103. 宰相様の教え
辺境までは早馬でも一日半はかかる。転移魔法を使えば一瞬なのに、レイは馬で行くと言い張った。
「なんでわざわざ。しかも二人乗りなんて……」
「馬には回復魔法をかけている。心配ない」
動物虐待の心配をしたわけじゃない。時間と労力のロスに文句を言ってるんだけど?
「しかも、こんな格好で……」
レイは騎士の正装。私は王族の勲章をつけたドレス。とても逃避行には見えない。言ってみれば、囚われたお姫様を救った騎士の凱旋みたいな?
「これはパフォーマンスだ。なるべく人目に触れるように。セシルが俺に略奪されたという噂を流す」
「噂じゃなくて本当でしょ。王太子の婚約者を横からかっさらったんだもの」
「ぐうの音も出ないな。その通り」
私の軽口に、レイも笑って答える。実際は押しかけ女房みたいなもの。レイを落とすのに、どれだけ苦労したか!本当に大変だったわ。
「セシルには悪いが、王女としての評判を落とすぞ」
「お父様対策なのね。しかたないわ」
私の評価なんて、べつに地の底に落ちてもいい。
たとえこっそり逃げても、お父様は私たちを探し出して、また駒にしようとする。アレクの正妃にも、別の王女を送り込んでくる。
そうならないように、うまく立ち回る必要がある。策略でお父様を煙に巻くには、宰相様の協力は不可欠だ。
王族の役目を放棄したと、街々で民の誹りを受けるかと思ったのに、特に嫌な目に遭うこともなく辺境に到着した。この国はクララの武勇にお祭り騒ぎで、隣国の王女なんて眼中にない。
「セシル様!レイ殿!心配しましたぞ。ご無事で何よりです」
辺境に着いて、すぐに宰相様を訪ねた。なるほど、王家の勲章はこういうときに役立つ。私の顔を知らない兵士でも、これがあれば身分を確認できた。
「宰相様のおかげです。送っていただいた魔石が役に立ちました」
どんな小道具が欠けても、舞台というものは成功しない。すべてがその結末に向けて、それぞれの役割を持っている。あの魔石のおかげで、私たちは教官を取り戻せたのだ。
「それはよかったです。こちらも順調ですよ。フローレス様とヘカティア様を保護できました」
「二人はどこ?すぐに会える?」
「隣国の陣営におります。元首が一緒なので、あちらの国王陛下の預かりで」
「そう。国には戻したくないわ」
「そうでしょうな。当てがおありですか?」
「ええ、おばば様のところで匿うわ」
「西の賢者の……。なるほど、そうでしたか」
宰相様は何かを考えるように、そのまま黙り込んだ。おばば様の変身、バレているのかな?
「宰相殿、私と王女は婚姻を結びました。もう、国には戻らないつもりです」
レイの言葉を聞いて、宰相様はとても嬉しそうな笑顔を向けた。
「それは喜ばしい。嬉しいニュースですな。セシル様の願いがようやく叶いましたか」
「ありがとう。宰相様の言うとおりだったわ。希望を捨てなくてよかった」
「では、いよいよ夢の実現ですな。そのためには、国王陛下の追及を逃れる必要がある」
田舎で羊を飼って麦を育てる。ずっと前に私が語ったことを、宰相様は覚えてくれていたんだ!
宰相様は満面の笑みをうかべているのに、私は目がうるうるとしてきた。私にとっては、この人こそが父とも師とも言える人だった。ずっと、私を導いてくれた。
「宰相様、力を貸してください。二度とレイを危ない目に合わせたくないの。お父様の手の届かないところに」
「セシル様の隣国行きで、レイと国との従属契約は切れています。陛下はもう、レイに命令はできません。だが、王女様は陛下の実娘。王籍を離れる必要がありますな」
そうだった。宰相様はレイの自由を、私の隣国行きと引き換えにしてくれた。もしあれが婚約を条件とするものだったら、まだレイは自由になっていない。
あのときから、宰相様は私たちに未来の可能性を残してくれていた。隣国に渡ってからも、お父様との交渉をずっとうまく進めてくれた。私の味方だった。
「どうすればいいかしら?お父様が私を放逐するように仕向けるには……」
「外からの圧力が必要ですな。幸い、ここには隣国の国王陛下がいる。彼のお方の協力が得られれば……」
アレクの父上。隣国の国王陛下。私にとっては舅をなるはずの人だった。よき統治者という噂は聞いているし、あのアレクの父親だ。お父様のような無慈悲で強欲な人ではないはずだ。
「お会いできるかしら。お姉様のこともお願いしたいし」
「そうですな。会うことはできると思いますが、その前に計画が必要です」
「計画?今後のこと?」
それはだいたい決まっている。私とお姉様は、王女の身分を捨てて国を出る。もともとが平民みたいなものだったんだから、王族の権利なんて興味もない。
「いえ。国王陛下との面談の青写真です。望む結果に誘導するために、交渉の全容を想定するのです」
「シミュレーションってこと?宰相様はいつもそんなことを……」
「相手は国王ですよ。特に隣国の王は手ごわい」
「お父様よりも?」
「お父上はすべてがご自分の利益優先です。そこを攻めればいい。ですが、隣国の王族はそうはいきません。彼らには大義に裏付けられた信念がある。それを曲げては、物事は進みません」
そうか!アレクも初恋の成就よりも、同盟の正当化を優先した。あの頑固さは、この国の王族の伝統。父親譲りの教えだったんだ。我が国の王族とは、考え方が違う。
私の試みが失敗したのは、それを見極められなかったから。誰にでも同じ方法が通じるわけじゃない。相手の落としどころを分析することが、人を動かすために必要なスキル。
「宰相様。弟の王太子をよろしくお願いします。宰相様の教えを得れば、きっといい統治者になれます」
「そうですな。できればそれは、セシル様にお教えしたかったですが」
宰相様はちょっとだけ寂しそうだ。それは娘を嫁がせる父親の顔みたいに見えた。