87. カイルの溺愛
「本当に北方は、ローランドを人質にするつもりだったんですか?」
「筆頭公爵家宰相の息子。それ以外にはないでしょう。辺境での折衝を、有利に進めるためよ」
果樹園での事件は、宰相令息誘拐未遂事件として処理した。あのことを知っているものは皆、それを信じている。本当の狙いがクララだったとは、決して知られてはいけない。
「クララは魔力もないし、なよなよした雛菊みたいな子でしょ? カイルのような強い騎士に守られたほうが、安心して暮らせると思うのよ」
「え、でも、クララは格闘技……、いえ、あの、護身術を極めているので、か……弱いって程じゃないんですが」
まあ。鈍くさい子かと思ってたけど、クララは意外と運動神経いいのかしら。でも、貴族の娘の護身術なんてたかが知れている。シャザードに太刀打ちできるわけがない。
それなのに、ヘザーも頑固で諦めが悪い。ローランドへの献身は、ちょっと悲しくなるくらいだわ。
「私たちの婚約が知れる前に、クララの本心を確かめることはできないでしょうか」
「なら、ちょうどいいわ。私の名代でクララに会いに行ってちょうだい」
クララがローランドが好きだと言ったら、ヘザーは婚約を解消するつもりだ。でも、そうはならない。クララはヘザーの気持ちを知っているんだもの。
そうか、カイルがローランドを殴ったのは、おそらくヘザーとの婚約を知ったから。クララへの気持ちに目を背けて、ヘザーの気持ちを利用したと責めたんだろう。
クララもきっと、カイルから事情を聞いたはずだ。そんなクララにどう問い質したところで、ローランドが好き……だなんて、言うわけがない。実際、好きなわけでもないんだから。
「とにかく、様子を見てきて。カイルの屋敷にいるから」
「はい。クララの気持ちを、きちんと聞いてきますわ」
「ええ、お願いね。じゃあ、それが分かるまで、この式次第は差し止めておくわ」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
昼食が済むと、ヘザーは早速出かけて行った。婚約者の差し替えなんてことにはならない思う。
でも、これでヘザーが安心してローランドと一緒になれるなら、なんの問題もない。
一応、カイルにはヘザーの訪問を連絡しておいた。うまく話を合わせてくれるように。
午後は他の秘書たちと、打ち合わせをして過ごした。出かけていたヘザーは、夕食前には王宮へ戻って、クララのことを報告してくれた。
「クララは、カイルが好きだと言っていました。学園にいる頃から交流があったんですが、専属騎士になってから距離が縮まったそうです」
「それはよかったわ。専属騎士制度は、いいお見合いになったわね」
決まった相手のいない侍女には、専属騎士との婚約を打診した。元からそのつもりで選んだ、家柄も人柄も申し分ない者たち。どの家も二つ返事で承諾した。
「実は半信半疑だったんです。クララはあまり嘘がうまくないので」
「嘘をついているように見えたの?」
「どうでしょう。でも、カイルはクララにベタ惚れでしたわ」
何、その情報。もっと聞きたいんだけど。あのカイルが何ですって?
「どういうこと?何か聞いたの?」
「見たんです。カイルのあの溺愛ぶり。学園にいた頃からは、考えられない」
「まあ!溺愛?もうちょっと詳しく!」
「クララの頬にキスを」
は?そこは唇にするところでしょう!ほっぺにチューって、子供じゃないんだから!
なんだ、カイルはまだまだ、クララを口説ききれてないのね。でも、あのカイルにしては上出来なのかもしれない。ヘザーが騙されるくらいだから、普段とのギャップがいいように作用したのね。
「だから言ったでしょう。クララのことは心配ないわ。あなたは、ローランドのことだけ考えればいいの。彼を幸せにしてあげてちょうだい」
「はい、まあ、それなりに……」
ヘザーはまた、何かを考え込むように黙ってしまった。まだ、何か腑に落ちないのかもしれない。でも、ここはこのままで、もう押し切るしかない。この話は終わり!
最後の詰めは甘いけれど、カイルはなんとかクララとの婚約にこぎつけるつもりだ。クララのことは、彼に任せておけばいい。
さっそくアレクに報告しておこう。カイルならクララを守る者として適任だし、アレクも安心してくれるだろう。うまい具合にカイルは謹慎中。もう嫉妬で意地悪なんてできるチャンスはない。
「アレクにも話しておくわ。執務室に使いを出して、部屋に戻ってもらって」
「承知いたしました」
ヘザーはすっかり、第一秘書の役が板についている。他の侍女に、テキパキと指示を出す。私の不在中は、ヘザーはこの事務所から動けない。私の代わりを務める。それが彼女の仕事。
本当は自分が、執務室へのお使いに行きたいくせに。ローランドに会いたくて、そわそわしているのが丸バレ。本当に恋する乙女そのもの。これで恋心を隠せていると思うなんて、ヘザーにも弱点があるってことね。
「戻るまで、作業を続けておいて。よろしくね」
私はそう言い残して、秘書室を後にした。
すべては問題なく進んでいる。婚約式が終われば、同盟軍が北方に対峙する。戦わずに事態を解決する道が開けれるかもしれない。
そして、北方が崩壊すれば、きっと何もかもがうまくいく。お姉様を取り戻して、レイも死なずに済む。
もう少し。もう少しだけ待って。急ぐから。だから、どうか死なないで。私はそう祈り続けていた。




