73. レイの決断
小さな中庭を囲む回廊に、礼拝堂の入り口はあった。暗い石造りの王宮で、吹き抜けとなっているそこだけは、自然光が差す。晩秋の風はもう冷たくて、冬の足音が聞こえるようだった。
魔法の発展に従って、神への信仰は薄れていった。礼拝堂には訪れる者もなく、いつもひっそりとしていた。
こんな静かな場所を選んで待っている。レイの意図に思い当たることがあるのに、私はその予感をわざと無視した。
礼拝堂のドアは重厚な一枚板に、精巧な木彫りがされていた。このドアの向こうにレイがいる。なのに、どうしても扉を開けることができない。
そんな私の気持ちを見透かしたのか、いつもは扉を開けてくれるアレクは、私が動くまで黙って待っていてくれた。
「レイ!どういうこと?どこへ行くつもりなの!」
薄暗い礼拝堂に、私の声がこだまする。
ステンドグラスの光に照らされて、レイは祭壇の前に跪いていた。フードに隠れて顔は見えない。でも、その格好を一目見ただけで、レイが何をしようとしているのか分かってしまった。
レイは綻びた魔道士のマントを羽織っている。バックパックと魔道士用の杖だけを持って。シャザードと出かけるときに、いつもしていた格好。
レイは行くことに決めたんだ。おそらく自らが標的となって、シャザードを誘い出す気で。
「北へ潜入します。うまく運べば、内側から揺さぶれる」
「死ぬ気なの?あなたの仕事は、私を守ることでしょう!それを放棄することは許しません!」
分かっている。レイを止めることはできない。今まで私に仕えてくれたことすら、本来なら奇跡みたいなもの。
それでもやっぱり嫌。頭では分かっていても、全身がそれを拒否する。心がついていかない。
「私の務めは、王女を守ること。ここでは、殿下が貴方を守ってくださいます。私は別のやり方で、王女を守りたいのです。私だけができる方法で」
「私がここにいるのは、お前を死なせないためよ!同盟で戦いを回避できれば、血を流さずに済む。なのに、私がここにいるから、安心して死地に赴けると言うの? あまりにもひどい仕打ちだわ!私は一体、何のために……」
違う。こんなことを言いたいんじゃない。そうじゃないの!涙があふれて、私は両手で顔を覆った。泣いちゃだめ。こんな泣き顔じゃ、レイが心配する!
ああ、そうだ。あれは教官の最後の言葉。レイに笑顔を見せてやれって。あれから、もう何年も経ったのに。私はあの頃のまま。いつまでも、わがままな子供。何の成長もしていない。
この国に来たのは、私の意思だった。レイに自由に生きてもらうための。そして、レイが選んだ生き方は、真正面からシャザードと対決すること。それがレイの望むこと。私が与えてあげたかったこと。
レイは立ち上がって、泣いている私の手を取った。そして、優しく笑ってからまた跪いた。
「王女の心は、存じています。だからこそ、行かせてください。貴方が私を守るように、私も貴方を守る。共に戦います。決して一人にはしない」
レイは己の選んだ道を進む。死への恐れなど、微塵も見せることなく、真っ直ぐに前を向いて。その瞳は、志を全うできる希望で輝いている。
そんな顔を見せられたら、もう無茶な命令なんてできない。私はレイの意志を尊重する。その決断を受け入れる。それがどんなに辛くても、そうするしかない。
わがままな主。意気地の無い恋人。レイが迷っていたのは、私のせいだった。私のために、長いこと思いとどまってくれていたんだ。
でも、それでは何もかもが、破滅に向かってしまう。暗黒の時代が訪れる。もしもシャザードが、この世界で神を凌駕する力を得てしまったら。
だから、こうするしかない。レイを行かせるしかないんだ。
ひとしきり泣いた後で、私は覚悟を決めた。
「ひどい人」
その言葉に、私の承認を見てとったのか。レイが優しく微笑んだ。
お姉様の言っていたこと。人を愛するということ。私欲で振り回すのではなく、その人の生き方を認めること。その心の強さが愛の深さ。
「王女、私を騎士に任命してください。まだ、正式な誓いは立てていない。出立の餞に、儀式を賜りたく」
騎士の儀式は生涯の縛り。自由になった後も、レイは私に仕えてくれた。そのレイが、永遠の忠誠の絆を結びたいと言うのを、どうして私が止められるだろう。
騎士として、主君である私にその誠を示しなさい。主を置いて戦いに行くのだから、死んだら絶対に許さない。私のためを思うなら、生きて帰ってきて。主の要求に応えるのが、騎士の義務なのだから。
私たちの様子を見ていたアレクが、その場をそっと立ち去ろうとした。それをレイが止める。
「殿下に、証人として立ち会っていただきたいのです。どうか。私の最後の願いです」
それは違う。これはレイの最初の願い。私たちは死ぬために戦うんじゃない。生きるために手を携えて、共に同じ道を歩いていく。
アレクは出口近くに移動して、私たちの儀式を見守ってくれる。
「騎士は主に、永久の忠誠を誓う。これは生涯、破ることのできない縛りです」
「心得ています」
「お前の主は私だけ。その一生を賭けて、私を守りなさい。先に逝くようなことは、決して許しません」
レイ、約束よ。シャザードとの戦いから生きて戻って来られたら、二人で一緒にここを出ましょう。そして、あの村で子供たちと、羊と麦を育てて暮らすのよ。
私が生まれて初めて見た、幸せな未来への夢。騎士は主の望みを叶える義務がある。
「我が主のお心のままに」
この気持ちを言葉では残さない。だけど、レイはきっと分かってくれた。必ず生きるために戦ってくれる。
私は、魔法で短剣を出現させた。王家の紋章の入ったそれは、王女としてのお父様から賜った唯一の品だった。




