後編
「田中先生、国語辞典の納品の確認をお願いします」
「あっ。はい。ありがとうございます」
学校事務の杉崎さんに声を掛けられて、席を立つ。
ヒタヒタと冷たい廊下を歩きながら、窓の向こうに見える海を見た。
梅雨の海は、どんよりとしていた。
予報通り、『きっぱりと、梅雨が来た』と思った。
あれから何日か過ぎたけれど、凪子とは顔をあわせていなかった。
学校の玄関ホールに、幾つかの段ボール箱が積まれていた。
毎年のこの時期には、新入生向けの辞書の共同購入をしていたのだ。
ふと、ダンボールの隣に立つ男性に目がいった。
去年までの担当さんとは、背格好が違うように見えた。
以前の人より一回りは背が高いその人が、俺の足音に気がついたのか、ぱっとこちらを振り向いた。
「えっ」
思わず声が出てしまった。
あちらさんも、俺の顔を見て言葉を失っていた。
「あっ。こちらの会社で働かれていましたっけ」
俺からの言葉に、相手は苦笑いをした。
「担当替えがあってね。まぁ、君が学校の先生だって事は、凪子から聞いてはいたけど。よりによって、ここの中学だったとはね」
そう言いながらダンボールの隣に立つ男性は、凪子の別れたダンナだった。
納品の数を確認したあと、段ボール箱を台車に載せて、一階の空き教室へと運んだ。
明日から、ここで辞書の引き渡しを行なうとこになるのだ。
空き時間だった俺は、なんとなく凪子の元ダンナをお茶に誘った。
といっても、紙コップ式の自販の珈琲なんだけれど。
元ダンナは確か、俺たちよりもニつか三つ上だった。
ということは、もう三十は過ぎているのだろう。
自販の側に置かれた、細長いプラスチック製のベンチにニ人離れて座った。
「凪子は」
「えっ?」
元ダンナが、とつとつと話し出す。
「彼女は、元気なんだろうか」
「……元気ですよ」
凪子とは、一切連絡をとっていないということだろうか?
「あぁ、そうか」
それきり、また元ダンナは、ふつりと黙ってしまった。
元ダンナの左手が目に入る。銀色の細い指輪が光っていた。
「再婚、されたんですか?」
非難を帯びた声で聞いてしまう。
「あぁ。子どもの為にね」
子ども?
「えっ? 子ども?」
驚く俺の反応を楽しむ様な表情をして、元ダンナが口を開く。
「凪子から聞いてない? できたんだよ、子どもが。で、凪子は家を出たってわけさ」
最低なヤツ。
「ヘンなもんだよな。あんなに子どもが欲しくないって言ったアイツに子どもが出来て、子どもが欲しくてしょうがない凪子は産めないなんて」
「『産めない』?」
「あぁ、いくらお隣さんでもそこまでは話さないよな。凪子、子どもが出来にくい体質らしんだ。結婚してから解った事なんだけどね」
目の前が真っ暗になる。 ―― そんな話は、聞いてない。
「まぁ、勿論。離婚の原因は、それだけじゃないけどね」
この人の、凪子の全てを過去として話す姿を不思議な気持で見ていた。
凪子は生きているし、凪子の体質の事だって今まだ続いている現実の事だろうに。
ふと、凪子と交わしたコンビニ帰りでの会話が頭に浮かんだ。
『実はさ、私の彼。産婦人科のお医者さんで』
そうだ。絶対にそうだ。
紙コップの珈琲を飲みながらこの人は明日のお天気を気にするみたいに凪子の体の事を話すけれど、凪子の中では今でも向き合っているリアルな問題に違いないだろうって思えた。
腹立たしい。
この人に。
そして、そのことを凪子の口から直接聞く事ができない、自分の立場に。
ふっーと、元ダンナは熱そうに紙コップに口をつけた。
