キス ホリック
「サムシング ブルー」二人の高校編です。
悲恋要素を含む展開です。
田中 真潮は、私の家の隣りに住む同じ年の男の子だ。
「ねぇ、青柳さんって。田中と付き合っているの?」
物理の授業に移動中の廊下で、私の隣りにやって来た椿谷さんが聞いてきた。
椿谷さんは、バスケもやれば勉強も出来ておまけに美人で有名なお方だった。
クラブも入っていなければ、勉強も好きじゃなくおまけに痩せっぽちの私とは、当然あまり話したこともない。
「田中っていうのが真潮のことなら、付き合っていないよ」
隣りを歩く椿谷さんにそう答える。
「やっぱりね。そうなんだ。じゃぁ、田中はフリーってことよね」
満足そうな椿谷さんの口調に、私はむかっときた。
「そんなことは、真潮に直接聞かないと分からないでしょ」
本人のいないところでする会話じゃないって、椿谷さんは頭がいいのに分からないのかしら。
「まぁね、本人に聞かないと確実じゃないわよね。でもさ、だったらあなたは田中が誰かと付き合っているって思っているの?」
鋭い切り返しで椿谷さんが聞いてくる。
「それは」
そりゃ、真潮が私以外の女と一緒にいるのは見たことがないけどさ。
でも、だからって。
「そんなこと言うんなら、あなたが聞いてよ、田中に。あなただって気になるでしょ?」
ぐっと言葉に詰まる。
そりゃ、真潮に彼女がいるかどうか、気にならないといったら嘘になる。
「でも」
「じゃ、よろしく」
そう言うと椿谷さんは足早に物理教室に入っていき、先に教室に来ていた先生ににこりと挨拶をして席に向っていた。
週番の仕事をしながら(相手の子は塾とかで放課後の仕事は私が一人でしていた)、階段にある窓から真潮が自転車で帰るのが見えた。
真潮も今日は塾なんだろう。
私には信じられないけど、真潮も勉強が好きな人種の一人のようだった。
真潮は、自転車で学校に来ていた。
朝、遅刻しそうな時は私もたまに(しばしば、かな)後ろに乗せてもらったりする。
私の、真潮の自転車の後部席の歴史は長い。
初めて乗せてもらったのは、小学四年生の時だった。
その年の誕生日に真潮がもらった自転車は、私のピンクのそれとは違うタイプの自転車で、とてもオトナの感じがしたのを覚えている。
そしてそれを見て、あぁ、真潮は男の子で私は女の子なんだな、やっぱり違うんだな、と思ったのも覚えている。
それは、私にとってはショックなことだった。
やっぱり違うんだ、というのは私にとってはとどめの一発だった。
そして一度『やっぱり違う』と頭の中で針が傾くと、その違いの全てが明らかになり私の目の前に広げられて、提示され、そしてそれを自覚することになった。
まずは、学力。
当然、体力。
そして、性格。
とどめが、家族。
その中で一番堪えるのが家族のことだった。
真潮にはお姉さんがニ人いた。
お隣りだからその声は良く聞えて、それにお母さんの声も加わると、真潮の家はとても賑やかになった。
テレビの中のホームドラマみたいな家族だった。
憧れた。
私は一人っ子だった。
母はもとから体が弱くて、ようやく生まれたのが私だったようだ。
小さい頃から、うちは母が中心だった。
母の具合によって、家族のいろいろが決まっていった。
いろんな家族があるから、本当にそれぞれなんだけど。
そう思える時と、それを上手く心の中で処理できない時があって、私は時折気持ちが不安定になっていた。
私が不安定になると、母も不安定になって、父が帰って来るまでの時間がとても長く感じられてしまうこともあった。
でも、真潮と一緒に遊んでいる時は、そのことを忘れられた。
私の家族も真潮の家と同じように明るく楽しく賑やかなんだって、そう自分の心を騙すことができた。
