第7話 邪心の芽生え
全身から力が抜けていく。
ユリンが立っている。俺の右手から放たれた魔術であろうものの射線上にいた彼女が無事だったのだ。その身体には傷どころか、埃のひとつすら全くついてはいなかった。
彼女が何をしたのかは分からない。しかし俺はそんなことよりも、自分が人殺しになってはいなかったことに、地獄まで覗けそうなほどに深い安堵を覚えた。
ユリンがこちらに向かって走って来る。そのまま地面にへたり込む俺のもとに寄り、視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「ナモセさん、右腕を見せてください」
俺が言われた通りに差し出すと、彼女は腕の表面を探るように撫で始めた。
「上腕骨に3箇所、二の腕に1箇所のヒビ。筋もひどく痛めたみたいだけど……これくらいなら心配ないですね」
すると俺の右腕に触れている彼女の手が光りだす。あたたかく、心地のいい光。干したての布団や毛布にくるまれているような気分。昨日一昨日の間に俺の重傷を癒した、あの光だった。
5分もするころには肘関節を違和感無く曲げられるようになるまでに回復した。
「……ど……どういう仕組みなんだ? これ……」
「う〜ん……多分、今は説明しても分からないと思います。自分で言うのもあれですけど、かなり高度な専門的魔術なので……」
「じゃあさっきのは?」
「さっきの?」
「俺のその……魔術を防いだやつ。あの透明な壁みたいなやつ」
「ああ、あれも私の術です。まぁ雑に言えば防壁みたいなものですね」
サラッと言ってはいるが、あれだけのパワーを持つ光線を丸ごと防ぎ切るって……。
「でもギリギリでした〜。術を展開するのが一瞬遅れてたら、私、死んじゃってましたよ。まぁそれは置いといて……どうですか、ナモセさん。2度目の魔術を撃った今の気分は」
「! そ、そうだ……! なんでまた急に術が出たんだ……!?」
「あなたの身体が魔術を使うということを覚え始めたんです。それこそ最初に撃った時のことを思い出すだけで、反射的に出てしまうほどに」
「んなアホな! 今回でまだ2回目だぜ!? いくらなんでも早すぎる!」
「あなたの身体に受け継がれた魔力。それが今あなたの身体にものすごいスピードで馴染んでいるんです。ましてやそれがより膨大なものとなれば、あなたの身体という器が満たされるのはあっという間。言うなれば、急激な成長期というわけです」
「せ……成長期……?」
「サザデーさんも仰っていたでしょうが、魔術というのは最初の1歩さえ越えてしまえばその先は早い。この世界では歩くことよりも先に魔術を使い始める者がザラにいます」
う〜ん……結局よく分かんねーが、まぁいっか。
俺が楽観的に考えているとユリンが立ち上がり、その顔つきが急に真剣なものになる。
「そしてあなたにとって何よりも大事なのはここからです。自分の中の魔力を極限まで抑え、自分の身体への負担を可能な限り軽減させる。これができなければ、あなたは魔術を使うたびに身体のどこかを失っていくことになります」
背筋がゾクリと音を立てる。
俺は、薬指が根本から綺麗に消えてしまった右手を見てみる。この感覚にはまだ慣れず、握り拳すらまともにつくれない。こんなのを繰り返すなんざ、生き地獄以外の何ものでもない。
「……しゃ……シャレにもならねぇ……! はやく……はよ教えてくれ! コントロールの方法をッ!」
「はい、もちろん! そのために私がいるんですから」
人生1番の大きな焦りを覚えてあたふたする俺に、ユリンはにっこり笑って答えてくれた。
それからは毎日、ひたすら同じことの繰り返し。
朝起きて、最低限の魔力負荷に耐えられるようになるための肉体作り。
昼メシを食って、山頂広場での魔術放射訓練。
日が暮れると、広場を何周もランニング。
俺が2日間療養したあの施設。そこがそのまま訓練期間中の俺とユリンの居住区となった。ここは病室以外にも台所や浴室といった人が生活するための施設が備わっており、不便を感じることはなかった。
ただし、入浴時は丸い石ころで身体を擦って垢を落とし、台所に設置されているガス台は自動点火式ではなく使う時はいちいち自分で着火しなきゃいけないなど、慣れない部分もそれなりにはある。
毎日ユリンが管理してくれているのもあり、俺の健康状態そのものも至って良好。俺の身体に、この世界の空気、水、土壌などに含まれる成分等の影響はほとんど無いらしい。要は、ここと俺のもといた世界とは、自然環境の構成物質などがほぼ同じだということだ。
そして訓練の最大の目的である、魔力の抑制。これがもう泣きたくなるほど難しかった。
感覚としては手足を使うときと同じなのだ。思いっきり力を込めてブン殴るか、軽〜くコツンとこづくか。俺の場合はこれをコツン寄りにしなければならないのだが、いかんせん要求される度合いが違いすぎる。
例えるなら、賞味期限が明日に迫ってものすごく脆くなっている生卵の黄身を、潰さないようにつまみ上げろと言われている感じ。
あるいは、4つに折り畳んだトイレットペーパーを水で濡らし、それを破らないように再び広げてみせる、というのも近いだろう。繊細だとか緻密だとか、そんなレベルはとうに超えている。冗談抜きで気が狂いそうだった。
当然何度も失敗を繰り返し、そのたびに俺の腕はズタズタになった。その都度ユリンが治癒の術をかけてはくれるが、彼女でもすぐには治しきれないほどの深傷を負ってしまうことも多々あり、俺の腕の表面は日に日に増える傷痕でどんどん埋め尽くされていく。
それでもユリンの言う成長期なだけあって、4日もするころには自分の意志で魔術を放つこと自体はできるようになり、自分の中にとてつもなく大きなパワーの源があることもなんとなく感じていた。
俺は落ちこぼれである自分を、自分の人生を変えるためにここにいる。そしてまさに今、そのための道を本格的に歩みつつある。
莫大な力と、それを徐々に我がものとしているという確かな実感。それさえあれば、訓練中の痛みすらも取るに足らない。すぐに忘れることができた。
ーーだがそれは同時に、俺の心に小さな慢心を芽生えさせた。
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