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私の幸福  作者: 本田ゆき
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幸せだった時

 私が幸せを感じた時は、兄たちと遊んでいる時だった。


 幸せという言葉もろくに知らなかったけど、幸せだったと心から感じていたと思う。


 3人の兄はいつだって優しくて、私の味方だった。


 親が離婚して、兄3人が父親に連れて行かれるまでは……。




 私が2歳だったか3歳だったか。正直自分の年齢は曖昧だったが、兄たちと別れた事は今でも鮮明に覚えている。

 私は泣きながら母に「お兄ちゃんたちいつ帰ってくるの?」と聞いたら、母からは「もう帰って来ないんだよ」と言われた。


 嘘だと思った。


 だって、これまで私の願いは兄たちが叶えてくれた。嫌な事など起こらなかった。


 私は絶対に兄たちは帰ってくると信じた。

 毎日夜、星空にお願いした。


 たくさん、たくさん、たくさんお願いした。


 そして分かった。


 どんなに願っても、この世の中は思い通りにならないという事を。


 私は初めて「諦め」を知った。



 それから時は流れ、母と2人暮らしに慣れてきて兄の記憶が薄れてきた頃。


 私が小学生にあがるタイミングで、私は母に連れられてとある建物に入った。


 大人になって理解したが、私がこの時入った建物はいわゆるラブホテルだった。


 私は母に「大きなお風呂があるから入って来たら?」と勧められ、お家よりも大きいお風呂場に興奮して浴槽でバシャバシャと遊んでいた。


 すると、お風呂のドアが開き、知らない男の人が裸で入って来た。


 その男は母の付き合ってる男で、後の私の養父になる人だった。


 初対面がまさかのラブホテルでお互い裸である。


 その時私は5歳で、確かにちんちくりんな体型だが、それでも羞恥心というものはあった。


 その上私の父は仕事が忙しく家にほとんど帰って来なかった為、大人の男の人と接触がほとんどなく免疫もなかった。


 私はすぐさまお風呂場から逃げ出すと、母はベッドの上に座りながら「もう出て来たの? ゆっくり入れば良いのに」と言われ、母すらこの状況を良しとしている事に違和感を拭いきれなかった。


 後々判明した事は、なぜ養父が初対面でお風呂場に入って来たのかと言うと、裸の付き合いでお互い仲良くなろうとしての事だったらしい。


 ……今の時代なら事案問題だろう。いや、あの頃でも事案だったかもしれない。


 こうして養父と最悪の初対面を済ませ、母は私に特に何も言わずに再婚した。


 これに関しては私も特に何も思わなかった。


 子供の私が、母親の再婚に口出しする事なんて出来ないと分かっていたからだ。


 ただ、養父の事は父と呼びたくなかった。養父も気を遣ったのか、私に「呼び捨てで呼んでくれて構わない」と言われたので呼び捨てで呼んでいた。


 私は養父を「母が好きで再婚した相手」としてしか見なかった。


 なので最初の頃は養父の言う事もろくに聞かなかった。


 しかし、私のわがままは平手打ちで一瞬で黙らされた。


 逆らえば殴られる。

 痛いのは嫌なので、表面上は言う事を聞く事にした。


 私は子供の頃から好き嫌いが多く、かなりの偏食家だった。


 そして食べるのが凄く遅かった。


 私の食べるスピードが遅いと、養父に「灸を添えてやるぞ」とライターの火を近づけられた。


 私は怖さで食欲の無い中、無理やりご飯を何とか食べた。


 小学2年生の頃、男子に告白をされた。

 私は「嘘だ~」と言ってその男子の告白を受け入れなかった。今思うとせめて付き合わないにしてもきちんと「ごめん」と言うべきだったかもしれない。


 でも私には、恋愛の先に結婚があり、母と養父を見てると結婚に夢が持てなかった。だから恋愛も怖かった。


 その後小学生の頃の私はNOを言う事が出来ずクラスの女子の良いなりになったり、陰で悪口を言われる様になった。


 大きなイジメにはならなかったが、段々と人と群れる事に嫌気を刺して孤立する様になった。


 するとそれを見かねた担任の先生が私以外の生徒を集めて何かを話したらしい。

 どんな内容かは知らない。誰も教えてくれなかったし、興味も無かった。

 ただ、何人かの女子から「あんたが1人でいるせいでこっちがとやかく言われる」と苦情を告げられたので、きっとそういう事なのだろう。


 それから中学に上がるタイミングで私は転校した。

 