私をそうさせる力が、真潮にはあるように感じた。
母や父が言ってもいない冗談を、真潮にさも両親が言ったかのように話して笑わせたりした。
そして、そんな風に自分の家族について嘘をついてしまう自分に自己嫌悪を感じたりもした。
こんなことは間違っていると思いながらも、止められなかった。
そんな時、チョコレートを食べると気持ちが落ち着く時があった。
段々とまるで自己暗示の様に、不安なことがあると私はチョコを買いに行ったり食べたりするようになった。
真潮の新しい自転車を見た日、私はお小遣いを持って近所の駄菓子屋にチョコを買いに行った。
真潮の自転車が、私を不安にさせたのだ。
私の自転車では行けない、そして私が行きたいと思う遥か彼方の明るいところまで、真潮にはなんの苦労もなく行けるんじゃないかって思った。
そして、焦った。
真潮に置いていかれたくないと思った。
真潮よりも先に、私は自分の行きたい場所を見つけて行かないといけないって思った。
何でも、真潮よりも先に。
真潮がそんなことに気がつかないよりも、先に。
「真潮」
夕食が終わってから宿題を持って、真潮の家に行く。
宿題だけではなく、お菓子の入った袋も持って。
玄関で真潮のお母さんに挨拶をして紅茶の載ったトレイを受けとると、私はニ階に上がった。
階段を上がりながら、「真潮~、真潮~」と名前を呼んだ。
「全く。アンタは、豆腐屋か」
私が部屋の前に行くよりも前に、真潮の部屋の扉が開いた。
「えっ、お豆腐屋さん? 私は『真潮~いらんかねぇ~』なんて言ってないし、ラッパも吹いてないよ」
そう言いながらも、真潮のそんな切り返しが楽しくてしょうがなかった。
「はいはい、ともかくそこは寒いから早く中に入りな」
真潮が手招きをする。
そして、手で前髪をぱっと後ろにやった。
「真潮。前髪が長いねぇ」
紅茶を部屋にある小さな机に置きながらそう言った。
「そうなんだよなぁ。明日でも切りに行こうかって思ってはいるけどね」
「いっそ、角刈りにすれば」
私は、自分の指定席のクッションの上に座る。
「一生言ってろ」
そう言いながら真潮も床に座った。
「なにまた、新作?」
私が袋に入ったチョコを持っているのを見て、真潮が聞く。
「うん。食べようよ」
「まずは、勉強してからだね」
そう笑いながら真潮は紅茶を注いでくれた。
宿題と予習が終わったあと、お菓子を食べながら真潮と学校のことを話した。
高校になるとクラスが違っても選択の授業が多いから、あれこれと共通する友達関係なんかがあったりするのだ。
「凪子は、家庭科の授業をとっていたっけ?」
真潮が生チョコを食べながら聞く。
「うん。この間、クリスマスケーキを焼いた」
「そうそう。そう聞いたんだけど、それってどんなの?」
「真潮はきっと嫌いだよ。洋酒につけたドライフルーツがばっちり入ったやつだもん」
「わぁ、確かに」
「あれって日持ちはするんだけどね」
「あれ系のケーキって、結婚式の引き出物の中にも入っているよな」
「そうなの? じゃあ、結婚が長持ちするように、って願いがあってじゃない?」
「いや。それよりも、俺は結婚式場の都合じゃないかと見た」
真潮はそう言うと、紅茶を飲んだ。
結婚、か。
「ま、真潮はさぁ」
「ん?」
結婚の前は恋愛ってことで、無理やり話の糸口を見つけた私は、今回の使命(って、別に椿谷さんに言われたからっていうよりも私が気になるんだけど)をまっとうすべく話を切り出した。
「いたっけ、彼女」
「はぁ?」
真潮が、ぽかんと口を開けたまま私を見ている。
「いたっけ? 彼女」
もう一度同じ事を聞きながら、私は苺チョコのついたクッキーをつまんだ。
どっきん、どっきん、心臓が痛いほど体の中で跳ねている。
