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サムシング ブルー  作者: 鹿の子
1/5

前編

 花嫁が、結婚式の時に身につけると幸せになれるという、『四つのサムシング』ってヤツがあるらしい。


 サムシング ニュー

 サムシング オールド

 サムシング ボロゥド

 ―――― そして

 サムシング ブルー




真潮(ましお)っ!」

 でっかい声が、頭上からブンと降ちてくる。

 俺は、迷わず声の方を見上げた。

「馬鹿でっけー口!」

 アハハと笑いながらニ階の窓から顔を出しているのは、隣に住む凪子(なぎこ)だ。

 頭には、ふわふわのレースなんかを載せている。

「アンタさぁ、それ何さ。で、何してんの?」

 同じ年のお隣さんは、相変わらず能天気に毎日を過ごされているようだ。

「えへへっ」

 顔の前に垂れてきているバサバサとした長い髪を気にもせず、凪子は俺を見下ろしていた。

 レースの布と長い髪がハラハラと垂れ下がり、まるでグリム童話に出てくる、なんとかという姫の様だ。

「綺麗でしょ? これね『ウエディング ベール』なんだっ」

 なんだっ? 今、アイツ。『ウエディング』って言ったか?

「私、またケッコンするのよっ」

「はぁ?」

 お隣の青柳 凪子サンは、既に『バツイチ』のご身分であった。



「ねぇ、田中 真潮クンっ。花嫁が、結婚式の時に身につけると幸せになれるっていう四つのサムシング、知っている?」

「四つのサムシング?」

 やれやれと仕事から帰ってきたと思ったら、今度は凪子サマのお相手だった。

 近所の商店街にある馴染みの居酒屋で、俺らは飲み始めた。

 凪子は夕食が済んでいた様で、形ばかりの中ジョッキを目の前に置いてちびちびと飲んでいた。

「そう。サムシング。それ知らなかったなぁ。だからダメだったのかなぁ」

 呆れた気持で、『鳥軟骨のから揚げ』をパクつく。

 違うだろうが。アンタがケッコンした、『大学時代の先輩』とやらには結婚前から半同棲の彼女がいて、結婚後も切れてなかったんだろうが、って。

 だから、たとえいくつサムシングを揃えていたところで、あの結婚はダメだったんじゃないかって。

「まぁ、ケッコンなんて、『宝くじ』みたいなもんだしな」

 気休めにもならない事を言いながら、箸で『ピリ辛ねぎサラダ』をつつく。

 白髪ねぎがシャキシャキとしていて、たまらなく美味い。

「でね、真潮。今度の彼は、凄く真面目そうな人なんだぁ」

 ハイハイ、と思う。『真面目そうな人』ね、と。

 たしか、お別れしたダンナサマの事は『誠実な人だ』って言ってたよな。

「ワシ、アンタの国語表現力を信じてないから」

 大ジョッキのビールに口をつける。

 グラスは白く曇るほど、キンキンに冷えていた。

 ピリピリと冷たく喉にくる、こんなビールは最高だった。

「私の国語表現力って何よ」

 不機嫌そうな顔をして、凪子が無造作に自分の髪をスーッといじった。

 その仕草から目をそらす様に、僕は壁に張ってあるメニューを見る振りをした。

「あっ。『タコキムチ』だって。凪子もキムチ好きだよな」

 通りかかった店員さんに、追加注文をした。

「で、何よ。その表現力って」

 凪子の言葉に、ぎゅっとビールを飲む。

「国語2」

 凪子のはっきりとした二重の目が、どんぐりみたいに大きくなった。

「なにそれ」

「アンタの中高の成績」

「そんな昔のこと」

「いや。アンタの悲劇は、そこにあると俺はみてるけど」

 早速運ばれてきた『タコキムチ』に箸をつける。

「つまりさ。『言葉』っていうのは『パワー』がある訳よ」

「また、ウンチクですか? センセ―」

 確かに俺は、『センセイ』してます、中学校で国語の。

「そうそう。まぁ、聞きなって。つまりさ、言葉を口に出すとそれが耳に入るだろ?」

「センセ―。『耳』以外の場所に入ったら困りまぁす」