俺は、そんな彼の仕草を、ただただじっと見つめていた。
遅くなった帰り道、暗い雨の中を家に向い急いで歩いていた。
サ――という霧状の雨は、顔や体にじわじわとその水分を撒き散らしながら降り続けている。
ジジジジと、街灯が嫌な音をたてて点滅していた。
傘なんか差しても、ほんの気休めにしかならなかった。
家の近くまで帰りついたとき、大きな声と共にお隣さんの玄関からぱっと飛び出す人の姿が見えた。
凪子だった。
花柄の傘をバッと広げて歩き出す凪子と、直ぐに視線があった。
「オカエリ」
凪子から、声を掛けてくれた。
「あ。あぁ」
昼間の事を思い出すと、俺はうまく挨拶が出来なかった。
「あーっと。ブルー!」
へっ? という顔で凪子が俺を見る。俺だって自分で言った「ブル―」の言葉に、へっ? と思った。
「あぁ、つまり。ブルーは? サムシングの。見つかったかなぁって」
恐ろしいくらいメチャクチャな文法だった。
しかも、唐突な話題提供。
「あぁ。ブルーね」
俺の横を通り過ぎようとしていた凪子は、雨の中そのままの場所で立ち止まった。
凪子の髪にも、パーッと小さな水滴がついていくのが見えた。
「ブーケのね、その中に見えないように青い花を入れるのが普通なんだって」
ブーケかぁ。
「へぇ。青い花をね。いいね、それ。じゃ、一件落着か」
「まぁね。でも。違うのよね」
「何が?」
ブーケに青い花を入れるのは、青いパンツを履くよりもいい考えだと思ったが。
「私が本当に欲しいブル―は、それじゃないのよ」
「本当に欲しいブルー?」
「うん。本当に欲しいブル―」
ブルーねぇ。
「昔テレビで、あったよな。ブルーとか、レッドとか、イエローとか」
「最近はブラックもあるらしいよ」
ぶ、ブラック?
「へぇ。今度ちびに聞いてみよう」
なんて、言いながらヤバイと思った。
『ちび』なんて子ども連想させる言葉を、凪子の前で出す自分の無神経さに冷汗がでる。
「あぁ、美波さんとこの?」
凪子もご丁寧に話しにのってきやがる。ますます、冷汗だ。
「あっ。あぁ。つ、つまりだなっ!」
「な、なに? 突然大きな声出さないでよ。びっくりするでしょ」
「あっ。ごめん、つまり俺が言いたいのは」
「なによっ?」
「だ、だから。その。サムシングもいいけど、幸せになって欲しいとアンタに」
「……」
「メチャクチャ幸せに」
くるんと傘を回しながら凪子が笑う。
「メチャクチャって、あんまりいい響きじゃないけどねっ」
「えっ? そうか?」
国語2の凪子に言われてしまった。
「でも、そうね。うん。がんばる」
そう言って口角を上げただけの微笑を、凪子は俺に向けてくる。
心配になる。
「だ、だから。少しくらい気に入らないブルーでも大丈夫だって」
自分の発言ながら、意味不明だった。
「そっか。そうね」
そんな励ましにも、凪子は相槌をうってくる。
こういうところ、本当に凪子は優しい。
「でもね」
再び凪子が傘をくるんと回す。
「気が付かなかったけど、私はそのブルーがずっと欲しかったの。その事に私ってば、今ごろようやく気が付いちゃって」
そんなに悲しい顔をして、凪子は一体どんなブルーを諦めたというのだろう。
「凪子」
「でも、いいの。気が付くのが遅かったの。欲しいものが手に入らなくてだだをこねるなんて、子どものすることだものね」
そう言うと、ひらひらと手を振って凪子は雨の道を歩き出した。
霧雨の中、まるでどこかに消えてしまいそうになるくらい、凪子は独りだった。
なんだ。
なんだ。
なんなんだ?
