15.腕の中の婚約者
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全力で走ったので、息が上がった。
こんなに走ったのはアレクシアが言うところのマリッジブルー事件以来だ。
これで母から逃げられたと思ったのも束の間、扉を叩く音がする。
鍵を持って来るよう言いつける声も。
いつもならこの部屋に閉じこもれば諦めてくれることが多かったのに。
実力行使にまで出るくらい、今日は私への怒りが強いらしい。結婚式が近いからか、もしかしたら今日行った場所までバレているのかもしれない。
扉の前にいるのは母か、彼女に命令された使用人か。
どちらにせよ、この部屋の鍵を持って来られたらおしまいだ。
時間がない。
逃げなくちゃ。
私は机においてあるライオンのぬいぐるみだけを抱え、1番大きな窓を開けた。
この部屋にバルコニーはついていないので、もうこの窓から直接飛び降りるしかない。
窓枠に身体を乗せ、覗き込むと眼下には芝生が広がっている。骨折くらいで済むかしら。
いえ、逃げるには足を折らないようにしなければ・・・。
冒険小説なんかでは、シーツを裂いて脱走用ロープを作ったりするけど、今の私にそんな時間はない。
ついに、大声と共にガチャっと鍵を開ける音が耳に入る。
骨折かハサミで突き刺されるかの2択か、と思ったその瞬間、下からまさかの声がした。
「エミーリア!おいで!」
私は迷わず飛び降りた。
「エミーリア!無事?!怪我はない?!」
「リーン、貴方すごいわ。よく、私を受け止められたわね。」
「え、僕を信頼して飛び降りたんじゃないの?僕は何があっても君を受け止めるつもりだったんだけど。」
「いや、貴方の声がしたから、たとえ落ちて骨折しても助けてもらえるかと思って。」
「え、ナニ、その無謀さ。」
そう言いつつ、安堵の吐息を漏らしたリーンが、ふと私の髪に目をやり、息を止めた。
「髪、切られちゃった。」
明るく言ってみたものの、リーンの目にみるみるうちに涙が浮かぶ。
「なんて酷いことを。他にどこか痛いところはない?」
悲痛な声で言うと、私を地面に下ろし、顔や手に怪我がないか確認する。
「ううん、髪だけ。ハサミを振り回されたけど、避けきったわ!」
「危ないな!僕は、髪も君も全て守りたかった。でも、少なくとも君が1人で飛び降りる前に間に合って良かった。」
リーンはそう言うと、私をそっと抱き寄せて短くなった髪を優しく撫でる。
お姉様にもよく頭を撫でてもらったけど、リーンにされると落ち着かないのはなぜかしら?
私はこんな時なのに、顔が熱くなってきた。こういう雰囲気はものすごく照れるわ!
話題転換しなきゃ!
「貴方が来たこと自体、奇跡だと思うわ。どうして私がここにいることがわかったの?」
当然の疑問を投げかけたら、リーンが言葉に詰まった。
これは私に対して何か後ろ暗いことをやったな?
