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カップケーキの甘くていい匂いが、作業場から漂ってくる。
ハチミツの匂いも、レモンの柑橘系な匂いも、私の大好きなチョコレートの匂いも。
「リアちゃーん」
ミエルさんの声が響いて、私は飾りつけの終わったカップケーキを取りに行く。カウンターを離れる前に、お客さんがやって来る気配がしないのを確認して。
「わ、美味しそうですね~」
これが仕事だということも忘れて、私は満面の笑みを浮かべつつカップケーキに近づいた。
そんな私に、ミエルさんが苦笑しながら口を開く。
「いい反応するよね~」
「だって、ほんとに美味しそうなんだもん。
お客さんからも人気あるんですよ」
ほぅ、と息を吐いて色とりどりのカップケーキに見とれた私に、彼女はまた言葉を紡ぐ。
「まあ、あれよね。
本当に人気があるのは・・・」
「・・・い、嫌味?」
意地悪な色を宿した瞳にたじろいで言えば、彼女がくすくす笑いを漏らした。
「リアちゃん効果、ってやつよね!」
ミエルさんの言うところの“リアちゃん効果”の発端は、ヴィエッタさんだ。
白の騎士団副団長のヴィエッタさんは、ジェイドさんの妹。つまり、私の義理の妹だ。年齢と態度的には“姉”だけど、関係的に説明すれば、そうなる。
そして彼女は、白薔薇というふたつ名で有名だ。
凛として美しいけど、むやみに触れると棘が刺す・・・いわゆる高嶺の花として、男女問わず信者がたくさんいる。
その彼女が、定期的に店を訪れては新作の焼き菓子を買ってくれるのだ。
どういうわけか、ミエルさんが新作を店に出すタイミングを読んでいるみたいで、必ず新作を手に入れて帰って行く。しかも大量に。
あれは個人で消費出来る量じゃないよね・・・と思っていたら、未菜お姉ちゃんと、その旦那さまのシュウさんから聞いたのだ。
どうやら白の騎士団本部で差し入れとして配っているらしい。そして、焼き菓子店の宣伝をしてくれてるそうだ。
それから、私と仲良くなりたいと思ってるみたい・・・という話だけど・・・。
・・・それのどこが“リアちゃん効果”になるのかというと、だ。
実は私にも、ふたつ名があった。
その名も“補佐官殿の逆鱗”だ。
私に良からぬことをすると、補佐官殿・・・ジェイドさんが怒り狂って報復するぞ、という半ば脅し文句のようなもので、当時ジェイドさんの雑用係をしていた私を守るための噂から派生したらしい。
紆余曲折を経て、今の私はジェイドさんの雑用をやめて、この焼き菓子店でアルバイト中。
だから当然、もう関係ないと思っていたし、そんなふたつ名のことは忘れていた。
けど、そんなふうに思っていた私は甘かったらしい。
ヴィエッタさんの選んだ焼き菓子店を知った人が、自分用に買いに来て・・・そして、売り子をしている私に遭遇。
驚いたその人は周囲に触れてまわったらしく、数日後に次の野次馬がやって来た。そして、それを繰り返しているうちに、顧客が増えたというわけ。
キッカケはヴィエッタさんだけど、今は面白半分で私を見に来る人の割合が多いのだ。
「私が思うに・・・」
カップケーキをトレーに載せながら、ミエルさんは言う。
「話題性に富んでるのね。
補佐官様に白薔薇、間に挟まれて姿を消したリアちゃん」
「・・・昼ドラみたいですね」
作業をしながらの相槌に疑問は抱かなかったのか、彼女はニコニコしている。
ラズベリーの綺麗な色をしたカップケーキを見て、赤い花の髪留めを連想してしまう。“補佐官殿の逆鱗”のトレードマークだったものだ。
