109. 宿命の恋と運命の愛
早朝なのに、外はもう明るい。いつの間にか春が来ていた。前庭でカタッと小さな音がする。街に一軒しかない郵便局兼雑貨屋からの配達だ。
そっとベッドから抜け出て、衣服を身に着ける。春とは言っても、朝晩は冷え込む。人が見てないからって、裸でウロウロするのは良くない。
だって、私はレイの奥さん! だらしない生活をしてたら、夫の評判を落としてしまう。
玄関の前の雨よけに、輪ゴムで丸めた新聞が転がっていた。今日は珍しく郵便も一緒。
「また新聞連載?」
部屋に戻ると、ベッドから声をかけられた。レイは私がいないと眠れないし、すぐに起きてしまう。子供みたいね。
でも、仕方ないの。だって、妻を溺愛してるから!私なしじゃダメな困った人。
レイはまだ裸で、朝っぱらからフェロモン全開。その姿にうっとりしちゃうと、あっという間にもう一回戦ということに。
いやいや、だめだめ。日が高くなるまでベッドでイチャイチャとか、農婦の風上にも置けないわ!早く起きて働かなくちゃ!
「読んでみたら?」
「興味ない」
「カイルの小説は、読んでるじゃない」
「親友の作品だ。しょうがないだろ」
嘘つき。全巻通しで読んで、こっそり泣いてたのはどこの誰?でも、私は言わずと知れた良妻!夫に趣味を押し付けたりはしない。
「ふうん。ま、いいけど。それより手紙が来てるわ。お姉様からよ」
封を破ろうとすると、レイが手を伸ばして、私の腰をぐっと引き寄せた。私はバランスを崩して、ベッドにどさっと腰を下ろす。
「いきなり何?危ないじゃないの」
「危ないのはセシルだろ。指を切ったら大変だ」
はあ?そんなこと?
レイは身を起こして、さっと手紙を取り上げた。万事が万事こんな調子。過保護すぎる。
空気を掴むようにして、レイは短剣を取り出した。主からの召喚を喜んで、剣がピンっと澄んだ音を出す。騎士の儀式で聞いて以来だ。
レイはそれを使って、ピッと封を切る。王家の秘剣も、農夫にはまったく無用の長物だ。
でも、切れ味抜群なので、ジャガイモをむくのにいいかも。農家風煮込みを作るときは、レイに手伝ってもらおう。
「みな、元気か?」
「ええ。住所が決まったって」
「そんなもの、師匠の魔力をたどれば……」
レイなら魔法で手紙を送ることは簡単……というか、その気になれば一瞬で会いにいける。でも、それは大魔術師の話で、農夫とは無縁のことでしょ!
「いいの!便りを待つのも楽しいんだから!教官は無事に職を見つけたらしいわ」
「余裕だろ。百人分の仕事をするさ」
「それじゃダメよ。目立たないように、ほどほどにしなくちゃ」
「あの仕事の鬼が、ほどほどねえ……」
レイは、関心なさそうにそう言うと、私の腕を掴んでベッドの中に引きずり込む。隙を突かれた。不覚!
「レイ、ダメよ」
押しのけようとすると、レイは体を反転させて、私に馬乗りになった。持っていた短剣の切っ先を、私の喉笛に向ける。
「逃がさない」
この体勢。形勢は逆転しているけど、騎士団の訓練のときみたい。秘剣は嬉しそうに、ピンと音を立てた。
「元主に刃を向けて喜ぶなんて。この剣はレイをすっかり気に入ったようね」
私が剣の刃を指で弾くと、キンっと耳障りな音を立てた。まるで、私の所有物だったのが、不服みたいに。
レイは私から降りて仰向けに寝転ぶと、目の前に剣をかざした。
北方に潜入するときに、騎士の証として持たせた王家の秘剣。レイの命令だけを聞いて出現する。
「最後の最後で、いつもこいつに助けられた。どんな苦境にあっても、この剣のおかげで生き残れた」
「そんなに頼られちゃ、この子もあなたに懐いて当然ね」
これがレイの命を救ったのなら、私も感謝しなくちゃ。
「レイの守り刀ね。助けてくれてありがとう」
そう言って、その鍔に触れると、短剣はシャランと綺麗な音を出して消えた。なんだか、誉められて照れたみたいに。
「俺の守り刀はセシルだ。君がいたから、希望を捨てずに済んだ」
「じゃあ、これからもレイは安全よ。だって、私はずっと側にいるもの」
「そうだな。だから、この剣は息子に譲る。洗礼式で正式に渡せるよう、牧師様に頼んでおこう」
「レイったら、気が早いわ。まだ子どもなんて……」
私がそう言うと、レイはにっこり微笑んだ。え、何?もしかして、賢者の秘事で何か見えているの?
そう聞こうとしたとき、ドアがけたたましくノックされた。レイは下着だけを穿いて、急いで玄関に向かう。
ちょっと、そんな格好で! 近所の奥さんだったら、どうするのよ! 若いイケメンのレイは、ただでさえおばさんたちに人気者なのにっ!
「レイ!海に魔物が出た。手を貸してくれ!」
牧師様の声。でも、レイはもう魔術師じゃなくて農家のダンナ。魔物討伐を請け負う義理は……。
「魚屋の船が襲われている」
魚屋さん!あそこのおかみさんは、この辺りのコミュニティーの首領!ここで無視したら、後々まで嫌味を言われる!主婦ネットワークは恐ろしいのっ!
「レイ、行って!」
「奥様のお望みのままに」
レイはそう言って、騎士のように胸に手を当てた。私の騎士。私だけの騎士。この先もずっと、永遠に。
トーストが焼けるのを待ちながら、私は居間に移動して新聞を広げる。キッチンに漂う匂いが、最近はやけに鼻につく。なんでだろう。
でも、まずは今大流行の新聞連載小説『王子と男爵令嬢』だ。これさえ読んでおけば、どこでも話題に事欠かない。
私は遠くの友へと思いを馳せた。離れていても、変わらない絆。共に戦い、ようやく実を結んだ私たちの宿命の恋は、世界を救う運命の愛となったのだ。
匂い避けのマスクをかけて、キッチンへ戻る。魚屋さん特製の酢蛸に、生クリームをつけて食べたくなり、私は一人で首をかしげる。
そうしてまた、希望に満ちた新しい一日が始まったのだった。
【完】