迫り来る除夜の鐘
これは、大晦日を自宅で静かに過ごそうとしている、ある父親と娘の話。
今年も残り少なくなった、大晦日の晩。
その父親と娘は、
質素なアパートの一室で、仲睦まじく過ごしていた。
部屋にはテレビすら無いような侘しい佇まいだったが、
ふたりともそれを気にする様子は無かった。
その父親がこたつに入って書き物をしていると、
娘が急須と湯呑を持ってやってきた。
もうすぐ中学生になる娘は、手慣れた様子で家事をこなしている。
そんな娘の様子を見て、その父親は感謝の言葉を口にした。
「おや、お茶を入れてくれたのか。
いつもありがとう。
お前も、家事はそのくらいにして、こっちで一緒に座ろう。」
その父親が、
自分の隣のこたつ布団を捲って手招きをすると、
娘はコクリと頷いて、そこに並んで座った。
その父親はお茶を啜りながら、しみじみと話し始めた。
「今年ももう大晦日か。
今日は、お前の母さんの命日でもある。
母さんが亡くなってから、もう10年も経つんだな。
早いものだなぁ。」
そう言って顎を撫でながら、遠い目をして話を続けた。
「お前の母さんは、ある地方の村の珍しい部族の人でね。
父さんは、たまたまその村に取材に行って、
そして母さんと知り合ったんだ。
それから、
父さんは村にしばらく滞在して、
母さんと親しくなって、そしてお前が産まれて。
それから、父さんと母さんは、
お前に外の世界を見せてあげたくて、村を出ようとしたんだ。
そうしたら、村の人達に猛反対されてね。
なんでも、その村には、
神が宿る特別な人が生まれてくることがあるそうで。
父さんには詳しい事情は知らせて貰えなかったけどね。
とにかく、
母さんは神が宿る特別な人と言われていたんだ。
もしかしたら、娘のお前もそうかもしれない。
だから、村の外に出るのは許可できない、
と言われてしまって。
それでも、父さんと母さんは必死に説得した。
その甲斐あって、最後には村を出ることを許可して貰えたんだ。
でも、その代わりに、
母さんとお前に、守護の呪いをかけることになってね。
それが、村の外で暮らす条件だったんだ。
その呪いのせいで、母さんとお前には不自由させてしまって。」
話を聞いていた娘は、その父親の唇の動きをじっと見ていた。
それから、首を左右に振って見せた。
口元には微笑みを浮かべている。
娘の応えを見て、その父親も優しく微笑んだ。
そうして、
その父親と娘が一緒に笑顔になっていると、
外から鐘をつく音が聞こえ始めた。
その父親が、頭上を見上げて言う。
「おや、もう除夜の鐘の音が聞こえてきたよ。
まだちょっと早いけど、今年ももう終わりだね。」
そうして、その父親と娘は、
ふたりで寄り添って、静かに新年を迎えようとしていた。
その父親と娘は、除夜の鐘の音を聞きながら、
静かに新年を迎えようとしていた。
そのはずだった。
しかしその父親は、僅かな違和感を感じていた。
その父親は、
肩に頭を預けてくる娘を抱き寄せながら、
怪訝な顔になって周囲を見渡し、口を開いた。
「・・・妙だな。
除夜の鐘の音が、
段々と近付いて来ているように聞こえる。」
その話す父親の声が、体を振動させ、
寄りかかっている娘の頭へと伝わっていく。
そうして娘は、その父親の様子に気がついた。
娘は、その父親の顔を見上げて首を傾げている。
そうしている間にも、
除夜の鐘の音はどんどん近付いて来て、
今や、家の玄関のすぐ外から聞こえてくるようになった。
「外に何かいるのかもしれない。
ちょっと様子を見てくるから、お前はここで待っていなさい。」
その父親が、娘の両肩を掴んで言った。
娘はコクコクと頷いて返す。
娘を置いて、その父親は立ち上がった。
玄関へと向かう。
除夜の鐘の音は、すぐそこから聞こえている。
そうして、
その父親が玄関の扉の前に立つと、
除夜の鐘の音はピタリと鳴り止んだ。
打って変わっての静寂。
その父親は、
喉をごくりと鳴らして、
玄関の扉の覗き穴を覗き込んだ。
すると、
覗き穴から見た玄関の外に、
見知らぬ中年の女が立っていた。
その父親は、覗き穴から目を離して呟いた。
「誰だろう。
お客さんかな。
鐘の音を鳴らして、托鉢にでも来たんだろうか。」
托鉢とは、お坊さんが家々を尋ねて寄付を募ること。
しかし、
玄関の前に立っている中年の女は、お坊さんには見えない。
服装は洋服であるし、
音を鳴らす鈴や鐘のような物も手にしていない。
もう一度、覗き穴から確認してみる。
何度確認しても玄関の外では、
見知らぬ中年の女が、俯き加減で黙って佇んでいた。
顔はよく見えないが、知り合いではなさそうだ。
いずれにせよ、このまま放っておくわけにもいかない。
その父親は、玄関の扉の留め金を掛けたまま、
鍵を開けて扉を薄く開いた。
「・・・どちら様ですか?」
その父親は、留め金を掛けたまま、
玄関の扉の隙間から、
外に立っている中年の女に話しかけた。
つい先程まで、
除夜の鐘の音がすぐ近くから聞こえていたのに、
今は聞こえなくなっていた。
百八回全部鳴り終わったにしては短すぎるので、
除夜の鐘の音では無かったのかもしれない。
では、あの鐘の音は何だったのか。
そんな疑問が、その父親の頭の中を巡る。
それはともかく、
今は目の前の人の応対をしなければならない。
扉の隙間から、相手の様子を確認してみる。
玄関の前に立っているのは、
面識の無い、見知らぬ中年の女。
さっきまでその付近から鐘の音が鳴っていたはずだが、
中年の女は、鈴や鐘のような物は持っていない。
「どちら様ですか。」
その父親が、もう一度同じことを尋ねる。
しかし、話しかけられた中年の女は、
相変わらず俯いたままで、何も応えようとはしない。
その父親が、もう一度話しかけようとした、
その時。
中年の女が、俯いていた顔をキッと上げた。
突然の事にその父親は半歩引いた。
少し離れて様子を伺う。
中年の女は顔を上げると、頭上の空間を睨みつけた。
それから、
口を大きく開けて、
遠吠えのように叫び始めた。
獣のような遠吠えが、辺りに響き渡る。
その遠吠えの音は、
さっきまで聞こえていた、除夜の鐘の音そのものだった。
その父親が、耳を抑えて顔をしかめる。
「なんだ?
