テレビメディアが人目を集めなくなっていく日々での一時事
近年テレビによく出る吉本芸人が、攻撃的な大衆をテーマにした漫才を披露していた。そこには件の松本人志の騒動による動揺も色濃く透ける。恐慌に駆られた心が発するものだと思うからか、いつもに増して笑えない。彼ら(ニューヨークという二人組だ。以前から露出の多さの割にはもう一つという印象が、先入観としては働いてしまっている)は「炎上」という定着しつつあるが意味の浮動は続いている流行語を使って話す。それは現象でありながら、或る一部の放火者の意識的操作に因って齎されている事件、という彼らの考えが透ける。この放火者の性格というものを話す内容の漫才だった。まるで決まった種類の人間だけがその「炎上」という現象の主導者であるという話で、確かにそういう趣向が強い人間の存在は認める事は出来る者の、その少数者の管理下にあって運ばれるのだ、という怯えに近い感情、これは少し現実的じゃない。彼らはテレビで顔を晒す著名人であり、個人的な攻撃に晒される機会も多いだろうから、その怯えが一般大衆よりも強いだろう事は同情的に察する事も出来る。が、「炎上を好む比較的少数の特定者には決まった性格が存在する」という意見、これは偏見に近い。自覚はあったのだろう、「批判される事も覚悟」というしつこい位の前振りが納得され、しかしその納得は笑いというよりシラケに繋がる。そこには無意識な願望が投影される。
「何にでも不条理な言い掛かりを付ける彼らは、しかし柄の悪い格闘家の界隈には文句をつけない」という部分は特に気になった。これはつまり「意気地なし」「男らしくない」といった類の挑発をあからさまに込めたものであるのだが、これがどうも「古い意味でのオタク的男性」を対象としている様に感じられ、どうも病的な、幻覚症状めいたものを見る。彼らがそれを敵視し、異分子だと怯える時代はとっくの昔に終わっているのかと思っていたし、何よりここでは女性が放火者の謗りの対象から外している。これは彼らがスタイリッシュな外見の二人組として女性人気を
2022年のMー1優勝者「ウエストランド」の笑いの焼き直しも意識にあったのかもしれない。あの時にはウエストランドの放言的な漫才が不況を買ったのみならず、そこに殆ど満場一致で優勝の権威を与えた松本人志ら審査員も多少の不況は買っていた筈だ。そこに、オタク的なものへの恐怖と、松本人志の判断力への擁護的なものは見え隠れする。
…いや、自分の論じている話も少しおかしい。彼らニューヨークが『決まった種類の人間だけがその「炎上」という現象の主導者である』様に考えている、と言ったのは、少し事実と違っている。少なくとも単一の性質を言ったのではない事は、明示しておかねばならない。「炎上の主導者ってやつはこんな奴らだ」という事を言っているのはそうだが、「オタクだけ」「男だけ」「占い好きの女だけ」という単一の当て擦りではない。羅列だ。彼らはその後にこんな揶揄も言っていた筈だ。「占い師や占い好きはホンモノ(の炎上愛好者、及び陰謀論者という当て擦りもその文脈からは透ける)」という揶揄。これは明らかに女性を多く対象とした範囲を当て擦る揶揄だ。勿論自分のこの感覚も一偏見者から見たものであるから、批判されるまでそれが間違っているとは認識出来ないだけなのかも知れない。このかも知れないは、度々忘れるので、ややこしくなったとしても都度置いておく必要がある事に思う。
「ポジショントークである」という点は、ニューヨークのその漫才について初めに思い浮かんだ批判点だ。それは変わらない。
しかし一方、著名人であるから、見えない群衆の脅威にいつも晒されている。しかも人気商売である以上脅威の根城に利益の源泉もある、という本質的にアンビバレンスな状態に置かれている。だから気を強く持とうとして、粗暴な放言の側に流されていく人も多いのだろう。その経緯が生命線である人気までをさえ遠ざけてしまうとしたら、実に悲劇的だ。
だが、流行に左右される人気商売は大部分で競争だと言えるから、競合する他者より多く人気を独占し、人前に出続けられる事を望む。それでいて、「人前に名乗り出ない者を憎む」というのは、なんと不安定な状態なのだろう。矛盾を孕む。彼らは人前に出れたのは、彼らの努力の為だ、と彼ら自身が誇りに思っている事は想像に難くない。しかし彼らが敗者の妬みだと思い過ぎるのは、この競争の苛烈さが齎した、実像の必ずしも伴わない悪夢だとも言える。
炎上を好む大衆は、実は妬みを動機としてさえいないのかも知れない。そうすると、「底意地の悪い奴らが、俺達能力の有る者を攻撃しているんだ」というささやかで単純な構図さえ瓦解させてしまう。でも全てが妬みだったとしても、妬む動機は自分の努力の影である。どうあっても、競争を勝ち抜いてその場を勝ち取った著名人が槍玉に上げられる時は孤独だ。「それは批判ではなく中傷だ」と看破出来る時にだけ、大衆に隠れる悪意を対峙できる。味方も付くかもしれない。しかし、孤独の根はもっと深い。訴訟は個人として立つ誰をも傷付け、摩耗させていく…。
結局の所は、次の一般論が言いたいが為に続けてきただけだ。人は競争に勤しみ、何かの立場を勝ち取るが、それを他者から奪い取ったとは考えず、恨みや妬みを忌まわしい外部から来訪した異物だと考える。「ホンモノ」のデジタル拝火教の人間を庇っても仕方がない事なのかも知れないが、しかし我々は狂人に見える者とも実は暗に関係し合って社会を構成している、という自覚は持っていたいものだ、と。
実名のコンビをあげつらっている割には文芸的な統制に著しく欠ける。まあ己も批判されるが良かろう、それが健全な社会というものだろう、という考え方から投稿。しかし、自分自身の論に不備がある、と途中で気付くという過程は、今後掘り下げる余地のある表現ではないかとも思う。