「アンタ、うるさいよ。で、それが耳に入ると、当然脳みそがその『言葉』を聞いちゃう訳だ」

「何を」

「つまり『あの人は、真面目なそうな人よん』ってさ」

「別に、いいじゃない」

「そうすっとさ、脳みそは情報としてインプットしちゃうんだよ、『何がし佐助くんは、真面目そうな人よ』ってさ」

「彼。『佐助』って名まえじゃないけど?」

「まぁ、名まえは何でもいいのっ。で、脳みそにその情報が保存されると『ウエルカム。凪子の勘違いワールドへ』って運びになる訳さ」

「よくそんな『ほら話』が、次から次へと浮かぶわねぇ。真潮って」

「ほらほら、そういうことを言うと『ほら吹き真潮』って言うのがアンタの脳みそにインプットされるでしょ? 困るんだよね」

「もうっ! ばかばかしいんだから」

「だぁ、ねぇ」

 ホントバカバカしい会話だっていうのは、了解しております。

 こんな実りの無い話を、わざわざアンタに話すなんてさ。

 いくらこんな警告じみた事を吐いたところで、凪子には少しも伝わりやしない。

 いつだってバカみたいに、いい加減な男にひっかかって、挙句の果てに捨てられて。

 凪子の恋の歴史は、それの繰り返しだ。

 惚れっぽくて、男をすぐに信じちゃって、お人よしで鈍感で。

 でも、悔しいけれど。

 そんな凪子がたまらなく可愛かった。

 ずっと好きだった。

「まぁ、誰とケッコンしてもいいけどさ」

 独り言の様な台詞を吐いた。

 凪子が俺を見ながら、ちっとも減らない重そうなジョッキに、ちまっと口をつけた。

「ともかく、幸せになってくださいよ」


 ホント、そうしてくれよ。

 俺のモノになりゃしないのに、ひらひらと舞い戻って来なさんなよ。

 パーッとド派手に幸せになって、でもって、早く俺にアンタを忘れさせてくださいよ。


「バーカ」

 そう言うと凪子は、幸せそうな顔をして、コトンとジョッキをテーブルに置いた。




 お隣が、なんだかあわただしくなってきた。

 ニ度目とはいえ、やはりおめでたい話はおめでたいらしい。

「凪子ちゃんみたいに、一人で二回する人もいるのにねぇ」

 母親は新聞紙の上で絹さやの筋を取りながら、俺の事をちらりと見た。

「真潮。あんたイイヒト、誰かいないの?」

 そして今度は、俺をわざと見ない様にして聞いてきた。

「イイヒトねぇ」

「何なら、お見合いでもしてみない?」

「はぁ?」

「まぁ、そういう話もあるってことよ。一応、考えておいてね」

 さぁてと、と母親は言いながら立ち上がると、筋がのった新聞紙をくるりと纏めて屑箱にポンと入れた。




「真潮」

「よお」

 夜のコンビニで、凪子に会った。

 凪子の持つプラスチックのカゴの中には、いくつかの種類のチョコが入っていた。

「チョコ女、健在だな」

 にやり、と笑って凪子を見た。

「あったぼ―よ! 新製品よ。見逃せないでしょ。しかも、コンビニ限定品」

 威張ったように、凪子がカゴの中身を俺に見せてくる。

「真潮は、何か買いに来たの?」

「あーっ、と。雑誌、なんか適当にね」

「ふぅん」

 雑誌のコーナーに足を進める俺に、凪子もトコトコ付いてきた。

「進んでるの? 『ご成婚』の準備とやらは」

 社交辞令として、一応聞いてみる。

「あぁ。そんな、直ぐにって訳じゃないのよ、全然」

 落ち着きなく、凪子がチョコしか入っていないカゴを揺らしていた。

 俺は、雑誌の棚にあるスポーツ雑誌を手にした。

 パラパラと雑誌の内容を見る。

「それ、買うの?」

 凪子も俺に並んで、雑誌を捲りだした。

 カゴはその細っこい腕に掛けられたままだった。

「どうすっかなぁ」

 そう言いながら、凪子の腕にぶら下がっていたチョコしか入っていないカゴをぶん取った。

「ありがと、真潮」

「どうイタバシ」

「イタバシ? もうっ、バッカねぇ」

 ケタケタと凪子が笑う。

 無邪気な笑顔を俺に向けて、凪子は隣に立っていた。

