悪阻があったものの、それもほんのわずかな期間だけだった。
なんだか、呆気なさすぎて拍子抜けしてしまう。
毎日だるくて動けないくらい、辛いんだとばっかり思ってたけど・・・。
今度病院に行ったら、先生に聞いてみようかな。
・・・さすがのジェイドさんも、妊婦さんのことまでは知らないだろうし。
・・・知ってても嫌だな。
いろんなことを考えながら歩いていると、王宮のエントランスが見えてきた。
「おはようございまーす」
準備中、の表示がかけられたドアを開けて入った店の中は、まるで戦場のようだった。
作業台には中身の入ったボウルや、バットに並べられた果物が置かれていて・・・。
「わ、わわ?!」
目に入った光景に思わず声を上げると、それに気づいたミエルさんが顔を上げた。
どうやら、ドアが開いた音には気づいていなかったらしい。
「どうしたんですか、こんなに・・・」
カバンをおろして、奥にあるロッカーに入れる。
そのままエプロンに手を伸ばして、手早く身に付けた私に、彼女が言った。
顔に、クマがある。くっきりと。
「昨日、大量に注文が入ったの。王宮から」
「王宮から・・・?」
もしかして、この前皇子さまとヴィエッタさんが来襲したことが発端だったりするのか・・・とびくびくしている私に、彼女はにやりと笑んだ。
「だから、今日は臨時休業よ」
ミエルさんの話では、昨日の閉店間際に、ある女性がやって来たんだそうだ。
そして、「焼き菓子を王宮に届けて欲しい」と仰ったという。
とっても急いでいたらしく、彼女はお金をかなり多く置いて、「これで足りないなら、請求書も一緒に届けていただけますか。その場で支払いますから」・・・だそうで。
身なりも言葉もきちんとしていたから、ミエルさんも驚きながら頷いてしまったらしく。
もしかして、その女性ってチェルニー様なんじゃないか。
陛下は脱走癖があるみたいだし、皇子さまは実際にここに来てる。
それに、焼き菓子をお土産に買って帰ってるんだから、その母親がリピーターになってもおかしくないと思う私は、ちょっと飛躍しすぎなのか。
・・・ミエルさんに話すのは、やめておいたんだけど・・・。
聞けば、ミエルさんはその後ほぼ徹夜でお菓子を焼き続けていたみたいで、終わった途端に作業台に突っ伏した。
そんな彼女に託されて、私は焼き菓子を届けにきたわけだ。
妊婦の私が力仕事なんて、もってのほかだから、運ぶのは運送会社さんの力を借りたけど。
そういうわけで、無事に大量の焼き菓子を白の騎士団に届けた私は、急なお願いに対応してくれた業者さんにお礼を言って別れ、ジェイドさんの所へ向かっていた。
せっかく来たんだから、顔くらい出して行こうと思ったのだ。
仕事の邪魔に・・・というか私がいると構おうとするから、顔を出したら帰るつもりで。
毎日一緒にいるけど、働いてるジェイドさんは特別格好いい。
難しい書類に目を通している時、無意識に刻まれる眉間のしわなんて、本当に格好いいのだ。
そして、そのしわが解けて目元が和らいだ時のカオに、思わず抱きつきたくなる。
・・・きっと今会いに行ったら、びっくりして目をまんまるにするんだろうな。
想像してにやけてしまいそうな頬を押さえつつ歩いていた私は、何かが聞こえた気がして、思わず足を止めた。
「・・・ん・・・?」
・・・猫の鳴き声だ。
それも小さくて、高い鳴き声。
「にゃんこ!」
陛下の猫の話を思い出した私は、咄嗟に窓に首を突っ込んで、仔猫の居場所を探した。
