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貴方が捨てた女は、公爵に拾われました

作者: 夢見叶

「婚約破棄だ、フィーネ」


 ルーカス様の声が、春の庭園に冷たく響いた。


「君との縁は、ここで終わりにする」


 ああ、やっぱり。

 私は驚かなかった。この一年、ルーカス様が私を見る目がどんどん冷えていくのを感じていたから。


「……理由を、伺ってもよろしいですか」


「聖女エルザと出会った。彼女こそ俺の運命の人だ」


 運命の人。その言葉を、私に向けてくれたことは一度もなかったのに。


「君も分かっているだろう。俺たちの婚約は家同士が決めたものだ。最初から愛などなかった」


 ルーカス様は、まるで事務的な報告をするように言った。

 愛などなかった。

 その通りだ。ルーカス様は私を愛さなかった。でも私は、私なりに努力した。好きになろうとした。少しでも距離を縮めようと、心を込めて贈り物をした。

 全部、無駄だったけれど。


「婚約破棄に伴う賠償については、父上から連絡がいくだろう。形式的なものだ、すぐに片付く」


「……承知いたしました」


 私が静かに頷くと、ルーカス様は一瞬だけ眉を動かした。


「泣かないのか」


「泣いてほしかったのですか」


「いや。君は昔から、何を考えているか分からない女だったな」


 違う。私は分かりやすく伝えていた。ルーカス様が見ようとしなかっただけだ。

 でも、もういい。


「では、ルーカス様。お幸せに」


 私は最後の礼をして、背を向けた。

 追いかける気配はない。当然だ。彼にとって私は、最初から「いらないもの」だったのだから。

 ――手放そう。

 この人への期待も、未練も、全部。私は静かに、この手を離すことにした。


 庭園を出ると、冷たい風が頬を撫でた。

 泣いていないのに、目の奥がじんと熱い。悲しいのではない。虚しいのだ。

 私がルーカス様に贈った懐中時計。亡き母の刺繍を施した、私なりの誠意の証だった。

 返してほしいとは言えなかった。言っても、きっと「そんなものあったか」と返されるだけだから。


「ハイゼン伯爵令嬢」


 低い声に、足が止まった。

 振り返ると、黒髪の男が立っていた。軍服に身を包み、灰色の瞳がまっすぐに私を見ている。

 北領公爵ヴァルター・ノルトハイゼン。

 王国最強の騎士と謳われ、北の国境を守る武人。社交界では「北領の狼」と呼ばれ、誰もが畏れる存在。

 なぜ、この方がここに。


「失礼ながら、聞こえた」


「……」


「泣かないのだな」


「泣く理由がありませんので」


 私の言葉に、公爵閣下はわずかに目を細めた。


「強がりか」


「いいえ。諦めです」


 正直に答えると、閣下は何も言わなかった。ただ、その灰色の瞳が、じっと私を見つめている。

 居心地が悪い。この方の視線は、まるで全てを見透かすようで。


「失礼いたします」


 私は頭を下げて、その場を離れようとした。


「待て」


「はい」


「顔を上げろ」


 言われるまま顔を上げると、閣下の表情は変わらない。けれど、その視線に宿る温度が、少しだけ変わった気がした。


「お前の名は」


「フィーネ・ハイゼンと申します」


「フィーネ」


 私の名を、閣下が呼んだ。

 それだけのことなのに、胸の奥がざわりとした。


「覚えておく」


 閣下はそれだけ言って、背を向けた。

 ……何だったのだろう、今のは。

 私は首を傾げながら、屋敷への道を歩き始めた。


 翌日、ハイゼン伯爵家に一通の書状が届いた。

 差出人は、北領公爵家。


「フィーネ、これは一体どういうことだ」


 父の声が震えている。


「北領公爵閣下から、お前に会いたいとの申し出だ。しかも、執事を直接寄越すと」


「私にも分かりません」


 昨日庭園で会話を交わしただけだ。名前を聞かれて、覚えておくと言われただけ。

 それなのに、なぜ。


「お嬢様」


 玄関から声がかかった。


「北領公爵家執事、ゲオルクと申します。閣下より、お嬢様へお渡しするものがあるとのことで参りました」


 現れたのは、銀髪の老執事だった。背筋が伸び、穏やかな笑みを浮かべている。


「お渡しするもの、ですか」


「はい。こちらを」


 ゲオルクが差し出したのは、小さな箱だった。

 開けた瞬間、息が止まった。

 懐中時計。

 銀の蓋に、青い糸で刺繍された野花。亡き母が私に教えてくれた、ハイゼン家に伝わる花の紋様。


「どうして、これが……」


「閣下が王都の質屋で見つけられました」


「質屋」


 頭が真っ白になった。

 私がルーカス様に贈った時計が、質屋に。


「ベルクハルト侯爵子息が半年ほど前に持ち込まれたそうです。閣下は買い戻しの証明書もお持ちです」


