番外編 いつかの、未来7
※末娘ディートリント視点
(テオ19歳、パット16歳、ディー12歳くらい)
それは、いつものように母の一声から始まった。
「忘れてた! リーン、テオが16歳になったら酒場に連れて行ってくれるって約束したわよね?! もう3年も過ぎちゃってるわ」
「あー、そんな約束をしたような気もするね」
父が母から目を逸らしつつボソボソと答えている。
どうやら父は覚えていたけど、敢えて黙っていたみたい。でも、お酒に弱すぎる母と酒場って永遠に交わらない気がするのだけど、どうしてそんな約束をしたのかしら?
私はじっと成り行きを見守った。
「ほら、ディーがまだ12歳だし一人だけ飲めないっていうのは、ね?」
酒場に母を行かせたくないらしい父が、私を理由に断ろうとしている。母が側の私をちらりと見てシュンとなった。
「そうね・・・・あと4年待つわ」
「お父様、私はお酒以外を飲むから酒場に連れて行って!私がお酒を飲める年齢になる頃にはお兄様達が結婚しちゃってるわ。家族で行くなら今よ」
「それはそうか」
私の一言で一転、家族でエルベの街の酒場に行くことになった。
うちの家族は皆、常日頃母を喜ばせたいと思っている。当然、私も同様で小さく手を叩きワクワクした顔でディーは何を着ていく? と言って、はしゃいでいる母を見て内心快哉した。
父もこういう母には特に弱いから、仕方なさそうにしながらも顔が緩んでいた。
■■
「・・・・パット兄様。私、酒場ってもっと賑やかで食器や食べ物や武器が飛び交っているのだと思っていたのだけど。」
「飛び交いはしないと思うけど、俺ももっと雑な感じだと思ってた。」
店内を見渡して私と次兄のパトリックは顔を見合わせた。
父に連れられてやってきた酒場は、なんだか思っていたよりずっと清潔で落ち着いた雰囲気だったのだ。
「えっ?! 奥方様?! あっ、ご領主様も?!」
店に入って奥の丸いテーブルについた私達を見て、他の客が驚いている。
変装するか迷ったけれどエルベの街では顔を知られすぎているから、もうこのままでいいか、と母も長兄のテオドールも珍しい髪色のままだ。よって、私達が誰かということが直ぐ分かる。
「こんばんは! 今夜は私達もご一緒させて頂戴ね。」
「君達、飲み過ぎないようにね」
「ハイ、もちろんです」
驚愕して棒立ちになる客達へにこやかに笑顔を返す母の後ろで、父が表面だけの笑顔で牽制していた。
父、母、次兄、私、長兄の順にぐるりと座ったテーブルの上にメニュー表が置いてある。
屋敷での食事と違って、その場で食べたい物を決めて注文することが珍しくて楽しい。
私は二枚あるうちの一枚を持って上から下までじっくり目を通す。両脇から兄達も覗き込んできて、ああだこうだ言い合いながら食べたい物を決めていく。
向かいでは母も目を輝かせて父と顔を寄せ合うようにメニューを見ている。
「私の好きな物ばかりでどれを頼むか迷うわね」
「ゆっくり考えて決めたらいいよ」
父はいつでも母に優しくて甘い。私にも甘いけれど、どこか違っている。私に対してはここまでという線があるが、母に対してはそれが全くなくて無限だ。
そこが娘と愛妻の差なんだろうと思う。友人達は揃って私の母のように婚約者から大事にされて愛されたいと言う。
私はその言葉を聞く度に、まず自分が欲しいだけの愛情を相手に与えればいいとアドバイスするが、それはなかなか受け入れてもらえない。お嬢様方は愛が先に欲しいらしい。
私の母は全力で父を愛している。両親の場合、どっちが先かは知らないけれど、あれだけ真っ直ぐに愛情を向けられたら誰だって目一杯に相手を大事にすると思う。
・・・・ただちょっとだけ、父に権力とお金があって母への愛がわかり易すぎるから有名なだけなのよ。
「・・・・ねえ、兄上。このメニューの内容って、もしかして」
私がぼんやり両親を眺めて考えていたら、次兄がメニュー表に隠れながら小声で長兄に尋ねた。
「パット、気づいた? そうだよ。ここは父上がこっそり経営してる母上のための酒場だよ」
「そりゃ気づくよ。このメニューって国籍も何もかもめちゃくちゃで、共通してるのは母上の好物ってとこだけじゃない。よく客が入るね」
「そりゃ採算度外視でやってるもの。安くて美味しければ客は来るよ。ただし、ここは会員制なんだ。母上に嫌な思いをさせない飲み方ができる人だけが客になれるってわけ。安心安全を売りにしてるから女性も多いよ」
へー、と聞いていた私と次兄が揃って右上を向く。
「なんでテオ兄様はそんなに詳しく知ってるの?」
「僕は父上の補佐として色々手伝ってるからね」