「そのリアちゃんのエプロン姿が、衝撃的なのよね。
・・・初めて補佐官様がいらした時のカオ、忘れられないわ~」
「どんなカオしてました?」
私がこの店で働き始めたキッカケは、家出だった。
渡り人としてこの世界にやって来た私は、この国の補佐官であるジェイドさんに保護されたけど、戸籍を作る時に、彼は自分の配偶者の欄に私の名前を載せたのだ。
手続きは保護した人がすることになってるから、完全不可抗力。
それでも係の人だって、本人の了承があるのかどうか確認したはずだけど、そこは補佐官殿だ。確実に目的を達成するために、手段は選ばなかったに違いない。
ともかく、いつの間にか結婚してたということがショックで、勢いで家出をした私は、従姉妹夫婦のところへ身を寄せた。いろいろあって、ジェイドさんとの生活に戻ったけど。
それで、家出中にジェイドさんがこの店を訪れたんだけど、その時の私は彼の顔なんか見る余裕もなくって・・・。
「そうだな・・・稲妻が走った!・・・みたいな?」
カップケーキをトレーに載せ終えて、調理器具をシンクに持っていくミエルさんの背中から、そんな言葉を受け取った私は、ため息を吐く。
「稲妻って・・・」
すると、背中越しに彼女は続けた。
「本当に、びっくりしてたみたいよ。
まあ、リアちゃんのエプロン姿が男ウケすることなんて、お見通しだったけどね!」
「・・・エプロン、やめません?」
全くもって望まない展開に思わず呟くと、彼女は振り返って大げさに両腕で×を作る。
「だめー。
もう夏バージョン発注しちゃったもん」
ミエルさんの目が真剣過ぎて、反論出来なかったのは仕方ないと思う。
内心でため息を吐きつつ、フォークに刺したトマトのくし切りを口に入れる。
瑞々しくて、ほんの少し酸っぱくて。
この季節はつい、そればかり口に入れてしまいがちだ。
「つばき?」
視線を落としたままトマトばかりを口に入れる私に、ジェイドさんが訝しげに問いかける。
「何かありました?」
彼は些細なことも見逃さない。目についちゃうのか、気をつけて見てくれてるのか。
気付かないうちに黙々と食べていたみたいで、我に返って目に入った皿からは、ほとんどトマトがなくなっていた。
・・・これならジェイドさんじゃなくても気付くか。
胸の内で呟いて顔を上げると、心配そうに空色の瞳を曇らせた彼が、私をじっと見ていた。
「急に黙り込んで・・・。
どうしたんです?」
相変わらずその口調は丁寧で、でも、遠慮はなくなって。
だから、私はすぐに白状してしまう。
「お店でね、夏用のエプロンを発注したんだって・・・」
「・・・そうですか」
打ち明けた内容に、彼の表情が一瞬固まって、解けた。
金色の髪を揺らして小首を傾げると、私の目を覗き込んでくる。
「あのエプロン、壮絶に似合ってますよね。
正直、夫としては複雑な心境ですけど・・・」
そうだよね、と思いながら俯いた私に、彼はくすくす笑いを漏らす。
顔を上げると、そこには目を細めて微笑む彼がいた。珍しく、不機嫌にはなっていないらしい。
「でも、そうしたら春用のエプロンは持って帰ってくるのでしょう?
・・・ぜひ、屋敷でも着ていただきたいですねぇ」
言葉の後半に込められたものを察しないようにして、私は口を開く。
「ジェイドさんが嫌なら、エプロン廃止してもらおうかなぁ・・・」
「それはダメです」
間髪入れずに言った彼に、私はぱちぱちと何度か瞬きをして言った。
「ダメなの?
だって、ジェイドさん嫌なんじゃなかったっけ?」
「嫌ではないですよ?