そんな凪子の姿に、胸がざわついてしまう。
その晩、夢をみた。
眩しい光を感じながらそっと目を開けると、そこは砂浜だった。
大昔の頃の夢だ。
みんな小学生の姿だった。
これは全くの作り物の夢って訳でもなく、どちらかというと回想する様な夢だった。
姉さんや凪子のワンピースには見覚えがあった。
真波姉は、ひまわりのワンピース。
美波姉は、さくらんぼのワンピース。
その隣には、麦藁帽子をしっかり被った凪子が紫陽花のワンピースを着てニコニコしながら立っていた。
俺は、半ズボンなんか穿いていて裸足で砂浜を走りまわっていた。
ギュギュとしなる砂の感触を足の裏にくすぐったく感じながら走っていた。
そんな俺を他所に、姉たちと凪子が砂で城を作り出し始めた。
砂浜の上には、赤や黄色のカラフルなバケツやシャベルがあってみんなそれぞれの道具を使って城を作っていた。
姉たちから俺に、バケツに海水を入れて運べとの命令が下った。
触らぬ神になんとやらで、俺は大人しく海水を運び始めた。
最初こそ、少なめに海水を入れて運んでいた俺だけど、段々と面倒になって(なんで俺がやるんかいな!と)バケツに出来るだけ一杯一杯に海水を汲むようになっていった。
ぐいぐいと、満水状態のバケツを、うんしょうんしょと運んだ。
プラスチックの柄の部分が、うぃんとしなるのが分かる。
やばいかなぁ、と思った。
俺の視界には、ワンピースを砂まみれにしながら城を夢中で作る凪子が見えた。
姉達はさすがに年上なだけあって、ワンピースの裾が砂に付かないように注意しながら遊んでいた。
ぱっと凪子と目が合った。
すると、凪子は砂まみれのままで僕の方に走ってきた。
凪子が走るたびに、腕から、膝小僧から、ワンピースから、砂が飛び散った。
「真潮!」
凪子が、俺の名を呼ぶ。
「見てっ!」
そう言うと凪子は、俺の後ろを指差した。
俺は重いバケツを砂浜に置くと、凪子に言われるがままに後ろを向いた。
ザザザザザザという音とともに、サ―――っと押しよせる波が足元を濡らした。
日差しは眩しくなってきたのに、海水はまだ冷たかった。
夏でもない、冬でもない。
名前のない季節の海が、目の中に入りきらないくらい広がっていた。
「キレイ」
引き潮に凪子の声が吸い込まれていく。
波は凪子のつぶやきを、海の底まで運んでいくように見えた。
海は、本当に綺麗だった。
海水を汲むことばかり考えて、ろくろく俺は海を見ていなかった俺に凪子が教えてくれた。
「とってもキレイな青だね」
凪子が嬉しそうに言う。
青。青といえば――。
「『ブルー』だっ!」
夢中になって見ているテレビの特撮ヒーローの『色』を思いだした。
『青』は『ブルー』だと。
「ほんと、『ブルー』だ」
ニ人して、げらげらと笑った。
凪子も俺の影響で、その番組が大好きだった。
そして、ニ人してナンバー1でないナンバー2の『ブルー』のファンだった。
ブルー。
―――― 海。
ブルー。
――― 海。
ブルー?
―― 海?