 こんな、まるで『気のいいトモダチ』の役目なんかする自分に嫌気がさす。

 コンビニの蛍光灯ってヤツはやけに明るいんで、俺は自分の嘘がその光に暴かれやしないかって、冷や冷やとした。

「ねぇ」

「なんだよ」

「真潮さぁ、お財布、持ってる?」

「うん」

「実は、忘れちゃったんだ。私」

 そう言うと今度は、悪戯そうな笑顔を俺に向けてきた。




 コンビニを出入りする瞬間に鳴るチャイムの音に慣れてしまったのは、いつ頃からだろう。

 最初は気になったこの音も、何度か来るうちに気にならなくなった。

 音ってモンはそんなモノなんだろう。

 いつの間にか慣れて、いつのまにか馴染んでいる。


 凪子は、一人娘だった。

 上に姉が二人いる三人キョウダイのウチとは、随分様子が違った。

 二人ともとっくに嫁に行った訳だけど、現役時代(?)の我家は、そりゃかしましいと言うか、うるさいと言うか、大騒ぎだった。

 それに比べて、凪子の家は静かだった。

 ただ、朝の「行ってきます」と夜の「ただいま」の声だけは、俺の部屋にいても聞こえてきた。

 凪子が一年と少し前に嫁に行った時は、当然の事だけどピタリとその声はしなくなった。


 凪子の声が聞こえない。

 それだけで、隣の家はシンと静まりかえったように思えた。

 調子が狂った。自分の生活から何かが欠けてしまったという虚無感があった。

 なのに凪子は、去年の秋にふらりと戻ってきては(まぁ、離婚していた訳だけど)まるで結婚などしていなかったかの様に、以前と何ら変わりなく暮らし始めたのだ。

 そしてまた、凪子は嫁に行くのだという。

 このお嬢さんは(お嬢さんと呼ぶのも段々と微妙なお年頃だが)、一体何を考えて日々暮しているのだろう。

 こっちのそんな気も知らずに、鼻唄なんか歌いながら凪子は俺の隣を歩いている。

 『TSUNAMI』なんか、歌っている。

 何だか、腹が立つ。

 歌うなって、その歌をアンタが。

 むしろその歌を歌うのは俺だろうが、って。


「波の音がするね」

 鼻唄が止まって、かわりに凪子の声がした。

 さわさわと絹糸みたいに、凪子の髪が海風に乗り、揺れ、闇に溶ける。

 手を伸ばして掴まえたくなる。触りたくなる。

「あぁ、そうだな」

 凪子に答えた。

 ザザザザザ、ザザザという音が、くり返し耳に優しく響いた。

 あのコンビニは、海に来た人を目当て建てられているので、俺たちが住む家よりも、若干 海に近かった。

 海の音も強く聞こえた。


「なんかさ。ほっとするんだよね。波の音ってさ」

「あぁ、そうだな」


 波の音。凪子の声。

 本当に、ほっとするよ。


「ねぇ。なんで波の音がほっとするか知ってる? 田中センセイ」

 悪戯な瞳を輝かせて凪子は俺を見る。

 たいていこういう表情のときは、凪子は答えを知っているのだ。

「ん、そうだなぁ」

 ワクワクした表情を凪子は俺に向けてくる。

 お姫様は、答えをお待ちの様だ。

「心臓の音に似ているとか?」

 適当に答える。

「えっ? そうかなぁ。そうかもね。どうしよう」

 途端にシュンとした顔に凪子はなった。

「なに。アンタ、答え知っている訳じゃなかったんだ」

「うん。今ね、ピーンと思いついたから、真潮に言ってみたの」

「なんだそりゃ」

 訳がわからん。

「で、アンタの答えを言ってみそ」

「ん。私の答えはね『あかちゃんがお母さんのお腹の中にいる時の音に似ているから』なんだ」

 あかちゃん?

「へぇ、でもさ。なんか、いいね、その答え」

「でしょ?」

「でも、なんで『あかちゃん』?」

「あぁ。うん。実はさ、私の彼。産婦人科のお医者さんで」

「はぁ?」

「で、なんか。まぁ、ね。私も色いろと詳しくなったと言うか」

「へぇ」


 今度のお相手は医者かよ。

「玉の輿じゃん」

「ん。でも、そんなんじゃないよ」

 ? 凪子の今の表情は少しヘンだった。

 悲しそうな。

 でもまさか。なんで悲しそうな顔するんだ?

