52. 黒魔術師
「大人しくしろ。女に手荒な真似はしない」
教官はそう言って、数歩だけ軍部のほうへ進み出た。そして、振り返って、お姉様に手を差し出した。
「愛しいフローレス。この子と一緒に、私についておいで」
お姉様はその手を取らずに、へカティアを教官から奪い返した。眠っていたへカティアは驚いて、大きな泣き声を上げた。
教官はそれを見て、口の端を歪めるように笑った。その瞬間、ヘカティアは再び眠りに落ちた。教官の魔法?
「お姉様、教官が……」
「違う。あれは、シャザード様じゃない」
お姉様は怯えたように後ずさった。アレクが、苦しそうに言葉を吐く。
「逃げろ、セシル。やつは黒魔術師だ」
鎖の締め付けが更に強まり、アレクが悲痛な声を上げる。このままじゃ、アレクの体がねじ切れてしまう。
「やめて!アレクを殺すつもりなの?」
「大事な人質だ。すぐに殺したりはしない」
「人質……?」
お姉様が青ざめた顔でそう問うと、教官が虫ケラを見るような目でアレクを眺めた。
「大国の王太子が、ノコノコと他国に乗り込むなど。危機感の欠如。己の愚かさが招いた必然だ」
アレクの身分を知られている。ここままでは、人質として利用され、いずれ殺される。
「元首の暗殺と共和国の崩壊を企む輩。アレクシス王太子を生け捕った!その功績により、この国は軍の支配下に入る。全ての民が等しく富を得るために。力で国を治める軍事大国となるのだ」
「でっち上げだわ!」
私がそう叫ぶと、アレクが力のない声を振り絞った。
「ばかなことを。全て軍に搾取されるだけだ。民が豊かになるわけがない」
アレクの言葉を聞いて、教官はその顔から笑みを消した。
「国も民も命も。いくらでも替えがある。力で略奪すればいい。それが世の道理だ」
耳を疑った。教官はずっと奪うためじゃなく、守るために戦ってきたのに!
「そんなの教官らしくない!教官はいつだって、命の尊さを……」
「黙れ!お前に何が分かる!」
教官は私を睨みつけてから、自分の両手をじっと見つめた。
「民のために、命を削るように戦ってきた。国の繁栄のためと、この手を殺戮の血で染めてきた。なのに、何一つ残らなかった。なんのための人生だ」
教官はお姉様に、その手をもう一度差し出した。
「私たちはようやく自由だ。この国は理想郷。もう誰にも邪魔はさせない」
「触らないで!あなたは誰?シャザード様を返して!」
お姉様がそう叫ぶと、教官は見たことのないような、恐ろしい顔で笑った。
違う、あれは教官じゃない。もっと邪悪な何か。黒魔術師!
将軍と呼ばれる男に向かって、元首が呼びかける。
「今ならまだ間に合う。ばかな考えを捨てて、彼らを解放するんだ。すべての責任は私が取る。他国の王族を不当に拘束すれば、国際社会が黙っていない。この国は自滅するぞ」
反射的に、兵士たちが銃口を構えた。将軍が手を上げてそれを制する。
「元首殿。あなたはこの国の要。大人しく我らに従えば、代表としての地位を保証しましょう」
「お前たちに服従する。約束しよう。だから、この者たちを解放してやってくれ」
「無理な取引ですな。この者たちは私の大事な実験体だ」
その男の言葉を聞いて、元首が声を張り上げた。
「まだ魔薬を使う気か!あれは禁忌だ」
お姉様はやっぱり魔薬に! 我が国で王族に起きた事件も、犯人はこの男?
「綺麗事はもうたくさんだ。この薬は希望。成功すれば、いくらでも高値で売れる。この国を富ます財産となる」
「魔術師を生物兵器にすることが、民の宝になるわけがない! むしろ破滅の罠だ! 愚かな考えは捨ててくれ。でなければ、この国の理想は潰える!」
元首の言う通りだ。魔術師を操って戦争に駆り出すなんて、許されることじゃない!
そんなことをしたら、世界中から制裁を受ける。
「我らにすり寄ってくる国はある。この薬さえ成功すれば。それには、実験に使う魔術師が必要だ。王の息子と王の娘。血に継がれる魔力は、王に効く魔薬の臨床に使える」
血族の魔力! 王家に魔薬を盛ったのは、やはりこの男。そして、私たち姉妹を人質に要求したのも、この魔力を実験に利用するためだったんだ!
いずれは王を操って、国を手に入れるための布石。アレクの国も無事では済まない。
「教官!この男は、お姉様に魔薬を使ったんですよ!教官だって危険だわ! なぜ、言いなりに?」
「この男が作れるのは魔薬だけだ。強すぎる薬に解毒剤はない。私の解除魔法付与がなければ、その値打ちはないも同然。この世の魔術師を支配するのは、この私なんだよ」
解毒できない魔薬は、兵器としての商品価値はない。解毒剤の代わりに、解除魔法を売る!
教官はこの男と協力している。魔術師たちを操るために!
「さあ、フローレス。共にゆこう。私たちに歯向かうものは、もう誰もいない」
お姉様は震え声で、それでも気丈にその誘いを断った。
「死んでも行かない。あなたは私のシャザード様じゃない!」
その言葉に、教官の顔が邪悪に歪んだ。けれど、すぐに作り笑いを浮かべて、教官は優しく諭すような声を出した。
「愛しいフローレス。お前は混乱している。すぐに目が覚める」
あっという間に、お姉様に足枷が現れた。アレクも縛られたまま。どうしたら、この窮地を切り抜けられる?
魔石。これと私の魔力を合わせたら、アレクを縛る鎖を切れるだろうか。
教官の魔力を凌ぐことができなければ、その試みは失敗に終わる。でも、私だけでは戦えない。
一か八か。もうやるしかない。
私が魔石を握りしめたとき、見たことがないような眩しい光の珠が目の前に現れた。その珠は教官と私たちの間に割って入る。
そして、光の強さに皆の目がくらんだとき、私は球体の中にいる魔術師の声を聞いた。
「セシル、待たせたな」
光の中にいる魔術師は、間違いなく私のレイだった。