「そっかー。俺もギュンターおじ様の秘密を手伝えるようになりたいな」
「おじ様はアレクシアおば様に隠し事ができない気がするけど」
そうかも、俺も婚約者のイザベルに秘密は作れないもんね。と頷いた次兄が皆の分を取りまとめて注文を頼んだ。
次々と運ばれてくるできたての料理を家族で取り分けて食べるのも珍しくて、私は食べ過ぎてしまった。
「もう、お腹いっぱい」
「私も。いつもの食事も美味しいけれど、ここで食べるのも楽しくて美味しいわね!」
ふー、と大きく息を吐いて母が笑う。その横で次兄が、これ残り全部貰っていい?! と大皿を引き寄せる。父と長兄は二人で時々仕事の話をしながらのんびりグラスを傾けていた。
宴も終わりが近い、そんなゆったりした雰囲気の中で母の目がきらっと光った気がした。
何を思いついたのか、こそっと次兄に顔を寄せて何か頼んでいる。
「・・・・え、うん、いいよ」
「本当?!ありがとう、じゃあ一口だけ貰うわね」
あっと思った時には遅く、母は次兄が頼んだビールのジョッキを両手で抱え、こくっと一口飲んでしまった。
「エミィ、それ度数高いやつ!」
父が叫ぶも手遅れで、母は真っ赤になってきゅーっと倒れた。
「パット!」
「ああ、やっぱり。ごめんなさい。母上が『せっかく酒場に来たのだから、絶対にビールを飲んで帰りたい』って言うから・・・・」
長兄に睨まれて次兄が謝っているが、皆、母の頼み事を大抵は断れないと分かっているからそこまで怒ってはいない。
「まあ、こうなるかなーとは思ってたよ。エミーリアは酒場でビールに憧れてたわけか」
くっくと笑いながら父が母を抱き上げた。そして、私だけへ視線を向けて帰ろうか、と言ってきた。
「兄様達は一緒に帰らないの?」
「せっかくだし、僕達はもう少しここで飲んでいくよ」
「二人だけで楽しむなんてズルい!」
「そんなこと言っても、ディーは子供なんだからもう帰って寝なきゃ」
「まだそんな時間じゃないもの!いいわよ、今度イザベル姉様に『パット兄様はズルい』って言いつけるから!」
「ええっ、それは止めてよ」
「ディー、君がお酒を飲めるようになったらまた一緒に来よう。だから、今夜は大人しく帰りなよ」
「テオ兄様も!婚約者が出来たら言いつけるわよ!」
「やってみなよ。僕に婚約者が出来たならね」
必死で言い募れば長兄が嗤った。
しまった、この話は地雷だった!
長兄が結婚年齢に達する昨年、何がなんでも次期公爵夫人になりたい令嬢達が次々と実力行使に出て、ぶち切れた兄は婚約者なんていらない、と宣言したのだった。
虎の尾を踏んづけた私はすごすごと引き下がり、大事そうに母を抱きかかえた父の服の裾を握って屋敷に帰った。
心の中で、もし長兄が結婚したら必ず十倍にして言いつけてやる、と誓いながら。
■■
オマケ〜その後の酒場〜
「兄上、そんなに飲んだら身体に良くないよ」「僕は酔わないから大丈夫」
「それなら水でいいでしょう」
「「げ、ヘンリック?!」」
しれっと席についた父親の側近に戦慄する二人。
「リーンハルト様から適度なところでお二人を連れて帰るよう言いつかって参りました」
「父上は心配性なんだから」
「ご結婚の話が出たらテオドール様が荒れるのが分かっていたからですよ」
そこでとんっと音を立ててグラスを置いたテオドールがテーブルに突っ伏して地の底を這うような声を出した。
「僕は、結婚なんて嫌だ。パットの子供を養子にもらう」
「えっ?!俺とイザベルの子供・・・・?!想像したら酔いがまわってきた」
「パトリック様、お水です。テオドール様、そう投げやりにならずとも、いずれ良いお相手に巡り会えるのでは」
「僕はもう本当に令嬢なんて見たくもないんだよ。でも、結婚して跡継ぎを成すのも公爵家の嫡男の義務なんだよね・・・・。じゃあ相手はヘンリックが決めてよ。二十四歳で留学が終わるから、そうしたら文句を言わずにその人と結婚する。それでいいだろ」
「兄上それは止めなよ!二十五歳で愛せる人に出会ったらどうするの?!」
「そんなことは起こらない。」
「かしこまりました。リーンハルト様の時には出来なかった、誰もが納得するお相手を腕によりをかけてお探しいたします!」
青ざめるパトリックにやさぐれるテオドール、その横で降って湧いた重大任務に張り切るヘンリック。酒場の夜は更けていく。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
同時投稿の『溺愛され過ぎ公爵夫人の日常。 番外編 公爵夫妻、思いやる 後編』がこの話と連動しておりまして、酒場に行く約束をした日の話になっております。よろしければ読んでやってください。