「あのさ、私、前から真潮に聞きたかったんだけどさ」

 いつになく真面目な凪子の声だった。

「真潮は、この町から出ようと思った事はないの?」

 それは、俺にとっては思いがけない質問だった。

「考えた事、ないな。この町好きだしさ。就職だって、ここから通える私立の学校をわざわざ探した訳だしね」

 ふーん、と凪子がつぶやく。

「真潮のお姉ちゃんたちはさ。みんな遠くに行ったよね」

 そうだ。旦那の仕事の関係で、一人は海外に、一人は東京に。

 みんなバラバラの場所で暮している。

「でも真潮だって、いつかはケッコンする訳でしょ?」

「まぁ、そうだけど」

「そうしたら、引っ越すことになるでしょ?」

「まぁ、そうなってもさ。ここの地元で適当に家を探して暮らすさ」

「へぇ」

「だから、俺のオクサンには、もれなく『海』が付いてくるという訳さ」

 ぷぷぷ、と笑う凪子の声が波音に混じる。

「なに、それぇ」

「いいだろ」

「ぜ~んぜん。第一、その言い方って、まるでこの海が真潮のものみたいじゃないの。 ヘンくさーい!」

「ちぇ」

「もしかして真潮って、いつもそうやって女の子口説いているわけ?」

「あっ。ばれたか」

「バレバレよぉ」

 凪子は嬉しそうにケタケタと笑う。

 俺も、そんな凪子の笑についついつられて、声だけで笑ってみた。

 でも、心臓は。ジリリと焼け焦げる様に痛かった。

「もれなく『海』付きかぁ」

 凪子がつぶやく。

「じゃあ、お見合いの彼女もさ、海が好きな人だといいね」

 ひゅっと息が止まりそうになった。

 うちの母親と凪子の母親の情報速度は、光通信も真っ青だ。

「真潮ってさ、お見合いするんでしょ?」

「あぁ。わからん」

 なんでこんな会話を、せにゃならんのかいな。

 全く、男として問題外の立場にあることを思い知らされてしまう。

「真潮も結婚かぁ」

「だから、そうと決まった訳では」

「なんか、真潮が結婚なんてさ。実家が無くなっちゃう様な気分よ」

「なんだ、そりゃ」

「ん。だってさ、なんか真潮がいないとさ」

「あ?」

「実家に帰ったって気がしないじゃない」

 俺は、アンタの兄ちゃんかいな。

「じゃ、俺はアンタが実家に帰ったって実感できるようにずっと家に張り付いていろと?」

「そうそう」

「なんじゃい、それは」

「いいでしょ」

「よかねぇよっ!」

「だめか」

「一体、人をなんだと」

「だから、真潮のお姉さんたちがさ」

「は?」

 って、またうちの姉たちの話かいな。

「ううん。あっ、つまりね。私はずっと真潮が羨ましかったの」

「なぬ?」

「ほら、真潮の家ってなんかいつも賑やかでさ」

「あれは、『うるさい』って言うんです」

「ん。まぁ、実際に住んでいる人はそうなのかなぁ。でもね、真潮のこと、ずるいって思ってた、ずっと。 私もキョウダイ沢山欲しかった」

「あんな、姉でよけりゃ、ドーゾあげます」

「またまた、もう。ふざけないで聞いて。でね、私は真潮の家が羨ましくて自分でも早く家族を沢山作りたいと思ったの」

「へぇ」

「真潮だってそうでしょ?子どもが沢山いる、そんな家庭がいいでしょ?」

 子ども? 考えたことなかったけど。 まぁ、そうなのか? 