 半年前。あの時計を贈ったのは一年前。つまりルーカス様は、わずか半年で私の誠意を金に換えたということだ。

 「大切にしていた」と、あの人は言った。社交の場で、何度も。

 嘘だったのだ。全部。


「閣下からの伝言です。『これはお前のものだ。取り返しておいた』」


「……なぜ、閣下が」


「それは、閣下から直接お聞きください。夜会にてお会いしたいと」


 三日後の王宮夜会。聖女エルザとルーカス様の婚約発表が行われる場だ。

 そんな場所に、私が行けるわけがない。


「お嬢様」


 ゲオルクの声が、静かに響いた。


「閣下は、嘘をつく者をお許しになりません。そして、理不尽に傷つけられた者を放っておくこともなさいません」


「……」


「夜会で、真実が明らかになります。お嬢様が望まれるなら、ですが」


 望む。私は、真実を望むのか。

 ルーカス様の嘘を暴いて、恥をかかせたいのか。

 ……いいえ。違う。

 私が欲しいのは、復讐ではない。ただ、私の誠意が嘘ではなかったと、証明したいだけだ。


「参ります」


 気づけば、私はそう答えていた。


 夜会当日。

 私は淡い青のドレスを纏い、王宮の大広間に立っていた。

 周囲の視線が刺さる。「婚約破棄された令嬢」という噂は、あっという間に広まったらしい。


「可哀想に、捨てられたのね」


「でも、聖女様が相手じゃ仕方ないわ」


「そもそも、フィーネ様は婚約を嫌がっていたらしいわよ」


 最後の言葉に、耳を疑った。

 嫌がっていた? 私が?


「ルーカス様が仰っていたの。『彼女は最初から乗り気ではなかった』って」


 嘘だ。私は一度も、そんなことを言ったことがない。

 ルーカス様は、私を悪者にして婚約破棄を正当化したのだ。


「フィーネ」


 低い声が、騒めきを切り裂いた。

 振り返ると、ヴァルター閣下が立っていた。黒の礼服に身を包み、灰色の瞳が真っ直ぐに私を捉えている。


「閣下」


「来たか」


「はい。お招きいただきましたので」


 閣下は頷き、私の隣に立った。

 その瞬間、周囲の空気が変わった。北領公爵が、婚約破棄された令嬢の傍にいる。それだけで、囁きの内容が変わっていく。


「公爵閣下がなぜ……」


「まさか、あの令嬢と?」


 閣下は周囲の視線など気にも留めず、私を見下ろした。


「怖いか」


「いいえ」


「嘘をつくな。手が震えている」


 言われて初めて気づいた。握りしめた手が、小さく震えている。


「……少しだけ」


「正直でいい」


 閣下の声が、ほんの少し柔らかくなった気がした。


「俺がいる。何も心配するな」


 その言葉が、冷えた胸に沁みた。


 夜会が進み、いよいよ婚約発表の時間になった。

 ルーカス様が聖女エルザを伴って、広間の中央に進み出る。


「本日は、皆様にご報告がございます」


 ルーカス様は満面の笑みを浮かべていた。


「聖女エルザ様と、婚約いたしました」


 拍手が起こる。祝福の言葉が飛び交う。


「前婚約者のハイゼン伯爵令嬢には申し訳ないことをしましたが、彼女も私との婚約を望んでいなかったと聞いております。お互いのために、良い決断だったと思います」


 望んでいなかった。

 また、その嘘を繰り返すのか。


「それは違う」


 閣下の声が、広間に響いた。

 静寂が落ちる。全員の視線が、閣下に集まった。


「ヴァルター公爵……?」


 ルーカス様の顔が引きつった。


「ベルクハルト侯爵子息。お前は今、嘘を言った」


「嘘? 何のことですか」


「ハイゼン伯爵令嬢が婚約を望んでいなかったと言ったな。それは事実か」


「ええ、彼女は最初から乗り気ではありませんでした。私が何を贈っても喜ばず、距離を置いていた」


「では、これは何だ」


 閣下が懐から取り出したのは、銀の懐中時計だった。

 私が贈った、母の刺繍入りの時計。


「ハイゼン伯爵令嬢が、お前に贈った品だ」


「それは……大切に保管して」


「質屋から買い戻した」


 ルーカス様の顔から、血の気が引いた。


「半年前、王都の質屋に持ち込まれた記録がある。証明書もここにある。お前は、婚約者からの贈り物を金に換えた」


「それは、その……」


「大切に保管していたと言ったな。では、なぜ質屋に」


 ルーカス様は何も答えられなかった。

 広間がざわめく。先ほどまでの祝福の空気が、一瞬で疑惑に変わっていく。


「陛下」


 閣下は国王に向かって一礼した。


「ベルクハルト侯爵子息は、婚約破棄の理由を偽りました。ハイゼン伯爵令嬢は、婚約を嫌がっていたのではなく、真摯に向き合おうとしていた。その証拠がこの時計です。母君から受け継いだ刺繍を施した、彼女の誠意の証です」


