107. 新たな配役
「ここにいたのね。寒くないの?」
海を背景にした野外劇場。座席の一番上の段で、しきりに筆を動かしている人がいた。
「あの島に比べたら、大陸の気候は穏やかです。芯から冷えるほどでもない」
「そうね。あの国に比べたら、ここはまだ過ごしやすいか」
前世で私たちが生きて死んだところ。それは、長く湿った冬に閉じ込められる、大陸の北に位置する島。私は処女王と呼ばれた統治者で、カイルはその孫。若くして産んだ私の子の息子。
「俺の夢は、脚本家だった」
「レイから聞いたわ。必ずここに戻ってこようって約束も」
「好きな子は、連れて来れなかったけれど……」
隣国の噂は、途中の街でも耳にした。クララが王宮に留まっているのは、確認済みの事実だった。
「残念ね。でも、脚本は書いているんでしょう?」
「これは、ただの私小説です」
「あの『真実の愛』の作者が望めば、すぐにでも王立劇場で上演されるわよ」
「……知ってたんですか」
「思い出したのは、あのテロのときね」
あの小説は、宿命の巫女への鎮魂歌。王家の陰謀に巻き込まれて、その命を散らした彼の前世の恋人。
「あなたも生まれ変わっているなんて。うかつでしたよ」
「あら、私だけじゃないわよ」
「そうですね。おそらくは、巫女と共にすべての魂が呼び戻された」
「演劇には、脚本だけじゃなくて役者も必要ですもの」
「配役は変わっていましたが」
この世界の主役はクララとアレク。私たちは、それを取り巻くその他大勢。
「前回の演技がまずかったのよ。だから、主役の座を奪われた」
「痛いところを突きますね。確かにそうでしょう。俺は巫女を守れなかった。前世でも今世でも」
クララは無事に宿命を得た。カイルは彼女を守りきった。ただ、その役割が運命の恋人じゃなかったというだけ。舞台と役者は決まっていたけれど、結末はクララのアドリブで決まる台本だった。
「あなたはよくやったわ。おかげで、この世界は祝福を受けた。次の巫女が現われるまで、もう心配ない」
「そうですね。俺の役目は終わった」
「あら、もっと重要な使命があるじゃない」
「それは……?」
この世の宿命。おばば様が記した書を最後に、彼女とともに消えていくはずだった真実。その記録を後世に伝える後継者を、おばば様はずっと探していた。
「西の賢者に紹介するわ。その秘事を学べば、これから何度生まれ変わっても、もうこんな争いに巻き込まれることはない」
「どうでしょう。あなたが一緒についてくるなら、必ず暴風雨が吹き荒れそうですが」
「失礼ね。私がもたらすのはいつも繁栄よ!黄金期!だから、この村も豊かにするわよ」
私が胸を張ると、カイルがようやく笑顔を見せた。優しい笑顔。レイに似ている。
そうか、カイルがレイに似ているのは、そういうことだったんだ。前世の血縁者。賢者修行をしたレイは、すべてを承知しているはずだ。私が前世を覚えていないと思って、何も言わないだけ。
「賢者殿にお会いする前に、やっておきたいことがあるんです」
「そうね。その物語を書き上げなくちゃ」
「ええ、ハッピーエンドではありませんが、未完で終わるわけにはいかない」
「それはそうよ。そんなことになったら、世界中の女性が悲鳴をあげるわ」
「おおげさな。ただの恋愛小説でしょう」
「ベストセラー作家が、弱気なのね。じゃあ、言い方を変えるわ。ガッカリするのはクララよ。この本の大ファンなんだもの」
「クララが?」
「ええ、そうよ。主人公に感情移入して、涙を流すくらいにね」
謁見の日の控え室で、王族の運命に涙したクララ。確かに王位継承者という点で、クララはアレクに主人公を重ねていた。
でも、その心の奥深くには、きっと前世で愛した人への思慕が残っていた。彼女はカイルを思って泣いたんだ。
「そんなことを聞いたら、書かずにはいられない。あなたはさすがだ。人を動かすのが、昔からとても上手い」
「あら、ありがとう。でも、それだけじゃないわ。私も続きが読みたい。だって、その結末の頃、私はもう死んでたんですもの!今回は死ぬ前に完結してちょうだい!」
つい、命令口調になってしまった。いけない、いけない。私はもう王女じゃない。ましてや、カイルの祖母でも女王でもない。ただのセシルなんだから。
『承知いたしました。女王陛下のお心のままに』
カイルが笑いながら、魔伝でそう言った。なかなかに冗談の通じる男だ。なんだか嬉しくなる。
おばば様の元に行くのなら、これからはもっと親しくなれるかもしれない。つい構いすぎてうっとうしがられないようにしなくちゃ。本当のお祖母ちゃんと孫ってわけじゃないんだから。
「これを、あなたに……」
カイルが差し出したのは、明らかに中が指輪だと分かる小箱。そして、その指輪はおそらくクララがはめていた、あのガーネットだ。
「既婚者に婚約指輪って……」
「そういう意味じゃありません。あなたの手で、処分してほしいんです。滅びた王家の最後の当主。この家紋を消すのに、一番相応しい」
己の子に愛する者と幸せになるようにと、王の落胤の証明として持たせた指輪。その願いは、叶わなかったのかもしれない。でも、不遇の子とその孫は、その血が絶えるまで懸命に愛に生きてくれた。
「前世で母は、愛する人の指をこの花で飾ってほしいと言いました。少しの間だけでも、クララに渡せてよかった」
今世では、カイルは実母の顔は覚えていないだろう。だから、前世の母の願いをこめた指輪を、クララに贈った。その真摯な思いは、きっと鈍感な彼女にも伝わったと思う。
私は魔法で、その指輪を空気に溶かした。カイルの恋心が、この指輪と一緒に昇華するようにと。この美しい場所は、その静かな思いを葬るのに相応しい場所だった。
ここから、カイルは新しい使命に生きる。そして、彼なりの幸せを、きっとその役割に見出すだろう。私はなぜか、そう確信していた。