 そうなのかもしれないなぁ。

「あぁ、そうかもね」

「ねっ。そういうモノよ」

 そんなモンですかねぇ。

「真潮なら作れるわよ、賑やかなカゾクを」

「そうか? まぁ、なるようになるというか。しかしさ。そんなこと 考えて結婚するなんてさ、凪子も変わっているねぇ」

「へへっ。まぁ、それで一回失敗したけどね」

「まぁ。そうだぁねぇ」

「でさ、お姉さんが次々とお嫁に行った時だけどぉ」

「あぁ」

「凄く寂しかった。なんか、真潮の家がシーンとしちゃって」

「……」

「でもね、その時に。たまになんだけどね。真潮の声が聞こえたり、真潮が出掛ける音が聞こえたりして。凄くほっとしたんだ。なんか、『あぁ~よかった』って」

「ふーん」

「私の結婚が上手くいかなくて、帰ってきた時もそうだった。真潮がいたから。なんか、『あぁ、帰ってきたんだ』ってほっとしたし」

「『し』?」

「うん。嬉しかった」

「へぇ」

 意外な凪子の言葉だった。

「まぁ、さっ。あと一年くらいは俺も結婚しないだろうから。二度目もダメになりそうになったら、一年以内に戻ってきなさい」

「もう。やな事いうわね」

「親切心と呼んでくれよ」

「それもそっか」

 凪子がクスクスと笑い出す。でも、その笑いは直ぐに止まってしまった。

「どうした?」

 心配になってついつい訊ねてしまう。

「私ね、真潮。今度はうんと遠くに行く事になるかもしれない」

 離婚するまで凪子は、ここから自転車で二十分もかからない町に住んでいた。

「彼の仕事場が変わるらしくて。で、そこはね、海の見えない町なんだって」

「へぇ」

 凪子が結婚する事はもう当然知っているというのに、面と向ってこんな言葉を聞くと、情けないけど動揺してしまう俺がいた。

 早く俺から離れて欲しい、どこか遠く―視界の範囲外に行って欲しいと思っているのに、心のどこかに相反する気持があり、それが拭い去れないのも事実だ。

 二つの気持がグルグルと、終わりがないかのように回っている。

「海が見えないって事は、潮の香りも、波の音もしないって事かな」

 凪子が俺に、確認するかのように聞いてくる。

「まぁ、恐らくね」

 恐らく? 嘘だよ。 きっと波の音は、聞こえない。

「だよねぇ」

 そうだよ。

「じゃぁ、今度こそサヨナラってワケだ。『海』とも」

 俺もわざと明るく振舞いながら、酷くうすっぺら声を出した。

「そっか。サヨナラか。海とも」

 凪子は、自分の髪をひょいと耳にかけた。

 そして、今度は自分に向って確認するかのように、小さな声でつぶやいた。

「サヨナラ、なんだね」

 そうだよ、サヨナラなんだよ。海とも。

 そして、―― 俺とも。





 天気予報によると、来週の初めには、ここいらも梅雨入りするらしい。

 晴れた海が見られるのも、今日明日の土日が最後かもしれない。

 ガサガサと、母親が食堂の机の上で宅急便の包みを開けている。

 父親は、小学校時代のクラス会の幹事会とやらで朝早くから出かけていた。

「あらら」

 包みを開けながら母親が声をあげる。

 その箱には、母親あての雑貨の他にもう一つ別の袋があった。

「なに、それ」

 俺は、少し遅めの朝食を食べる為に珈琲をカップに注いでいるところだった。

「美波からの宅急便なんだけど」

 そう言いながら二番目の姉の美波からの荷物に同封されている封筒をパラリと開けた。

「これ、凪子ちゃんに渡してくれって」

 凪子?

