I love youはまだ言えない
階段の途中に、一通の手紙が落ちていた。可愛らしい便箋に宛名だけが書かれたものだ。住所も切手もない。それは、封を開けられてもいないラブレターだった。
「カティ、大事なものが落ちてるぞ」
二階のアトリエに向かって落とし主に声をかけるも、返事はない。やれやれと身振りをひとつ。裏面に書かれた差出人の名前を確かめ扉に手をかけた。
――カティアス。
改めて呼ぼうとした名は舌に乗る前に飲み込まれた。一心不乱に目の前のカンバスへと向き合うその姿に、集中力を切らしてはいけないと思ったのだ。
元は自分専用のアトリエだったこの部屋に、彼がやって来るようになったのは十数年前。隣に住む十才離れた幼い男の子の、可愛らしいおねだりを承諾したのが始まりだ。彼だって初めは好奇心だけでねだったのだろう。その目が、たくさんの画材に輝き、才能を開花させるまでにはそう時間はかからなかった。
学校でも表彰されたことがあるという。加えてこの顔だ。女生徒が放っておかないだろう。
その秀眉が悩ましげにしかめられ、絵筆は止まった。
「カティ、落とし物だ」
ようやくと呼んだ名前には肩を跳ねさせ振り返る。明るいブラウンの瞳が喜びに輝いた。
「ジェイド、ちょうど良かった。これ、ここなんだけどさ」
だが求められたものに応えるだけの力量が、こちらにはもうない。
「聞かれたって、お前にアドバイスはもう出来ないって言ってるだろ。それよりも、封くらい開けてやれ」
「どうせ断るんだ。いいだろ」
その答えが気に食わなかったのか。はたまたラブレターの存在が面倒なのか。唇を尖らせそっぽを向いた旋毛をかき混ぜた。
「何事にも誠実さを持て。線が歪むぞ」
「そういうなら、そっちだって誠実さを持って答えろよ」
じろりと睨み付ける緑色には、内心を探らせないようおどけてみせる。
「だからこそ、アドバイスはないって言ってるんだろ」
「違う。僕はあんたが好きなんだって、何度も言ってるだろ」
「お子さまと恋愛なんか出来るかよ」
その態度がますます気に食わないのだろうが、嫌われるくらいがちょうどいいとさえ思っていた。大人の逃げ道に、若者は食ってかかってきた。
「もう十七だ!」
だからと言って譲歩できるものでもない。それこそ真摯な態度で断りを入れていた。その最中のことだった。
「まだ、十七だよ。カティアス。何度言われたって答えはノーだ。こんなおっさんじゃなくて、同い年のかわいい子を――」
突然胸ぐらを掴まれ、重ねられた唇に目を見開いた。それ以上進まなかったのはやはり経験の差か。
「なめんなよ。ぜってぇ落としてやるからな」
「カティ!」
突き飛ばされるように解放され、走り去る後ろ姿へ声をかけるもやはり返事はない。残ったのは逸る心臓と、膨大な愛しさだ。
大きくため息を吐いてしゃがみこむ。脳裏に焼き付いたエメラルドは、頭を掻きむしって剥がそうと試みた。そこに宿った熱が、奥底へと隠した想いに火を付けてしまいそうなのだと。
両手で顔を覆う。その耳に、どこかからカウントダウンの音が聞こえ始めた気がした。