「この辺り、だと思うんだけどなぁ・・・」
みゃーう、という鳴き声に誘われて庭に下りた私は、きっと震えながら鳴いているであろう仔猫の姿を探し歩いていた。
こうなるともう、夏の日差しなど気にならない。
「にゃんこー、でておいでー」
驚かさないように、と気をつけながら草むらに向かって囁いてみるけど、一向に見つかりそうにない。
拾ってしまえばこっちのものだ、という目論見が泡と消える予感に、肩が落ちる。
「しょうがない、か・・・。
・・・今はベビちゃんのことだけ、考えててってこと、だよね」
ほんの少しだけ膨らんだお腹・・・ともすれば、雑誌のぽっこりお腹撃退特集のページに載っていそうな・・・を擦って、私は息を吐いた。
そして、仔猫探しを諦めて踵を返そうとした、刹那。
「・・・みゃぅ」
小さな鳴き声が、した。
でも、声のした方にあるのは、木だ。木の、上から声がした。
「・・・どこ・・・?」
木の真下に立って、見上げる。
枝がたくさん伸びて木陰を作り出しているそれは、少し前に皇子さまに絡まれた、私にしてみれば、いわくつきの木だ。
複雑な気持ちで木を見上げた私は、そこに仔猫を見つけた。
小さな目が私を見つけて、びくん、と体を震わせる。
そして、ひと声鳴いた。
「・・・しぃぃっ」
咄嗟に人差し指を口に当てるけど、そんなことの意味が仔猫に分かるはずもなく。
警戒しているらしく、もうひと声鳴かれてしまった。
このまま鳴かれてしまうのは都合が悪い。
私は、足音を立てないように気をつけながら、そっと踵を返した・・・つもりだったんだけど。
「あ」
「ひゃぁぁっ」
ふいにかけられた人間の声に、思わず悲鳴を上げてしまった。
木の上にいたのは、にゃんこだけじゃなかったのだ。
にゃんこを抱いてお昼寝をしている、オーディエ皇子だった。
すとん、と軽い音を立てて、皇子さまが降り立つ。
「先日はどーも。
えっと、私のことは構わずお昼寝の続きをどうぞ。
大丈夫、誰にも言ったりしないから。
それじゃ、私はこれで!」
何か言われる前に、と意気込んで言葉を並べた私に、彼は一瞬面喰ったように目を見開いた。
彼が妊婦さんと接すると体に変調をきたすことを知ってしまったからには、私が目の前に現れるのはなるべく避けたいと思っていたのだ。
・・・そんなこと、金輪際ないと思ってたのに。
それに、口元を押さえて気持ち悪いのを堪えるような仕草をされると、結構傷つくんだから。
大事なベビちゃんにも悪影響のような気がして、私はさっといなくなるべく、踵を返す。
でも、彼はどういうわけか私を呼びとめた。
「待ってよ」
相変わらずの硬い声に、私は恐る恐る振り返る。
もう彼が私に悪意を向けることはないし、何も起きないと分かっている。
でも、今度は私が彼に嫌な思いをさせてしまうかも知れないのだ。
だから、少し距離をとって、目を伏せた。
「なあに?」
「いや、この前はどうも・・・」
にゃんこを抱いたまま、彼が呟く。
「あ、ありがとう」
かなり恥ずかしそうに、放り投げるように言われて、私は思わず彼の顔を凝視してしまった。
「皇子さま、ありがとうとか、言えたんだね・・・」
冷静に考えると、かなり失礼な台詞だ。
でも、心の声だった。
彼はそんな反応をした私をどう思ったのか、ぷい、と顔を背ける。
少し離れて立っている私からは、夏の日差しに晒されている彼の耳が、真っ赤に染まって見えた。
・・・まさか、まさかまさか、皇子さまってツンデレの気があったり・・・?