私はにっこり笑って彼の目を見る。
「リーン、貴方もう私に嘘はつかないって言ったわよね?あれも嘘なの?」
それを聞いた彼の慌てっぷりは凄かった。高速で首を横に振って、私の手を両手で包み自分の額に当てる。
どう見ても懺悔する態勢だが。
「君に何かあったらすぐ連絡が来るように、ノルトライン侯爵家に見張りを置いてました。すみません。」
「いつから?」
「1ヶ月くらい前から。君に贈ったものが届いてないと知って、それで君のこの家での扱いも知ったから気になって。」
「あら、それもバレてた。」
懺悔中のリーンがパッと顔を上げてこちらを見る。薄青の目がいつになく真剣で吸い込まれそうだ。
「バレてた、じゃないよ。本当はずっと君をこの家から連れ出したいと願っていたんだ。ということで、僕のところに落ちてきた雲の精霊さん。ちょっと早いけど今日から公爵邸で一緒に暮らしませんか?」
後半は照れもあってか、彼の表情と口調が砕けた。
雲の精霊の話なんてまだ覚えてたのね。私も覚えてたけど。
そして私は予想外の話にひどく動揺した。
確かに早くあの屋敷で暮らしたいと思っていたけど、何がなんでも、急すぎる。
ここでそんな幸運を使ってしまって良いわけがない。
「そんな、結婚前に一緒に住むなんて貴方がなんと言われるか。多分いつものヒステリーだし、このまま母の怒りが収まった頃にこっそり部屋に戻るわ。それで多分元通りになる。大丈夫よ、結婚するまでの辛抱だわ。」
「何言ってるの?こんな目にあったのに、この家に君を戻すなんて出来るわけないだろ?どうせ2週間後には一緒に暮らすんだから、それがちょっと早まるだけでしょ。こんなことになったら、もう誰も何も言わないよ。それに、」
と言葉を切ったリーンが、ひょいっと私を横抱きして歩き出す。
私は安定を求めて思わず彼の首に手を回す。
間近にある彼の顔が緩んだ。
「それにね、今日案内した君の部屋はいつでも君が暮らし始められるように全て揃っているんだ。だから、このまま連れてくね。」
「リーン、そんな、私、ここで幸運を使っちゃうわけにはいかないのよ。」
思いとどまらせようと、焦って本音を漏らすと、彼は耳元で聞こえる私の声にくすぐったそうに笑う。
「なんだ、公爵邸で暮らすことを幸運だと思ってくれてるんならもう何も言うことはないよね。大丈夫、これは君の幸運じゃなくて僕の幸運を使うから。そのずっと持ってくれているライオンのぬいぐるみと一緒にうちにおいで。それだけを抱えて腕の中に飛びこんできた君を、僕がもう離すわけないじゃないか。」
心底嬉しそうに、こっちが沸騰しそうな甘い台詞を吐きまくるリーン。照れが限界に達した私は抗議の意味を込めて、彼の耳を引っ張ってやった。
痛いよ、と言いつつもリーンは笑っている。
「大変仲がよろしいようで。水を差すようで申し訳ありませんが、報告をしてもよろしいでしょうか?」
突然湧いた天敵ヘンリックの声に驚いて、思わずリーンにしがみつく。
その様子を見てもヘンリックはいつもと違って離れろ、などと文句を言わず、無表情で私の前に靴を置いた。
「エミーリア嬢、靴をお持ちしました。階段に転がっていましたよ。」
「あ、ありがとう。」
珍しいヘンリックの親切に礼を言って靴を履く。
正直助かった。リーンが甘すぎてこのままだと耐えられる自信がなかったから。
彼はとても残念そうに私を下ろしていたが。
ヘンリックは私をジロジロと見て眼鏡をクッとあげた。
「髪以外はご無事そうで安堵しました。玄関に散らばった貴方の髪を見て少しだけ、心配しました。」
その意外な台詞に、私も隣のリーンも目を丸くした。
それに照れたヘンリックが早口で報告する。
「リーンハルト様、ノルトライン侯爵夫人を向こうで拘束しております。夫人立ち会いの元、部屋を捜索しましたところ、先日リーンハルト様がエミーリア嬢に贈られた石を発見しましたので。」
「お母様を拘束?!石って何?!」
リーンが少し悲しそうな顔をして私の手をとって自分の頬に当てる。
「僕が君に贈り続けたものを全て、侯爵夫人は本来受け取るべき君に渡さず、勝手に処分していた。これは、立派な横領だよ。しかも、こないだ僕が君に贈ったくまのぬいぐるみは、サファイヤを付けていたんだ。」
石って宝石なの!
確かに母のしたことは横領だけど、そうなんだけど。
「侯爵夫人はサファイヤに気が付き、それだけをむしり取って自分の宝石箱に保管していました。どうやら後で自分のネックレスにでもする気だったようです。」
そりゃ、犯罪だわ。うち、娘あての宝石を横取りしないといけないほどお金ないのかしら?
「お母様はどうなるの?」
「とりあえず夫人の言い分を聞こうじゃないか。本音を言うと全く聞きたくないけどね。」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ヒーローの野望が着々と叶っていってる気がします・・・。