今まで、どの男の子に告白した時よりもすごい勢いだ。
真潮の顔が見られない。
これじゃぁまるで、私は真潮に告白でもしようとしているみたいじゃない。
「……なんで?」
真潮の低い声が聞える。
やばい。
これはめったにない真潮の怒りモードの声じゃない。
「な、なんでかと言うと」
椿谷さんの顔が浮ぶ。
でも、ここで椿谷さんの名前を出すのはいくらなんでも彼女が気の毒な気がした。
椿谷さんは真潮が好きなんだろうけど、そのことを真潮に私から言ってもいいんだろうけど、何もこの怒りモードの真潮にわざわざ言う必要もないと思った。
それは少し意地悪だと。
「ほら、私。こうして真潮と一緒にお菓子を食べたりとか、朝に自転車に乗せてもらったりとか」
私がそう説明しだすと、真潮の顔から怒りが段々と消えていくような気がしてきた。
そしていつもの、穏やかな真潮の顔に戻っていくような。
嬉しくなった。
もし私が犬なら、真潮の前でしっぽをたくさん振っている状態だと思う。
「そうそう、凪子に教科書を貸してあげたりとか、宿題を教えてあげたりとか。もしかして、俺って現代を生きる天使か?」
真潮がそう言って笑った。
「でもさ、アンタが俺に『体操着を貸して!』って教室に殴りこみに来た時には、流石に気絶しそうになったよ」
「だって、あれは。私って、忘れ物をしたらとにかく真潮のところって思ってるもんだから。でもね、言い訳をさせてもらえるなら、真潮に頼みながら自分でも『男子に体操着を借りてどうなる。頼む相手が違うだろう』って気がついたのよ」
今、思い出しても恥ずかしい。
自分のクラスの授業が終わったあと、急いで真潮のクラスに飛び込んでそのことを叫んだら、まだ真潮のクラスは授業中で。
しかもその授業がうちの担任がしていたもんだから、こっちのクラスにまでその話が広まって。
『青柳 凪子は男の体操着を着る女だ』と、しばらくからかわれたものだ。
再び蘇るあの恥ずかしさを誤魔化すように、私はまたクッキーを食べた。
「つまり、俺に彼女がいたらいろいろと遠慮しようと凪子サンは思ったわけだ」
「うん」
うん、なんて答えながら私はとても後悔していた。
真潮に彼女がいるってことは、私の生活にも多大な影響を与えるってことに今さらながらに気がついたからだ。
今まで、真潮が女の子に興味があるとか(だからって、男の子に興味があるとは思っていなかったけど)あまり考えたことがなかった。
うちの学校は、男女仲はまぁいいけど、付き合っている人たちってあまりいなくて。
だからか、余計にそんなことを考えることはなかったのだ。
「彼女は、いないよ」
真潮が言った。
「ふーん」
ふーん、なんて気の無い言い方をしながらも、心の中で私はガッツポーズをしていた。
「そうか、いないの。真潮って、好きな子」
ほっとしながらそう言って真潮の顔を見たら、真潮はヘンな顔をしていた。
あまり見ない表情。
「真潮、悲しい?」
真潮の顔を見ていたら、そんな言葉が出てきた。
「なんじゃ、それ」
そう言って真潮が笑ったので、私もなんとなく笑った。
でも、あの表情は忘れられなかった。
「彼女、いないって」
朝、椿谷さんに会うなり私はそう言った。
椿谷さんは一瞬驚いた顔をしながらも、にこりと笑って「本当に聞いてくれたんだ。イイヒトなんだ。青柳さんって」と言った。
でもそう言いながらも段々と怖い表情になっていって「でもなんか、腹が立つな。青柳さんって」と言うと、側にいたクラスメイトを誘ってトイレに行ってしまった。
昨晩、帰り際に真潮から駅向こうに新しいケーキ屋が出来て、そこはチョコ関係が充実しているらしいけど連れて行ってやろうか、って言われた。
勿論、ニつ返事でOKしながらも、少しだけ椿谷さんのことが気にもなった。
