49. 闇の女神ヘカティア
「またお会いできて、光栄です。遠くまでご足労いただき、恐縮至極に存じます」
トリスタン元首は、馬車から降りる私の手を取る。
私邸なのに、迎賓館といってもおかしくない。立派な蜂蜜色の石造りの屋敷。
貴族でもないのに、この財力はどこから来るのだろう。
「ご無沙汰しております。義兄上様には、今までご挨拶もせずに。申し訳ありません」
「とんでもない!フローレス殿下は、私には過ぎた妻。臣下として、お仕えさせていただいています」
長い金髪を後ろで束ね、淡い青の瞳を揺らして、元首は嬉しそうに答えた。
「そのお言葉を聞いて安心しました。紹介しますわ。こちらは私のパートナーの……」
「カイル・アンダーソンです。お招きいただき、ありがとうございます」
アレクが笑顔でそう言うと、元首は輝く氷のように美しい顔で、にこやかに挨拶をした。
「これはこれは。ようこそおいでくださいました」
元首が名を名乗ると、二人はしっかりと握手をした。
一見すると普通の光景、でも、二人の間には、何か不穏な空気が漂っている。
「気を抜くな」
私たちは、命名式の会場となる部屋へと案内されている。アレクは隙きを見て、そう囁いた。
元首は他の来客を迎えるために、玄関に残ったままだった。私たちを案内してくれるのは、執事らしき使用人。
「何か、気になることが?」
「血の契約だ。手首に深い傷があった」
「古の魔術……」
動脈から流れる血で、大型の魔法陣を描く。大量の出血で命を落とす者も多く、古くは悪魔を召喚する術と恐れられた。実際は、命を魔力に変える術。
今は魔術師に魔力行使を依頼できるので、そんな危険なことをするものはいない。
「まさか、公にできない魔術を?」
「かもしれない。気をつけろ」
「分かったわ」
元首は胸に一物があるように見えた。でも、それが何かは分からない。警戒を怠れば、罠にはまる。
招待客が通された部屋は、堅苦しいところのないサロンだった。趣味の良い長椅子が、壁際や窓際に配置されている。
中央は、ちょっとした儀式やダンスさえもできそうなくらいに空間が開けてある。そこで命名式が行われることは明らかだった。
身内だけの気楽な集まり。すでに用意されたビュッフェでは、料理人が肉を切り分けている。
客の好みを聞いて、ソムリエが上等のワインを注ぐ。
この中では、私が一番の高位。素性は知られているようだった。
私が通りかかると、皆がひざを折ってお辞儀をする。声がかかるのを待っているのだろう。
アレクは変装しているので、王太子という扱いはではなく、私のおまけみたいなもの。特に気を止める人もいない。
「ごきげんよう」
適当に挨拶を返すだけでは、何の情報収集にならない。でも、元首からの紹介がなくては、迂闊に声をかけることもできない。
王族の身分を嵩に高慢に振る舞えば、足を掬われる。
手持ち無沙汰でいたところに、元首が入ってきた。どうやら、玄関で待っていたのは来賓ではなく、今日の主役。私の姪っ子だったようだ。
元首はおくるみに包まれた赤ちゃんを抱いたまま、まっすぐにこちらにやってきた。
「セシル様、私の娘です。姉上のフローレス様によく似て、とても美しい子でしょう。さあ、抱いてあげてください」
私がおそるおそる姪っ子を受け取ると、元首は皆の前で高らかに宣言した。
「この子は国と国との絆である。共和国に希望をもたらす愛し子よ。その未来に幸あらんことを!」
周囲から拍手と歓声が上がる。
元首はお姉様の代わりに、私にこの子を抱かせた。私を広告塔として利用したんだ。
明日にはきっと、私の姿絵が市井にばらまかれることだろう。
乾杯の嵐と、祝福の言葉が続く。それが落ち着いたころに、元首はこの子をへカティアと命名した。
異国の闇の女神の名。漆黒の瞳と髪にふさわしい。
「お姉様は、いらっしゃらないのですか?」
「ええ。まだ体が本調子でなく。よろしければ、明日にでも見舞っていただけませんか。郊外の別宅で療養しておりますので」
「ええ、是非に。会いたいわ」
「ありがとうございます。フローレス殿下も喜びます」
妻と言いながら、元首はお姉様に敬称をつける。二人は、実質的な夫婦ではないのかもしれない。
お腹をすかせて泣き出したへカティアを、乳母に預ける。そして、いよいよ社交という名の情報収集が始まった。
すでに、私とアレクは会場中の注目の的となっていた。誰もが元首から紹介されるのを待ち望み、一度つかまってしまうと、なかなか離してもらえなかった。
「さすがに疲れたな」
宿泊先となっている駐在大使公邸に向かう馬車で、アレクが少しだけ首元をくつろげながら言った。
もう深夜をとっくに過ぎている。
「ごめんなさいね。こんなに引き止められるとは思っていなくて」
「いや。いい情報収集ができたよ」
あの会場に呼ばれていたのは、この国の名士たちだった。特権階級というわけではないけれど、やはり貧富の差を撤廃することは、どんな社会でも無理なのだろう。
ただ、彼らは生まれながらの貴族ではなく、その才覚や能力で今の地位を築いた者たちだった。高い教養があり、政治への関心も高い。
「何事もなくて、よかったわ」
「油断は禁物だ。明日の面会のほうが、人目がない分だけ厄介だ」
「そうね。気をつけるわ」
そうだとは思う。それでも、ほぼ一年ぶりにお姉様に会えるのは嬉しい。
元気でいる姿が見れれば、どれだけ安心できるか。
私たちを乗せた馬車は、誰からも襲われることなく、無事に大使公邸に到着した。今夜はここで休む。
何も起こらないことが、逆に私の不安を煽っていた。
明日、何かが起こる。そんな気がして、眠れそうになかった。