 別に学校が辛くて転校したいと私が申し出た訳ではない。


 簡単な話、母がマイホームのローンを支払いきれなくなったので、家を売って引っ越したのだ。


 母は子供の私から言わせてもらうと申し訳ないがとても馬鹿だったと思う。


 父から慰謝料を貰えなかった代わりに父の口座からお金をこっそり母は自分の口座に移し替えてから離婚したそうだ。


 これに関しては後に父から聞いた話ではあるが、父はお金を返せと言うのもトラブルにこれ以上なりたくなくてやめたとの事だ。


 こうして母は大金を手に入れて、それを家の土地代だけでほぼ使い切り、そこにローンを組んで家を建てた。


 しかし母はお金のやりくりなど計画的に出来ない人だった。


 基本お金はある時にパーっと使い、給料日前はもやしでしのぐという生活がデフォだった。


 なのでローンが払えなくなって売る事になったのは当然と言えば当然の話だった。


 しかし、他にも問題があった。


 母は、闇金からお金を借りていたのだ。


 築40年の古い一軒家に家族で引っ越した後、我が家に借金取りがやって来た。


 驚いた。借金取りはドラマと同じ様に、扉を殴る蹴るなどしながら「奥さーん、居るのは分かってますよー!」「払うもん払ってもらわないとこっちも困るんですよー」と近所の人にも聞こえる様に大きな声で扉越しに話してきたのだ。


 まるで現実味が湧かなかった。母は、私に抱きついて無言で泣いていた。抱きしめて私を守ろうという気があったのかもしれないが、私からして見たら泣きたいのはこちらの気分だった。


 それから借金取りが帰った後、私はもしまた借金取りが来たら自分が売られるのでは? と考えた。

 今思うとドラマの見過ぎかもしれないが、女子中学生というだけで顔はともかく金になるだろうと分かっていたからだ。


 なのでもし売られそうになったら、とにかく走って逃げて、1週間くらいなら学校に泊まれるんじゃないかとか本気で考えていた。


 結局、闇金からお金を借りてた事はすぐに養父の耳に入り、養父が自己破産して借金を全て返し終えたおかげであの借金取りは2度と来なくなった。


 ただ、養父は母を怒鳴りつける日々が数日続いた。


 母も私も、誰も養父に逆らえなかった。


 突然だが、私は昔から朝が弱い。


 なので、アラームが鳴っても中々起きれないという事が多かった。


 すると、ある日痺れを切らした父はアラームの鳴った時計を寝ている私に投げつけてきた。


「いつまで寝てんだ! うるさいだろ!」


 早朝からびっくりするほどの声で怒鳴られた。


 それから我が家には、この当時珍しくパソコンがあった。まだ普及して間もないが、私は暇な時はこれでネットサーフィンやYouTube、ニコニコ動画等を楽しんでいた。


 にちゃんねるのおかげでいらない知識が増えていったのはまた別の話。


 だがある日パソコンが不調になった。


 すると、養父が「お前の使いすぎのせいでパソコンが壊れた! 仕事が出来なくなる!」


 と私は正座で怒られた。そして私は自分で自分の顔を叩き続けた。


 小学生の頃、養父が機嫌を悪くして怒ってきた時、「どうやって責任とるんだ!?」と言われ自分の顔を何回も叩く事で許しを乞う様になってからは、怒られる時はこうする様になった。


 こうした方が、自分で顔を叩く痛さを調節出来るので、養父が「もういい」と言うまで続けた。


 それから養父は、「女なら料理くらい自分でしろ」と、中学の時から私の食事は出て来なくなった。


 とは言え、小学生の頃も母親の手料理などほとんど食べた事がなかった。いつも冷凍食品かインスタントだった。「あんたは好き嫌い多いから」という理由らしいが、今思うと母が料理をしなかったせいで偏食家になった気がしないでもない。


 しかし、母は養父には料理を作るのだ。理由は「あの人は健康志向だから手料理作らないと食べない」と養父のいないところで愚痴の様に言っていた。


 何はともあれ、中学から私は料理を少しずつする様になっていった。

 母に料理を教えてと聞くと「電子レンジさえ使えれば今の世の中何でも食べれる」という全く身にならない事を教えてくれたので、手探りで料理をしていた。

 昔養父にライターで脅されて以来火は怖かったが、克服しないといけないと頑張って卵焼きや目玉焼きなど作れる様になっていった。


 中学は運動部に入っていたが、休日の部活や大会などの日は各自弁当だった為、私は冷凍食品も交えた弁当を自分で作って持って行っていた。


 母は私が朝早く起きて弁当を作って持って行ってる事をバイト先の人に自慢していたらしいが、正直そんな自慢するくらいなら弁当作って欲しかった。中学で自分で弁当作ってた人は少なくとも周りには1人も居なかった。