気にはなったけど、チョコの魅力の前ではその『気』もニの次になってしまった。
今日、椿谷さんはかなり感じが悪かったので、OKしてよかったわぁ、なんて私は意地悪なことを思った。
けど、その意地悪さの天罰か、放課後に週番だった私は担任に呼び出され、雑用をあれこれと頼まれることになってしまった。
真潮は真潮で、委員会関係の担当分の印刷の仕事が少しあるとかで、お互い早く終わった方が自分の教室で相手を待っているという待ち合わせをした。
「青柳。明日からの体育の産休の先生がいらしてるけど、挨拶していくか?」
用事が終わった私に、担任の先生が言う。
「ええと。はい」
新しい人に会うのは苦手だけど、まぁいいやと思い担任の後に続いた。
職員室の反対の出口の側にあるソファには、大きな男の人と産休になるお腹の大きくなった先生が座っていた。
「先生、明日からお願いするクラスの一人、青柳ですよ」
担任がそう言うと、大きな男の先生は立ち上がって「よろしく」と言った。
そして「青柳って」とつぶやくと、大爆笑した。
私は何がなんだかわからなくて、呆然とその先生のことを見ていた。
「あぁ、青柳さんって女の子がいて、その子が体操着を忘れたんで彼の体操着を借りようとしてたって話を今聞いたところだったんで。で、キミでしょ、その子って」
またそのネタですかい、と顔を赤くしながらも担任と産休に入る先生を見た。
先生たちも笑っていた。
「いやぁ、この青柳とその彼氏の田中は本当にいいカップルでね。いわゆる『ほのぼの系』ってやつですか?」
担任が言う。
「いやぁ、なかなか。青春ですね。羨ましいなぁ」
そう言いながら、産休で来た男の先生がにこりと笑った。
あらま。この先生は、イイかもしれない。
本当だったら真潮と私がカップル(しかし『カップル』って)だというのを否定する場面なんだけど、その先生の笑顔が中々素敵なのでついつい忘れてしまった。
ヒットかもよ。この先生。
椿谷さんや、真潮のことでもやもやとしていた気持ちが、ぱっとそっちに切り替わった。
あぁ、真潮に報告しないと、と思い教室に戻る足取りが軽くなった。
下校時刻を少し過ぎただけで、どの教室も誰もいなくなってしまっていた。
グラウンドからは体育会系のクラブ人たちの声やボールの音が聞えていた。
自分のクラスを通り過ぎ、真潮のクラスに着く。
そっと部屋を覗くと、真潮が椅子に座り腕組みをしたまま窓に背を向けるようにして眠っているのが見えた。
もう、そんなに暖かな日差しとはいえないけれど、真潮の背中にはそれでもとても暖かそうに太陽が降り注いでいた。
それは、とても正しい姿の様に思えた。
真潮は、優しい。
真潮は、正しい。
そんな真潮に、太陽は良く似合う。
途端に私は、私は真潮にとっては正しくない存在だと思えてきた。
勉強だって嫌いだし、自分勝手だし。
忘れ物だって多いし、お菓子ばかり食べているし。
きっと真潮の側には、椿谷さんみたいな人が似合うんだと思う。
椿谷さんは意地悪かもしれないけど、間違いなく真潮のことが好きで。
おまけに、頭だっていい。
それにきっと家族だって。
そう思ったら、急に焦ってきた。
真潮には正しい相手がいるのに、私にはいない、と。
真潮に近づく。
長い薄茶色した前髪が目のところまで下りている。
「ばかな、真潮」
私のチョコを買うのに付き合うよりも、自分の髪を切ればいいのに。
ばかで、優しく、善良な田中真潮は、自分よりも人を優先させる。
そんな真潮の存在が、世界一大切なものに思えた。
ふと、真潮の唇にキスをした。
かする程度の、かすかなキスを。
真潮への気持ちは、とてもシンプルなものだと思っていた。
でも、違うのかもしれない。
好きな男の子は今までもたくさんいて。