「なんでも、結婚式で使うサムシングがどうのって」

 あぁ、四つのサムシングか。

 あいつ、あの事は冗談じゃなかったんだな。

「真潮、これを凪子ちゃんに渡してきて」

「えぇ?」

「ご飯食べてからでいいから」

「あぁ。まぁ、解ったよ」

 食卓の上にはトーストとベーコンとグリーンサラダが載っていた。

 横目で、その荷物を見ながら、俺は熱い珈琲を一口飲んだ。






 びゅんびゅんと、海沿いに続く道を自転車で走る。

 空は高く、雲ひとつない晴天だった。

 海も穏やかで、吸い込まれそうに遠くまで遠くまで続いていた。

 夏の海が好きだと多くの人は言うだろうけど、梅雨に入る少し手前のどこの季節にも属さないかの様なこんな海が、俺には一番綺麗に見えた。

 『凪子は、海に行くって言って出かけたんだけど』

 母親に頼まれて行った凪子の家で、おばさんがそう教えてくれた。

 まぁ、出直してもいいんだけど。

 今日は、せっかくのいい天気な訳で、自転車で海まで飛ばすのも悪くない気がした。

 だから、姉からの荷物を紙袋に入れたままで、そのまま海へと向った。

 姉からの預かり物は、『白い靴』と『レースの手袋』らしい。

 どっちが『オールド』で、どっちが『ボロゥド』か。

 そんな事を考えながら、好きな女の花嫁道具を運んでいた。

 しばらくこぐと、はるか先に日傘を差して座る女が見えた。

 ―― 凪子だった。

 凪子は、道路から海へと降りていく階段の一番上にノースリーブのチェックのワンピースを着て、座っていた。

 日傘の色はあろうことか、真黒だった。葬式みたいだった。

 近づく俺に気がついたのか、傘を持ちながら手を大きく振ってくる。

「なにしてんだよ」

 声が届きそうな距離になり、凪子に声を掛ける。

「日光浴よ」

 凪子が笑う。

「真黒な日傘さしてかよ」

 俺も言い返す。

「だって、日焼けしたら困るもん」

 言ってることが矛盾してるって。

 まぁ、黒は紫外線をブロックしやすい色らしいけどさ。

 でも、やはりぎょっとする。『黒の日傘』は。

 凪子の側まで来た俺は、道路脇に自転車を止めて凪子の後ろに立った。

 凪子は、アイスを食べていた。

「アンタ。いい身分だな」

 棒の付いたチョコアイスだった。

「いい身分でしょ」

 ニカっと笑った凪子の唇がチョコ色に染まっているのが見えた。

 紙袋を持って、凪子の隣に腰掛けた。

「海、綺麗だね」

 凪子が言う。

「あぁ」

 俺も答える。

「私、一年の中で一番この時期の海が好きかなぁ」

「へぇ」

 へぇ、なんて愛想のない返事で誤魔化す。

 そっか。凪子も、俺と同じような事を思っていたんだな、と思った。

「はいよ」

 ポンと、凪子と俺の間に紙袋を置いた。

「プレゼント?」

「誰が、誰にじゃ」

「えへへ」

 凪子の日傘を持ってやった。

 凪子はアイスを口にくわえながら、がさごそと袋の中をいじりだす。

 そして一番上に載った、姉からの手紙を読み出した。

 相変わらずアイスは口の中に入ったままだ。

「たれるよ」

 んんんん、と言いながら、凪子は手紙を紙袋に戻し、アイスを手に持ち食べ始めた。