「ルーカス」


 国王の声が、冷たく響いた。


「弁明はあるか」


「陛下、これは誤解です。私は彼女を……」


「嘘はもういい」


 国王は手を挙げ、ルーカス様の言葉を遮った。


「婚約破棄は認める。ただし、賠償の条件は見直す。ハイゼン伯爵家への侮辱についても、相応の対応を求める」


「そんな……」


「下がれ」


 ルーカス様は青ざめた顔で、広間の隅へと退いた。

 聖女エルザが不安そうに寄り添っている。あの二人にとって、今夜は晴れ舞台になるはずだったのだろう。

 でも、私に同情はない。だって、あの人たちは私の誠意を踏みにじったのだから。


「フィーネ」


 閣下が、私の名を呼んだ。


「閣下」


「俺からも、話がある」


 何を言われるのだろう。

 閣下は一歩、私に近づいた。そして、信じられないことが起きた。

 跪いたのだ。

 北領公爵ヴァルター・ノルトハイゼンが、私の前で膝をついた。


「な……」


「フィーネ・ハイゼン」


 灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見上げている。


「お前を、俺の妻として迎えたい」


 広間が静まり返った。


「初めて会った時から、お前の瞳が忘れられなかった。諦めの中に、折れない芯があった。泣かずに去ろうとする背中に、俺は惹かれた」


「閣下、私は……」


「答えは今すぐでなくていい。だが、俺の気持ちだけは伝えておく」


 閣下は立ち上がり、私の手を取った。


「お前の誠意を、俺は質屋で見た。お前の心を、あの男は二束三文で売った。だが俺は違う。お前が俺にくれるものは、何一つ手放さない」


 その言葉が、凍っていた心を溶かしていく。


「俺のものになれ、フィーネ。お前以外は、いらない」


 あれから一週間。

 私は北領公爵家の客人として、閣下の屋敷に滞在していた。

 正式な婚約は、私の気持ちが固まってからでいいと閣下は言った。けれど、その瞳は毎日私を追いかけている。


「フィーネ」


 今日も、閣下は私の名を呼ぶ。


「はい」


「今日は庭を歩くか」


「はい、閣下」


「ヴァルターでいい」


「……ヴァルター様」


 その名を呼ぶと、閣下の――ヴァルター様の瞳が、ほんの少し柔らかくなる。


「様もいらない」


「それは、まだ……」


「いずれ呼ばせる」


 強引だ。でも、嫌ではなかった。

 庭を歩きながら、私は懐中時計を取り出した。母の刺繍が、春の日差しを受けて輝いている。


「それを持っているのか」


「はい。取り戻してくださったので」


「俺が持っていてもよかったのだがな」


「え?」


「お前の誠意を、俺が持っていたかった」


 ヴァルター様の声が、低く響いた。


「あの男に渡したものを、俺のものにしたかった。お前ごと」


「……」


「だから買い戻した。お前のためだけではない。俺のためだ」


 その言葉に、胸が熱くなった。

 この人は、最初から私を見ていたのだ。私の誠意を、私の心を、ちゃんと見てくれていた。


「ヴァルター様」


「なんだ」


「私、答えを決めました」


 立ち止まり、ヴァルター様を見上げる。


「貴方の妻になります」


 灰色の瞳が、大きく見開かれた。


「……いいのか」


「はい。私の誠意を、貴方は質屋で拾ってくださいました。ならば、その誠意を捧げるのは、貴方しかいません」


 ヴァルター様の手が、私の頬に触れた。


「後悔するなよ」


「しません」


「俺は重いぞ。一度掴んだら、離さない」


「それでいいです」


「本当にいいのか」


「はい。――だって、私を手放さないと言ってくれる人の方が、いいですから」


 その言葉に、ヴァルター様は初めて笑った。

 ほんの少し、口角が上がっただけ。でも、それだけで十分だった。


「後悔させない。約束する」


 ヴァルター様が、私を抱きしめた。

 春の風が、二人の間を吹き抜けていく。

 私を捨てた人は、もう振り返らない。

 でも、私を拾ってくれた人は、もう離さないと言ってくれる。

 なら、私の答えは決まっている。

 この手を、離さない。

 隣にいるこの人の手を、私はもう離さないのだ。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


婚約破棄から始まる「静かな決別」と「新しい出会い」を書きたいと思い、この物語が生まれました。

フィーネの誠意が報われる瞬間を、楽しんでいただけたら嬉しいです。


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