脳裏をよぎった恐ろしい考えを、小さく首を振ってかき消した私は、調子に乗って尋ねてみる。
「ところでお母さま、喜んでくれた?」
「うん」
問いかけに、彼は視線を彷徨わせながら頷いた。
そんな彼の姿が、ちょっとだけ可愛く見えてしまったのは秘密だ。
木陰に腰を落ち着けた私達は、そよ風に吹かれていた。
初めてここで対峙した時のことを忘れることは出来ないけど、なんだか皇子さまのことは憎めない私がいる。
理不尽なことが起こることなんて、生きていれば何回だってあるものだ。
そして、その一つ一つの理由がきちんと説明されることなんて、稀だってことも知ってる。
だからなのか、私は皇子さまのしたことの理由を、もう欲してはいなかった。
もしかしたら、もともとサッパリした性格なのかも知れない。
「皇子さまってさ・・・いつもサボってるの?」
「は?」
どうやら、近くにいても体調がおかしくなる気配はないらしい。
彼は私をじっと見て、訝しげに低く聞き返した。
「そういえば皇子さまの仕事って、一体何なんだろ・・・?」
自問するように呟いた私に、彼はため息を吐いて呟きを返す。
「くそ親父の金魚のフン」
「え?」
私はその乱暴な言葉に、聞き間違いかと小首を傾げた。
すると、彼は同じ口調で言葉を重ねていく。
「陛下の執務の補佐。
実家だからって、タダ飯食うのが許される家じゃないからさ。
・・・でも、くそ親父が脱走すると、何もすることなくなるから暇なんだ。
俺は暇な方が助かるから、全然構わないんだけど」
気だるげに、にゃんこの頭を撫でる手は、とても優しい。
その様子を横目に見ていた私は、自分の心が凪いでいくのが分かった。
・・・動物って、本当に癒し効果、あるんだね・・・。
「ふぅん・・・ちゃんと働いてるんだねぇ。
・・・じゃあ、このまま皇子さまが後を継ぐとして・・・。
その頃には、ジェイドさんも引退してるのかなぁ・・・」
枝の隙間から差し込む木漏れ日に目を細めて、私は呟いた。
未来を想像して優しい気持ちになっていた私は、彼の声で我に返る。
「いや、」
視線を戻したら、彼が小さく首を振って、にゃんこを草の上に下ろすところだった。
にゃう、と鳴いた仔猫は、脇目も振らずに走り出す。
その先にいたのは親猫らしく、辿りついた仔猫の匂いを嗅いでから、かぷりと咥えてどこかへと去っていった。
その様子を眩しそうに見つめていた彼が、ゆっくりと口を開く。
「俺・・・後を継ぐ資格、ないし」
「え?」
私もにゃんこを抱っこさせてもらえば良かった、なんて思っていた矢先の重たい言葉に、驚いて瞬きをする。
そんな反応に、彼は何を思ったのか自嘲するように顔を歪めた。
「やらねーよ、って啖呵切った。親父に向かって」
「ええっ?」
なんだか私、とんでもない告白を受けてしまった気がする。
何かに巻き込まれるような予感が沸々と湧いてきた私は、気分悪そうにしている彼にそっと声をかけて、芝生に手をついた。
「あの、私急用を思い出したから、」
断りを入れつつ立ち上がろうとすると、芝生を押そうとしている手を、掴まれる。
どきん、でもなく、ぞわり、でもない感覚が腕を這って、私は息を飲んだ。
怖いのではなく、なんというか、そう、気まずい。
・・・大体、妊婦が苦手なんじゃないのか。
・・・吐き気がするって言ったのは、どの口なんだ。
・・・ジェイドさんに骨粉砕されかけたの、もう忘れたのか。
混乱する頭の中で、ぐるぐると考えた私の視線が左右に揺れる。
真っすぐに彼の目を見たら、絆されてしまいそうなのだ。
そんなふうに、逃げたい気持ちが膨らんだ私を、皇子さまはじっと見つめて言った。
「もうちょっとだけ、付き合って」
「・・・えー、っと・・・」
そんな、下から捨てられた子犬みたいに見上げないで欲しい。
私、にゃんこも好きだけど・・・わんこなんて、もちろん大好きなんだから。