54. 分魂術
あのとき、光に包まれたレイは、教官と戦わなかった。言葉を交わすことすら、避けていた。
「レイ、お姉様が!」
「今は無理だ」
私とアレクだけを連れて、レイは国境の砦まで飛んだ。
「お姉様とへカティアが……」
「大丈夫だ。シャザードはあの二人を殺したりはしない」
アレクの鎖を解除しながら、レイはそう言った。
「あれは本当にシャザードなのか? 邪悪な黒魔術の匂いがした……」
レイの手を取って立ち上がりながら、アレクがそう尋ねた。お姉様も、あれは教官じゃないと言った。
「シャザードの一部だ。凝り固まった私欲と執着が、闇の黒魔術に堕ちた」
「体を乗っ取られたのか?」
「いや、自ら望んで邪悪な魔力を受け入れた」
「あの教官が?」
「あれは師匠じゃない。師匠の魂は器を奪われたまま、行き場を失っている」
アレクは黙り込んだ。私だって信じられない。魂から欲が分裂したなんて。
「賢者の秘事か。内なる敵と戦うための分魂術」
「よくご存知ですね。それに、師匠は失敗した。悪しき部分に、弾き出された」
そんなことがあるなんて。己の中の悪。それを分けて、滅ぼすために戦う術。それが、おばば様の言う賢者の精神修行。
教官のことは、改めて話すことにし、私たちはすぐにそれぞれの国に戻った。
とにかく、急いで安全な場所に逃げるべきだった。
巻き込んでしまったせめてものお詫びにと、私の分の魔石もアレクに持って帰ってもらった。
隣国の言う情報とは、きっとこのことだ。お父様には口が裂けても言えない。
お父様への報告を、宰相様は黙って聞いていた。
軍部クーデターとは言っても、まだその情報は外には聞こえていない。駐在大使である伯爵からも、そういった報告はない。
今はまだ、我が国が何か動けるような状況ではない。動けないのだ。
シャザードがいるかぎり、お姉様は殺されることはない。今のシャザードを動かしているのは、お姉様を手に入れるという執着だけ。
そして、国際社会の誹りを受けないためには、元首の命も簡単には奪えない。彼のカリスマ性なくして、国民を束ねることは不可能に近い。
搾取できる国民がいなくなれば、軍部はただ他国から略奪するだけの賊に成り下がる。
あの将軍の思惑は、たぶんそこにはない。
「今は、静観するしかありませんな。大使からの報告を待ちましょう。とにかく、セシル様が無事戻ったのは幸いでした」
お父様が退席すると、宰相様が嬉しそうにそう言ってくれた。お父様からは、決して聞けない言葉。
「ありがとう。心配をかけました」
「フローレス様もへカティア様もご無事だ。それが分かっただけでも、今回のことは意味がありました」
「そうね。でも、共和国はどう出るかしら?」
「こちらが抗議しない限り、向こうからは何も言えないでしょう。むしろ、消しにかかってくるかもしれない。警備を強化しましょう」
「レイがいるから、私のことはいいわ」
「そうでしたな、これは失礼を」
私を居住区まで送ると、宰相殿はそこで待機していたレイに丁寧に頭を下げた。
「レイ殿、王女の警護、よろしくお願いします」
「心得ました。お任せください」
レイの言葉を聞いて、宰相様は安心したように政務に戻っていった。
「宰相殿は、よくできたお方だ」
「ええ。彼のおかげで、この国が回っているの」
「今日は公務免除か。ゆっくりできるな」
「そうね。何か食べましょうか。食べたいものはある?」
「では、セシルを」
「ばかね。まだ日が高いわ」
「時間は関係ない。ずっとそういう次元にいたんだ」
私はレイの情熱に負けた。部屋に運ばせた大量の食べ物に手をつけることもなく、そのまま寝室に籠もったのだった。
入浴を済ませて、適当に果物をつまんでいたとき、メイドが宰相様からの伝言を持って来た。執務室への至急の呼び出し。
ぐっすりと眠っているレイに結界を張って、私はその場を離れた。
そばに剣があるとはいっても、あれほど疲労していては、襲われたときが心配だ。邪心あるものが結界に触れれば、すぐに感知できるようにしてある。
これは、私が密かに作った浮気防止のトラップ。有事でなくても利用可能。私以外の女がレイの寝台に近づけば、私の魔力が炸裂する仕組み。
だって、あんな色気ダダ漏れのレイを、一人で寝かせておけるわけない!
「宰相様、何があったのですか?」
執務室に入ると、宰相様が一人で待っていた。手に持った書簡は、無惨に握りつぶされている。
私の目線に気がついたのか、宰相はそれを開いて私に手渡した。
「駐在大使からの書簡です。元首が代表の名乗りをあげて、軍事国家の設立を宣言したそうです」
「元首が……。お姉様は?」
「議員の妻たちは、一箇所に集められているそうです。身の安全のために」
「白々しい! そんなの人質じゃないの。お姉様もその中に?」
「おそらくは。軍事国家設立に反対した者は、反逆罪で捕えられたそうです。元首は軍部に取り込まれたのでしょう。フローレス様もそちら側に」
お姉様とヘカティアのために。元首には、他の選択肢がなかったに違いない。
「今から、国王陛下にお伝えします。セシル様もご一緒に」
すでに先触れが行っていたので、お父様はすぐに公式謁見の間に姿を見せた。
もう早朝というほどの時間でもないのに、お父様は相変わらず不機嫌だった。
「シャザードを得て、気が大きくなっているらしい。軍事国家など、国際社会で認められるものか。恥を知れ」
「では、我が国は認めないという態度でよろしいのですね」
「うむ」
宰相様が頭を下げたとき、謁見の間のドアが大きく開いた。辺境からの早馬が到着したと。
「緊急事態でごさいます!辺境へと共和国が進軍!国境の砦を占拠されました」
伝令の声が、静まり返った謁見の間に響き渡る。私たちはしばらく呆然と、そのエコーを聞くだけしかできなかった。




