父さんの生まれた年
世界にぽつんと取り残されたような感覚が、全身を包み込む。50年前の世界。1975年の人間は、どんな暮らしをしているんだ? 想像もつかない。外に出れば、その答えが広がっているはずだ。言葉は通じる。土地勘だってある。それなのに、足が動かない。外に出る勇気が、まるで凍りついたように湧いてこない。
もし、この家に誰かがいたら? 突然現れた俺を、泥棒か不審者としか思わないだろう。どうやって説明しろって言うんだ? 屋根裏の蒸し暑さが、じっとりと汗を滲ませる。考え込むほど、「死」という言葉が頭を埋め尽くす。
「……っ暑い! 死んでたまるか!」
いてもたってもいられず、屋根裏を降りる。凍りついていた勇気は屋根裏の蒸し暑さが溶かした。埃っぽい空気が肺にまとわりつく中、急いで父さんの部屋へ。
父さんの部屋から自室までは、家のすべての部屋の前を通る。さっき通った時、誰かいたら何かしら物音がしたはずだ。静寂しかないってことは、今、この家は無人のはず。……そう信じたい。
ビクビクしながら、各部屋を覗く。もし見つかったら、完全に不審者だ。誰もいないことを確認し、ようやく息をつく。リビングの冷蔵庫を開け、麦茶の入ったガラス瓶を手に取る。ゴクゴクと飲み干すと、喉の渇きが少しだけ和らいだ。
「……ごちそうさま」
ふと時計に目をやる。午前9時過ぎ。2時間ほど時間を潰せば、タイムマシンのエネルギー充電が少し進む。10時間先に飛べれば、この蒸し暑さも凌げるかもしれない。何より、あの箱の仕組みをもう少し理解したい。
「お借りします」
玄関にあったペンと紙を手に取り、ついでにまだ新しそうなサンダルを拝借。ドアを開けると、どんよりとした曇り空が広がっていた。見慣れたはずの街並みが、どこかよそよそしい。太陽すら隠すこの空が、50年前の異質さを際立たせる。
「コンビニの場所が……喫茶店?」
見慣れたはずの通りが、まるで別世界だ。古びた看板、色褪せた建物。記憶の中の街とはまるで違う。足を進め、近所の公園へ向かう。
「こんな綺麗だったんだ……」
今じゃ廃れた公園も、50年前は憩いの広場そのもの。子供を連れた母親たちが、ベンチで談笑している。彼女たちのレトロなワンピースや髪型は、まるで時代劇のワンシーンだ。昭和の空気が、肌にまとわりつく。
「この頃は、こんなに人がいたんだな」
ベンチに腰を下ろし、公園の喧騒を眺める。ざわめきの中で、俺だけが浮いている気がした。さて、どうする? さっきは50年後の2025年に戻る計算をしたけど、よく考えたら、それじゃ意味がない。父さんを救うには、45年後の2020年、事故の直前に戻らなきゃ。計算は慣れたものだ。すぐに答えが出る。
「7年と6ヶ月……か」
その間、どうやって生きる? 財布は空っぽ。頼れる人もいない。父方の祖父母には会ったことがない。父さんが物心つく前に祖母が、高校生の時に祖父が亡くなったと聞いた。そもそも、この家が父さんの生まれた家かどうかも分からない。仮に祖父母や赤ん坊の父さんがここにいたとしても、「50年後の孫だ」なんて言っても信じてもらえるはずがない。
生きるには金が必要だ。この時代の父さんに会っても、赤ん坊じゃ話にならない。仕事を探すべきか? でも、戸籍のない俺を雇ってくれる場所なんて、1975年に存在するのか?
ふと、足元に落ちていた新聞に目が留まる。拾い上げると、くすんだ紙面に「1975年8月23日」の文字。2020年が、途方もなく遠く感じる。
知らない事件、知らない名前。まるで異世界の新聞だ。読み込むうちに、ポツポツと雨粒が紙面を滲ませ始めた。
「マジか……雨!? コンビニもない時代に、雨宿りできる場所なんて……」
雨脚が強まる。周りの人々も、慌てて公園を後にしていく。新聞を頭に被って走るも、濡れた紙は重くなるばかり。気づけば、さっきの喫茶店の軒下にたどり着いていた。
「いつになったら、ここはコンビニになるんだ……」
文句を呟きながら、軒下で雨を凌ぐ。雨は一向に弱まる気配がない。すると、喫茶店のガラスドアが軋み、若い女性が出てきた。俺と同い年くらい。清楚なエプロン姿が、この時代の空気に溶け込んでいる。
「あの……すみません」
「すみませんでした! 店の前でウロウロして、迷惑ですよね! すぐどきます!」
慌てて頭を下げる俺を、彼女は柔らかい笑顔で制した。
「いえ、違いますよ。よかったら、コーヒーでもどうぞ」
「……すみません、今、持ち合わせがなくて」
言葉を濁すと、彼女はまるで全てを見透かしたような目で微笑んだ。
「分かってます。お金あったら、店の中に入ってますよね。これは私のサービス。中で雨宿りしてください」
その優しさが、胸に突き刺さる。この時代特有の温かさなのか、それとも店内に漂うタバコの煙が目にしみたのか。頬を熱いものが伝う。
「……ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
カウンター席に案内され、腰を下ろす。コーヒーの香りが、ほのかに心を落ち着かせる。彼女がふと振り返り、軽い口調で言った。
「ねえ、お兄さん。ひとつ聞いてもいい?」
返事を待たず、彼女は続けた。 その瞳が、一瞬、鋭く光った気がした。
「お兄さん……未来から来た人、ですよね?」