 話は少し小学生の頃に遡る。

 思い出しながら書いているので時系列がぐちゃぐちゃになってしまい申し訳ない。


 だが、こんな駄文をしっかり読んでくれる人など少数だと思うので大目に見て欲しい。


 小学生の頃の私は割と成績優秀な優等生だった。


 先生との二者面談の様なものがあった時、学校で困った事がないかと聞かれ、親の事を軽く話した。


 どう話したかは覚えていないが、小学生の話術など限界がある。


 そして小学校の先生は面倒そうに、「私が悪い事をしたから叱ってくれてる良い親。今は分からなくてもいつか分かる」みたいな話をされた気がする。

 先生、大人になった今でも、正直あんまり親のありがたみが分からないです。


 またテストで良い点を取った時、先生から「これだけ良い点が取れたのは親のおかげでもある」と言われ、私は笑顔で「はい。親に感謝します」と伝えた。


 内心では親から勉強なんて何一つ習ってないのに何でテストの点数が親のおかげなんだよと舌打ちしていた。


 自分の親がおかしいと気付いてきたのは小学生3年生頃。みんなと家での事を話していると「ゆきちゃんの家なんか変だね」と言われたのがきっかけである。


 私は家で家族揃ってご飯を食べた事がない。

 家族でご飯を食べるのはドラマだけの世界だと思っていたら、どうやらみんな家族一緒にご飯を食べるのだそうだ。


 その辺りから他の人の家の事を聞いていくと、どうやら私の親がおかしいという事が分かってきた。


 それから私は、「変な家の子」と浮かない様、自分の親の変なところは極力隠す様にした。


 後は親がおかしいと気付ければ、私はこういう風にはならないぞと心に誓った。


 とは言え家での私の順位は1番下だ。

 家の中で何か起きた時は、例え私が悪くなくても悪いという事にされるので、とりあえず養父の気が済むまで謝る。


 家では養父の顔色を伺い望む様な言動を心がけた。


 正直家で心が休まる事など無かった。


 中学から古い家に越した時今まで別れていた寝室もみんな一緒になってしまった。


 私はシングルベッド、母と養父はダブルベッドという形で寝ていた。


 ある夜、トイレがしたくなり目が覚めると、私のすぐ横から母と養父の情事の声が聞こえてきた。


 気分は最悪である。


 ただトイレに行きたいだけなのに布団から出る事も出来ず、私は2人の行為が終わるまで耳を塞ぎ凌いでいた。


 ある日は私が学校から帰ってくると寝室に前に「開けないでね♡」という紙が貼られており、中から喘ぎ声が聞こえる事もあった。なぜ娘が帰ってくる時間を知っていながら盛っているのか理解が出来なかった。


 またある日、夏の暑い日私が家に帰ってクーラーを付けると、養父に烈火の如く怒られた。


「お前が電気代を払っている訳じゃないのに何故クーラーを付けるんだ!」との事。


 なので私が先に帰ってきた日は、私は扇風機だけで暑さを凌いだ。

 動くと余計暑くなるので、氷をかじりながらただ部屋のベッドに転がりじっとしていた。


 因みにこの扇風機には部屋の温度が分かる様になっており、「40度」になっている時もあった。

 それでも私はクーラーを付ける事が出来なかった。


 家計が厳しくなると、いよいよお湯でお風呂に入る事も許されなくなった。


 私は沖縄出身とはいえ、沖縄の冬でも水風呂は正直厳しい。


 しかし、お湯を付けるなと言われたので、水風呂を余儀なくされた。


 お風呂で汚れた自分の体操着を洗いながらさっさと水風呂を上がる。


 案の定、私は風邪を引きやすくなった。


 そんな事が1年ほど続いたが、養父が体調を崩して病院へ行くと、「水風呂が原因。危ないので今すぐやめなさい」と医師に言われてからはやっとお湯で入る事を許される様になった。


 それから高校生になり、学校生活は楽しかったが家は相変わらず地獄だったので部活に勤しんだり、勉強の為図書室に入り浸るなどしてなるべく放課後ギリギリまで学校に残りゆっくり歩いて帰るという日々が続いた。


 将来の夢は獣医になりたかった。


 まだ母親が再婚する前、白くて青い目をした子猫を拾ったが母から家に入れては駄目と言われ、仕方なく外の玄関先の段ボールにタオルを敷いてエサと水を置いて子猫を入れた。


 翌朝、子猫は段ボールから逃げ出して車に轢かれて亡くなっていた。


 母が養父と再婚した後、養父も猫が好きだった為猫を飼う事になった。


 が、私の予想に反して3匹、4匹と猫が増えていった。


 家を売って引っ越す際、猫は3匹までと言われた。

 なので残りの1匹は、私が学校に行っている間に捨てられた。


 ……恐らく年齢的にももう生きてはいないだろう。


 償いをしたかった。それで獣医になって猫達を救いたかった。


 しかし、沖縄に獣医の大学はない。

 それどころか、獣医の大学は医師の為6年通う必要がある。


 うちに、そんなお金がない事は分かっていた。


 私は夢を諦めた。諦める事にはなれているから。

 

 たまたま高校の説明会に来ていたとある専門学校に興味を示し、私は2つ返事でそちらを目指した。


 学校からの推薦で面接のみの試験で、高校3年生の夏になる前に私の入学は決まった。


 これが、間違った選択だったと知るはずもなかった。

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― 新着の感想 ―
ドラマだけの世界と思っていた事が、現実として描かれていたならば、辛すぎます。 過去のこと、と言えど、感情移入し、その場に私自身がいたら、と考えさせられます。 変な文章でごめんない。がんばって下さい。
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