ドキドキだってしていたし、眠れないほどその人のことを思うことだってあった。
気持ちはいつも、これまたシンプルで、「好き」って気持ちしかなかった。
好き。
好き。
いつも、好き。
真潮に対しても勿論「好き」な気持ちはあった。
友だち。
幼なじみ。
家族ぐるみの御付き合い。
信頼できる人。
真潮は、わざわざ「好き」なんて言葉を言わなくてもいい相手だった。
でも、違うのかもしれない。
でも、それは困る。
そう考えると恐ろしくなった。
そんなフクザツなことは私には向かない。
「好き」って感情はいつもシンプルでいてくれなきゃ。
さっき会った、産休で来た先生に感じた感情を思い起こす。
単純で、簡単で、明るく、楽しい感情。
私にはそれがベストだった。
家族のあれこれを抱えた私には、もうそれ以上フクザツな感情を受け入れるキャパはなかった。
真潮は起きない。
寝息もたてないで眠っている。
誰もいない教室。
「真潮」
私は、次に出てきそうな言葉を心の一番奥底の番外地の冷たい土の中深くに埋めた。
埋めた私でももう掘り出せない程に深く。
「……う、ん」
真潮が目を覚ます。
私は、さっきキスした真潮の口を、両手でびゅつと引っ張った。
「うげげっ。な、なに?」
真潮がびっくりた顔で私を見てきた。
「悪い魔女からの消毒でございます」
自分のキスの形跡を消すように、私はそうした。
いててて、なんて言いながら真潮が席を立つ。
そしてそのあと、真潮とニ人で私の教室に寄って鞄を取ってから、今日の目的地であるケーキ屋へと向った。
おかしい。
とてもヘンだった。
いくらケーキ屋さんでチョコを買っても、全く心が晴れない。
しかも、私はチョコよりも、何よりももう一度真潮にキスがしたいなんて、そんな不条理なことを考えてしまってもいた。
自転車をこぐ真潮の背中を見ながら私の頭の中には、繰り返しこんなヘンなことが浮んでしまった。
――― チョコなんていらないから
――― キスして真潮
――― たくさんのキス
――― さっきのみたいなキスじゃなくて
――― 恋人みたいなキスを
――― 真潮
「凪子、具合でも悪いのか?」
黙ったままの私を心配したのか、真潮はそう声を掛けてきた。
「わ、私。実は、またまた好きな人ができそうなんだ」
それは好きな男の子が出来たらいつも真潮に報告してしまう私の、恒例の台詞。
もし今、真潮に「誰?」って聞かれたら、私は『誰』って答えるんだろうって思った。
もし、真潮に聞かれたら。
もし、万が一聞かれたら。
真潮だよ、って言ってみようか。
そう言ったら、真潮はどうするだろう。
私たちは、どうなるのだろう。
好きな人ができそうだ、という言葉を聞いて真潮は一瞬間があった後に、「へぇ」言った。
そして、「今度は、うまく行くといいな」と言った。
その声も答えも、やっぱり私の幼なじみの優しい真潮のもので。
落胆しながらも、どこか私はほっとしていた。
そして、それが、やっぱり私たちの正しいポジションなんだと思った。
誰を好きになって誰と駄目になってもいいけど。
真潮だけは、離したくないと思った。
私の心の中にある、好きだとか、恋人になるとか、そういったことを全てと関係のない綺麗な箱の中に、真潮にはいてもらわないといけないと思った。
だから。
やっぱり、いらない。
欲しくない。
真潮のキスは。
恋人のキスなんて、真潮からは欲しくない。
暗くなった海沿いの道を、ライトをつけた自転車が真潮と私を乗せて走る。
ゆっくりとカーブを曲がり、自転車はなだらなか坂を下りて行った。
そのゆっくりとしたなだらかさは、私の中で芽生え喪失していった感情とも似て。
私は、暗闇に紛れて。
真潮の背中で。
……少しだけ、泣いた。