第15話 惨劇の幕開け
「おとーさん、見て見て! あったよ〜!」
快晴。空には雲のひとつも無い。そんなある日のこと。宮都の外れにそびえ立つ山の中に、とある一家がハイキングに来ていた。
「お、見つけたか! どれどれ?」
おかっぱ頭をした5歳の娘に呼ばれた父親は、急いで我が子のもとに向かう。父親が側までくると、娘は興奮気味に目の前にある木の上を指さした。
「ほら、あれ! あれでしょ?」
その先には、野球ボールほどの大きさをした薄紫色の実があった。
「おおホントだ! でっかい果物! よく見つけたな〜!」
父親は我が子の頭を撫でて褒め回し、娘はきゃっきゃと笑っている。
「早く採って食べよう! 甘くてすっごく美味しいんでしょ?」
「ああ、父さんの田舎にはあれの木がたくさん生えててね、よくおやつに食べていたもんだ」
「我慢できないよー! ね、早く!」
「よぉし、採るか! が、あそこだとちょ〜っと父さんでも届かないなぁ」
その実は、地面から3メートルほどの位置にあった。
「えぇ! どうするの〜!」
「ふっふっふ、安心したまえ。お母さんが持っている道具を使えば楽勝だ!」
「ホント!? じゃあおかーさん……あれ?」
娘は振り返ると、つい先程まで自分から見える位置にいたはずの母親を探してキョロキョロと首を動かす。
「おとーさん、おかーさんいないよ?」
「あれ、おかしいな。さっきまでお父さんと一緒にいたんだけど……」
父親もあたりを見回すが、人影ひとつ見当たらない。
「ははーん、分かったぞ。お母さんも実を探しに行ったんだよ。もしお母さんも見つけられていたら、もっといっぱい食べられるかもしれないぞ」
「そっか! じゃあ早くおかーさんのところに行こう!」
「おかーさーん、どこー?」
「おーい、お母さーん」
父と娘は枯葉が敷き詰まった地面の上を手を繋いで歩きながら、母親を呼ぶ。しかし一向に返事が無い。帰ってくるのは軽いやまびこだけである。
それどころか、鳥や虫の声も聞こえない。木や草といった植物すらも息を潜めており、あたりには生物の気配の一切が無かった。
不気味なまでの静寂が、広がっていた。
「うーん、どこまで行っちゃったんだろう」
「聞こえてないのかなぁ。おーい! おかーさーん!」
娘は父親の手を離し、1人で前に行き始めた。
「あ、待ちなさいエミィ! お前まで迷子にーー」
父親がそれを制止しようとした、その時。彼は、ふと目を向けた右側の茂みの裏から何かが覗いているのを見つけた。
「……? なんだ、ありゃ?」
不審に思った彼はそこに近づいていく。よく見てみるーー
「あれ? あのリュックは……」
そう。そこにあったのはひとつのリュックサック。その色と形から、彼はそれが自身の妻が持ってきたものであることを理解する。
「どうしたんだあいつ? こんなところに荷物をほっぽりだして……」
彼はリュックを拾おうと、茂みの裏に回り込んだ。
そこにあったのは、リュックサックだけではなかったのだ。
「……え」
妻だ。彼の妻が、娘にとっての母親が、そこにいた。
……鮮血の溜まりの中に、倒れていたのだ。
彼女の左脇腹が無い。深々と抉り取られている。いや……そうではない。喰われている。何かに乱暴に噛みちぎられたように、その傷口はズタズタだった。
「か、カレン!! カレンッ!!」
男は仰向けに倒れる妻に駆け寄り、彼女を抱き上げた。
「おい、カレン!! しっかりしろ! カレン、カレンッ!!」
その身体を揺すりながら、男は必死に彼女の名前を呼ぶ。
しかし。彼の妻の身体は弛緩しきっており、頭も力なくだらりと垂れている。目にはすでに生気が無く、呼吸の音も、心臓の音も聞こえない。
彼の妻は、軽くウェーブのかかった茶色い髪を首元で切り揃えた美しい女性だった。彼が仕事を終えた後の疲れもその笑顔を見るだけですぐに吹き飛ぶほどに、美しい女性であった。
その妻が、これまでに見たことのない顔をして死んでいる。
歪んでいるのだ。目を見開き、口を開け、額に強くしわが寄せられている。怯えた顔だ。恐れた顔だ。それも尋常ではないほどに。
ずしり。
「な、なん……で……? どうして……なにが……」
男は妻の亡骸を抱えたまま、そこに座り込んだ。
死んだ。ほんのさっきまで、娘と一緒に笑い合っていた妻が。
男は、この状況を理解していなかった。無意識のうちに口から疑問が吐き出され、頭の中には形の整っていない絶望が渦巻いている。しかし彼には、自分が絶望しているという自覚は無い。
ずしり。
理解をしていない。ゆえに、涙も出ていない。
ずしり。
分からない。ただ、身体の震えばかりが強くなる。
ずしり。
そうして底の見えぬ虚無に囚われてしまった男は、背後から迫る異質な存在に気がつかなかった。
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