76. 黒い軍服の男
その夜、アレクは初めて私の部屋を訪れた。後宮の風習的に言えば、これは「お渡り」なのかしら。今までは、私が通うばかりだったのに。
傍目には、アレクの寵愛が増した感じに見える。どういう風の吹き回しだろう。クララが休暇中だから?
違うわね。私が一人で寂しいと思ってのこと。アレクは意外と気が回る。誰にでも、それなりに優しい。博愛主義者。
今は別々の部屋。でも、どちらかが望めば、同じ部屋の同じベッドで眠ることになる。それが私たち王族の義務。
そんな状況だから、居心地が悪いのはアレクだって一緒だろう。私を抱いて眠るなんて、想像もできないはず。
それなのに、こうやって少しずつ譲歩してくれる。私も、アレクに歩み寄る努力が必要だ。
「アレクって、本当に真面目よね」
「セシルが型破りなんだろう」
「どういう意味よ」
「そのままの意味だ」
こんなやりとりが、いつかもっと親密になっていくんだろうか。そして、やがては睦言に?
私たちはいずれ、本当に普通の夫婦になる。もしそれが運命なら、受け入れるしかない。私はそれを全うする。
レイは命がけで戦っている。だから、私も命をかける。たとえ、その結果がレイとの永久の決別であっても。
婚約式の日取りが決まり、少しだけ気持ちに余裕ができた。よく眠ったせいかもしれないし、覚悟を決めたせいかもしれない。
会議はまだ続いていたけれど、適当な理由をつけて抜け出してきた。外に出たい気分だったから。
もう随分寒くなったけれど、天気は快晴。太陽の光は、鬱々とした気持ちを明るくしてくれる。
庭園には、迷路のような生け垣がある。これは典型的な目くらまし。このどこかに、きっと特別な庭園へと続く扉がある。秘密の花園。王族の私庭。
王太子妃となったら、その場所は私にも知らされる。アレクの子供たちを遊ばせるために? そんな日が来るとは、今は想像もできないけれど。
なんとなく生け垣にそって歩いていると、通路を急に風が吹き抜けた。レイの気配。まさか……。
『助けて!死んじゃう!殺される!』
ブラックベリーの茂みから飛び出してきたのは、レイではなくてクララだった。その姿は透けていて、私の体をすり抜けた。
その叫び声を聞いて、透明なレイが私をすり抜けて、反対方向に走りだす。
空間投影。レイの魔法だ!
剣を構えたローランドの横に、転がる北方の兵士。そして、その向こうに立っている黒い軍服の男。あれは。あの男は……。
軍服の男が前方に手を伸ばし、ローランドだけを攻撃対象とした魔力を放った。その発動とほぼ同時に、レイが反撃魔法を放つ。
『ここは任せて』
魔道士のフードを被ったまま、レイがそう言う。地面に転がる兵士たちを、軍服の男が魔力を使って消した。シャザードの得意技。
『こんなところに、高名な魔術師様がいるとは。どちらへ行かれるつもりか。よろしければ、私が代表の元へご案内しましょう』
軍服の男がそう言うと、レイは静かにこう答えた。
『私は旅の魔道士です。たまたまここを通りかかっただけ。こちらのご令嬢から助けを求められたので、加勢したまでのこと。それ以上の関わりはございません』
『クララ!』
ローランドは、クララに駆け寄って抱きしめる。茨で切ったのか、クララは体中が擦り傷だらけで、足からは血が出ていた。
倒れたクララを支えるローランドに、レイが魔伝でささやいた。
『王女の部屋に飛ばします』
軍服の男と向かい合ったまま、レイはローランドとクララを消した。
これはレイからのメッセージ。クララとローランドが、私の部屋に送られてくる!
自分の部屋に向かって、私は足を早めた。
どのくらいの時間差があるかは、分からない。未来のことなのか、過去なのか。賢者の術には、時間軸の揺らぎがある。
でも、レイは私に助けを求めて、連絡してきた。クララとローランドの救護を頼んできた。北方軍に襲撃されて、無傷である可能性のほうが低い。
部屋に戻ると、ローランドは血だらけで、傷だらけのクララを抱きかかえていた。
「ローランド!クララ!しっかりして!」
この部屋の結界を通り抜けて、人を二人も避難させてくる。これはやっぱりレイの魔法。
「レイから連絡があったわ。北方に襲われたって。怪我をしているの?すぐに医者を呼ぶから」
「王女!お待ちください!私は無傷です。クララは気を失っているだけ」
よかった。怪我をしていないなら、きっとすぐに目を覚ます。でも、レイは?レイは、あのまま……。
「レイは?レイはどうなったの?大丈夫なの」
「分かりません。北方の魔術師と対峙したまま、僕らをこちらに飛ばしました」
「北方の魔術師……」
あのまま戦ったの?捕まったの?まさか……。いいえ、悪い方に考えてはダメ。レイは生きている。きっと無事でいるはず。
「とにかくアレクを呼ぶわ。状況の報告を!クララは私のベッドに寝かせて!」
廊下に出たところで、カイルに会った。クララの専属の騎士。主のただならぬ気配を感じて、駆けつけたんだろう。
「レイから連絡がきたわ。クララを護衛して」
後宮側で……と、魔伝で付け加えた。このことは、秘密裏に処理しなくちゃいけない。クララのためにも、ローランドのためにも。そして、二人を命がけで助けた、レイのためにも。
そうして、私はアレクのいる執務室に向かって、駆け出したのだった。