『真潮だってそうでしょ? 子どもが沢山いる、そんな家庭がいいでしょ?』
『本当に欲しいブル―はそれじゃないの』
『真潮なら作れるわよ、賑やかなカゾクを』
幼い凪子が笑う顔と、今の凪子の悲しい顔がダブり。
そしてその笑顔は、泡の様に消えていった。
次の日、家に帰る途中に寄った本屋では、レジの側に置かれたラジオから週末の天気予報が流れていた。
『……地方の週末のお天気は晴れ。久しぶりの青空が広がる事でしょう』
「あっ。真潮。お帰り」
俺は傘を畳みながら、その声のする隣の家のニ階を見上げた。
「この間、美波ちゃんに電話をかけて、お礼を言ったんだ」
凪子は、雨だというのに窓から首を出して、俺のいる下を見下ろしていた。
「凪子」
俺の言葉に凪子がビクンとした。
「今度の土曜、空けといて」
有無を言わせぬ、俺の声の掛け方だった。
凪子は驚いた顔をしながら、俺のことをじっと見つめていた。
そしてその凪子の長い髪は、まるで雨の糸の様に、俺に向って真っ直ぐに垂れていた。
天気予報は、驚くほど当たった。
どこまでも突き抜けるような青空が、俺らの頭上に広がっていた。
そんな中、凪子は仏頂面だった。
凪子は、自転車と俺を交互に見て心配そうな顔になっていた。
「どこに行くの?」
当然の質問を俺に向けてくる。
「俺が、凪子が欲しい『ブルー』をあげられるところ」
ギクリとしたあと凪子の表情が揺れる。
「真潮。なに、いい加減な事を言っているの?」
凪子が俺を射抜くような瞳で見つめてきた。
「いい加減な事だかどうか、凪子が確かめればいいだろ」
「……」
「凪子」
「乗るわよ」
自転車は凪子を乗せて走り出した。
「見かけによらずアンタ、重いねぇ」
自転車を漕ぎながら凪子に声を掛ける。
「バカ」
凪子の声が柔らかく俺の背中に響く。
「嘘だよ。悲しくなるくらい軽んだけどさ。食ってる?」
「……バカね」
本当にさ。
凪子のあまりの軽さに、俺は不安になっちゃうよ。
自転車はあっという間に海岸通りに出てきた。
「アンタの欲しいブルーって、海だろ」
俺の背中を掴む凪子の手の力が、一瞬抜けるのを感じた。
「おーい。凪子さん。後ろに乗ってるかい?」
「の、乗ってるでしょ」
「返事は」
「なんのよ」
「だから、アンタのブルーのだよ」
「あぁ、どうかな。忘れた」
凪子の声が上ずっている。
「物忘れババァ」
「バ、ババァですってぇ! あぁ、そうね。うん、そうかもそうかも。真潮の言う通りかも、これで満足?」
「満足だよ」
「そっ。それはよかった。じゃ、家に戻りましょ」
俺の背中のシャツを凪子がぎゅいと引っ張る。
「凪子の国語力に問題あり」
「な、なにがよ」
「凪子はさ、『俺が海をあげる』ってどういう意味だと思っているの?」
波音が、BGMのように海岸沿いを走る俺たちの耳に響いてくる。
「知らないわよ」
嘘つきな凪子の声が波音にのまれる。
「泣くかな、母親」
「えっ?」
「泣くかもな、凪子の母さんも」
「……真潮」
自転車を停めて、凪子へと振向く。
「攫っていいんだよね?」
「真潮」
「攫うから、ダメでも」
そう言って俺は再び自転車を漕ぎ出す。
背中の凪子は何も言わない。
言わないのをいい事に、俺はどんどん走り続ける。
走りながら、やっぱり不安になる。
「どこに行くの?」
ようやくしたの凪子の声だった。
「役所だよ」
「えっ?」
「美波姉のお古の届があったからさ、婚姻届」
「真潮」
「これぞまさに『サムシング オールド』ってヤツだろ?」
わざとおどけた口調でそそくさと話してしまう。
凪子の反応が気になる。
「ばかっ」
凪子の細い腕が、俺の腰にぎゅっと回された。
これは……YESだっ!
体中の細胞がワッと沸騰した感じがした。
シャツ越しに、凪子の体温を感じた。
その温もりは、俺がずっと欲しかったものだった。
正直、これから面倒くさい事がごまんと待っているだろう。
それこそ『勘当モノ』のお怒りを受ける可能性もあるんだ。
でも。
それでも。
梅雨に晴れ間の、こんな天気があるように、
大丈夫、どうにかなるさ。
潮風が優しく吹いてくる。
大きな犬と散歩をする人と通り過ぎる。
空もブルー
海もブルー。
凪子の体温を背中に感じながら。
役所までは、あと少し。