「美波ちゃんにお礼を言わなきゃ」

 細く小さくなったチョコのアイスが、ぱくりと凪子の口に入った。

 左手には、茶の色を残したままのアイスの棒だけが残った。

 綺麗に塗られたマニキュアの指と、チープな感じのアイスの棒が、妙な違和感を醸し出していた。

 口をもごもごさせながら凪子が話す。

「あとは、ブルーだわ」

「ブル―?」

「そうそう。サムシングニューのドレスとブーケでしょ、オールドの靴と、ボロゥドの手袋と。だから、あとはブルー」

 なるほど。その『ブルー』ね。

「あのさ、質問していい」

「どーぞ」

「同じ美波姉から借りたもので、オールドとボロ―に分けるのって、反則じゃないの?」

 凪子がぶっとした顔になる。

「いいんです。気持の問題だから」

 偉そうな顔して凪子が話す。気持の問題、ね。

 そんなもんか。


「ブルー。どうしよう」

「青いパンツでも履きゃあいいじゃん」

「青パンかぁ」

「略すな」

「でも、いい考えかも」

「冗談だろ?」

「冗談に決まってんじゃない」

 ケタケタと笑う凪子のでかい口には、やっぱりチョコがついていた。

「チョコ」

「えっ?」

「チョコが」

「あぁ、アイス食べたかった? 真潮も」

 誰が、食いたいって?  

 凪子は左手のアイスの棒を見ている。

「もう、残ってないしねぇ」

 だからアイスを食いたい訳じゃねえっ――――。

 ガサシュッという紙袋のつぶれる音がした。

 あっ? と思うと、俺の直ぐ前に凪子の大きな二重の目が見えた。

 その目には、俺が映っていて。

 次の瞬間、唇に冷たい感触がした。

 自分の頬に、凪子の髪が触るのがわかった。

 俺は、黒い日傘を差したままだった。

 何が、何だかわからなかった。

「今の」

 自分でも、情けないくらいの間抜けな声だった。

 凪子は、特に変わった風でもない顔をしている。

「お味見、チョコアイスの」

 平然とした声で凪子が答える。

 うろたえているのは、俺のほうだ。

「あっ、あぁ。味見ね」

 ここで動揺しては、かっこ悪い気がして俺もそう答えた。

 凪子は黙って海を見ている。

 俺は急に居心地が悪くなってきた。

 と、いうよりも。一刻も早くここから逃出したかった。

「み、美波姉からの荷物は、渡したからな。あと、これっ」

 そう言ってブンと、日傘を凪子に差し出す。

 凪子は驚いたような顔をして、俺を見た。

「日光浴だけど、日焼けは困るんだろ」

 そう言いながら俺は、ひょいと立ち上がった。

「俺、帰るから。アンタも、気をつけて帰れよな」

 まともに凪子の顔が見れないくらい、心臓がバクバクしていた。

 こんな姿を生徒に見たれたら、絶対にバカにされてしまうだろう、という程の狼狽ぶりだった。


 俺は急いで自転車を方向転換させると、それにまたがり、こぎだした。

 視界から凪子は消えたけど、背中ではおもいっきり凪子のことを見ている自分がいた。

 そんな俺の背中に向けて、凪子が何かを言ってきた。


 バ カ  マ シ オ


 凪子は、確かにそう言った。



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