ただ、ちょっと複雑な気持ちになるだけで・・・」
「・・・違いが分かりません」
トマトの食べ過ぎでお腹がタポタポする。
そう思いながらフォークを置いた私に、彼は小首を傾げて続けた。
「ですから、私もエプロン姿のつばきが好きなので。
そうですね・・・どちらかと言えば、大好物の部類です」
「はぁ・・・それはどうも・・・?」
「なので、廃止には反対です。
でも、いつも着ていく服には異論を唱えますけれどね」
矛先が別のことに向いた気配に、私は顔を顰める。
「だって、ああいう服しか売ってないんだもん。
・・・この前だって、一緒に買いに行ったでしょ?」
「そうですけど・・・膝から上が出過ぎなんです。
つばきの綺麗な足が、いろんな人に見られちゃうじゃないですか。
・・・万が一、強めの風が吹いたらどうするんです」
「そんなこと言ったって・・・。
なんでエプロンは良くて、膝上のワンピースがダメなの?」
非難というよりは、純粋な疑問に近い気持ちで尋ねると、今度は彼が何度か目をぱちぱちさせて、きょとんとしたカオで言った。
「エプロンは、服の上から身につけるじゃないですか。所謂おまけです。
でも、服はそれだけだから無防備でしょう?」
「なんじゃそりゃ・・・」
とんちんかんな説明に、私はがっくり肩を落とす。
いやいや、もしかしたら至極真面目な回答だったのかも知れないけど。
「胸元だって、屈んだら見えちゃいそうですし・・・。
つばき、最近胸が大きくなってきてるんですから。
それはまあ、見込み通りなんですが。もうちょっと自覚を・・・」
「へ、変態だねジェイドさん・・・」
確かに、下着がきつくなったような気はしてた。
お姉ちゃんみたいに、胸がぷにょっとしてきた自覚もあった。あったけど。
「男は少なからず変態ですよ。
私が思うに、男性の7割には少なからず変態成分が含まれているはずです」
遮るように言った私の言葉を、彼はちっとも気にしないのか、けろりと言ってのける。
しかも、世の男性を巻き込んで。
・・・ちょっと、謝った方がいいんじゃないのジェイドさん。
「ですから、私にそういう面があっても、嫌いにならないで下さいね?」
言葉の最後は満面の笑みで、それに絆される自分がいることに、がっかりしてしまった。
「それは、世界がひっくり返ってもないと思うけど・・・」
どれだけジェイドさんが好きなんだ、私。
だから、シュウさんから真顔で「バカップル」って言われるんだよ。
「はい、どーぞ」
夜、いつものようにお茶を淹れて、彼の仕事机に置く。
「ん、ありがとう」
視線を資料に走らせたまま、彼はひと言呟くようにお礼をくれる。
私が焼き菓子店で働きだしてから、ジェイドさんは仕事を屋敷に持ち帰るようになった。
それまでは生活リズムが同じだったから気にしなかったみたいだけど、別々になってからは、すれ違う日が多くなって。
それで、決めた時間を過ぎたら仕事を持ち帰ってこなすようになったわけだ。
嬉しいけど、無理してまで一緒に過ごす時間を持とうとするのは・・・と思う私に反して、彼はそうじゃないと昼間のやる気が出ないと言うから仕方ない。
意外と、寂しがり屋さんなんだよね。
もちろん私だって、十分寂しがりだけど。
「ジェイドさん?」
「ん?」
ペンを握る手を止めて、彼は顔を上げた。
食卓での甘い顔から、補佐官の顔に変わっているのを見ると、なんだか胸の辺りがきゅっと握りしめられたみたいになる。
スーツが存在しないのが残念だ。ネクタイ、似合うだろうに。
そんなことを頭の隅で考えた私は、そっと尋ねる。
「何か摘まむもの、持ってこようか?」
積まれた書類の多さに、なんとなく夜中までかかることを予想した私に、彼は嬉しそうに微笑んで頷いた。
「お願いします。
出来れば、つばきのカップケーキが食べたいです」
「えーっと・・・」
ジェイドさんのご希望通り、カップケーキにホイップクリームと果物を乗せる。昨日の夜のうちに焼いておいたものだ。
それをお皿に用意してから、私はキッチンの大きな冷蔵庫を物色しつつ独り言を呟いていると、トマトが目について手を伸ばす。
夕食にもたくさん食べたけど、つい手が伸びてしまうのだ。
夏が近いからなのか、やたらと喉が渇くような気もするし。
「えっと、ナイフナイフ・・・」
あることがキッカケで克服した刃物恐怖症。
最近の私は、少しずつ包丁を使う練習をしている。まずは、野菜や果物をひと口サイズに切ることくらいなんだけど・・・。
洗ったトマトに、すっと刃を入れる。
熊さんが手入れをしてくれているから、私みたいな初心者でもトマトを潰さずに切れるのだ。
「うん。美味しそう・・・」
私は切ったそばから、ひとつ摘まみ食いをして・・・そして、喉に違和感を感じて、その場にうずくまった。
「あ、あれ・・・?!
ジェイドさ・・・っ」