98. 教官の矜持
「セシル。この方はもしや……」
「あなたは西の賢者殿。そうですね?」
トリスタン元首がすぐにその場に跪き、お姉様がその横でそれに倣う。おばば様は西の賢者。世間一般では偉人といわれている。すっかり慣れて、そんなことは忘れてしまっていたけれど。
「あー、堅苦しい挨拶はやめとくれ。シャザードがすまんかったの。あれの不手際は、この師匠の責じゃ。わしが幕引きをせにゃな」
「いいえ。すべての責任は、元首である私が……」
「顔をあげんさい。元はといえば、あやつがお前さんの国にちょっかいを出したのが始まりじゃろ。まったく、好きな女のためには見境もなくなるて。あの男は破門じゃな」
「申し訳ありません。シャザード様は私のせいで……」
「あー、よいよい。あやつはもう十分やった。そろそろ解放してやらんとな。それには、王女さんの力が必要なんじゃよ」
おばば様にそう言われて、お姉様は納得したようだった。魔術師の縛りを解かれて、教官は自由になる。無事に戻って来れたなら。
「ですが、私は人質です。ここを離れて行方が知れなくなれば、元首様にお咎めが……」
「なあに、心配せんでいい。ほらよっ」
おばば様は一瞬にして、お姉様の姿に変化した。すごい。見た目だけじゃなくて、魔力も何もかもお姉様と寸分違わない。
この変身なら、将軍に会ったとしても見破られたりしない。お姉様が逃げたなんて、誰も気が付かない。
「おばば様!すごいわ!」
「ほっほ。若い男とらぶらぶするのに、あの成りではの!絵にならんじゃろが」
「は?何言ってるんです?」
「七度目の春じゃよ。まだまだ、若い者には負けはせん」
おばば様は、高らかに笑う。そして、元首を立たせて、その腕にすがりついた。まさか、本気でやってるの?元首はとても困った顔をしている。なんて気の毒な……。
でも、おばば様が付いていてくれるなら、元首に危険が及ぶことはない。きっとうまく事を運んでくれる!
「おばば様、ヘカティアをお願いできますか。一緒に飛ぶのは……」
「そうじゃな。ほとぼりがさめた頃に、合流するとしよう。大丈夫じゃ、かならず守る」
ヘカティアは、天幕の奥にあるベッドですやすやと眠っていた。彼女だけが忽然と消えれば、お父様が不審に思うかもしれない。お姉様とヘカティアは、正当な手順を踏んで自由にならなくてはいけない。
「お願いいたします。乳母がおりますので、すべては彼女に。元首様のお身内なんです。どうか彼女のことも……」
「承知した。もう行きんさい。シャザードを頼むぞえ」
「はい」
お姉様は両手で、元首の手を握った。右腕におばば様のお姉様をぶらさげて、左手を本物のお姉様に取られている。元首のその姿は、絵としてはちょっと滑稽だ。
「元首様。ご恩は一生忘れません。どうかご無事で」
「あなたも。短い間でしたが、共に過ごした日々はよい思い出です」
元首もお姉様を……? だから、おばば様はお姉様の姿でベタベタと。でも、それって、失恋の傷に塩を塗る行為だと思う。おばば様って、かなりデリカシーない?
「さあ、お姉様、後はおばば様に任せて!」
眠っているヘカティアにお姉様がキスをした後、おばば様が私たちを西の孤島に飛ばした。ほんの一瞬で、私たちはおばば様の家のキッチンにいた。
二人を簡単にここまで飛ばせる。おばば様の能力は、やっぱり計り知れない。
「これが転移魔法……。ここはどこなの?シャザード様は?」
「おばば様の家よ。西の孤島。レイが教官を連れてくるはずなの」
そのとき、風もないのにキッチンの窓がガタガタと音を立てた。空間の歪み。不自然な気の流れ。これはきっと!
「シャザード様だわ」
お姉様が階段に向かって、駆け出した。この家に来たのは初めてのはずなのに、まるでそこに何があるのか知っているみたいに。
教官のことに関しては、お姉様は誰よりも勘が働く。それはきっと、愛ゆえに。魔力とは関係のない、誰でも持っている力。
お姉様は迷わず真っ直ぐに、私の使っていた部屋のドアを開ける。そして、予想通りにそこにはレイと教官が倒れていた。
「レイ!しっかりしてっ」
私が駆け寄ると、レイは頭をあげた。王宮で別れたときよりも、さらに傷ついてボロボロだ。でも、意識ははっきりしているようだった。
「大丈夫だ。すこし手間取った」
「邪魔が入ったの?黒魔術師が?」
「いや、違う。師匠が戻るのを拒んだ」
「どうしてそんな……」
「賢者殿にも、フローレス様にも合わせる顔がないと……」
「なによそれっ!バカみたい!」
レイにこんな怪我を負わせて!ここまでこんなにも苦労させて! 最後に、そんなくだらないプライドの塊みたいなことを!
教官は分かってない。おばば様もお姉様も、どれほど教官を心配して、その帰りを待っていたのかを。
死体のように床に寝転がって、ピクリとも動かない教官。その側に座って、真っ白な顔に泣きながら頬ずりをするお姉様。まさか、教官は逝ってしまったの?
「レイ、教官は……」
「魂をむりやり体に押し込んだ。それで異次元からは出られたが、後は本人次第だ。幽世に向かうか、この世に留まるか。それは強制できない」
「治癒魔法は?傷がふさがれば、死んだりしないんじゃ……」
「無理だ。この体はもう死んでいる。魂がこの体に戻って生きたいと願わなければ、どんな魔法も効かない」
声を殺して泣くお姉様と、床に座ったまま俯くレイ。冷たくなっていく教官。私はその場で、ただ呆然とその光景を見つめていた。