これは遠吠えか?
さっきまで聞こえていた鐘の音は、
除夜の鐘の音じゃなくて、この遠吠えだったのか。
この人は、何者なんだ?」
その父親が狼狽えていると、
やがて、中年の女は遠吠えを止めた。
それから、
ギラギラした目でこちらを睨みつけると、
玄関の扉を乱雑に掴んだ。
家の中に入ろうというのか、
玄関の扉を引いて、隙間に顔をねじ込み始めた。
その父親の顔の目近に、中年の女の顔が迫る。
その口からは、獣のように大きくて鋭い牙が姿を覗かせていた。
よく見ると、中年の女の手には、
獣のように長く鋭い爪が生えていた。
それだけではなく、その手足には、
その体格に不釣り合いなほどの筋肉が隆起している。
眼光は射抜くように鋭く、
その外見は半人半獣といった姿だった。
玄関の扉を力任せに開けようとする様子は、
正気を失って何かに取り憑かれているかのように見える。
そうして、
人間とは思えない怪力で引っ張られ続けた玄関の扉は、
やがて留め金が音を立てて千切れてしまった。
中年の女は、玄関の扉を荒々しく引き開けると、
立ちすくむその父親を突き飛ばして、家の中に入っていった。
その足は薄汚れた裸足で、玄関から家の中に汚れた足跡が続いていく。
狭い家の中に入り込んだ中年の女は、すぐに娘と出くわした。
娘の姿を見つけると、
中年の女は、また除夜の鐘の音のような遠吠えを上げた。
娘は、突然のことで腰を抜かしてしまい、逃げることが出来ない。
そうして、中年の女は何度か遠吠えを上げ続けた。
娘は逃げることも出来ず、目の前の光景に震え上がっていた。
しばらくして、中年の女は、
遠吠えが通じていないことに気がついたのか、
遠吠えを中断して、首を傾げて考え込んでしまった。
頭を右に左に傾げて、娘の顔を覗き込んでいる。
その後ろから、
その父親が中年の女にしがみついて羽交い締めにした。
必死になって怒鳴り散らす。
「あんた!
突然やってきて、何をするんだ。
娘が驚いているじゃないか。
ここから出ていってくれ!」
羽交い締めにした中年の女を、必死に連れ出そうとする。
しかし、
抵抗する中年の女の腕力は凄まじかった。
一般的に、
人は通常生活している範囲では、
体を壊さないように、その力を制限しているという。
しかし目の前にいる中年の女は、
その力の制限が外れてしまっているかのようだった。
体格からは想像もつかないような怪力で、逆にその父親をねじ伏せた。
邪魔をされた怒りからか、
その常軌を逸した怪力で、今度はその父親に襲いかかった。
床に倒れたその父親の上に馬乗りになって、首を締め上げる。
その父親は、
何とかしてそれを引き剥がそうとするが、
力の差は大きく、どうしても引き剥がすことが出来ない。
体重差を埋めて余りある怪力。
そうしてその父親は、
中年の女に首を締められて、意識が遠のいていった。
そうして、その父親の意識が遠くなって、
いよいよ意識を失おうとしていた、その時。
壊れた玄関から、また誰かが家の中に入ってきた。
その人影は、
手に持っていた大きな棒で、
馬乗りになっている中年の女の体を薙ぎ払った。
振ると鈴の音色のような音がするその棒は、錫杖のようだった。
錫杖で強かに叩かれた中年の女は、
体を吹っ飛ばされて、
床に倒れて痛そうに暴れまわった。
それを仁王立ちで見下ろす、その人物。
玄関から入ってきたその人物は、見知らぬ坊主だった。
ゴツゴツした中年の大男。
白い頭巾を被った僧兵のような姿をしていて、
手には大きな錫杖を持っていた。
僧兵は錫杖を前方にかざし、
それから空いている方の掌を立てると、
何やら呪文のようなものを唱え始めた。
ブツブツと呪文を唱え続けて、それから大声で叫んだ。
「呪いよ、その忌まわしい呪縛を消し去れ!」
僧兵がそう叫び終わると、
床に転がって狂乱していた中年の女が、
見る見る大人しくなっていった。
体を包んでいた筋肉が、その隆起を失っていく。
鋭く伸びていた牙や爪が、みるみる萎んでいく。
まもなくして、
中年の女は人の姿に戻り、
ぐったりとして動かなくなった。
それを見ていた娘は、
何かに気がついたように体を固くして、じっと目を見開いていた。
漸く息が整ったその父親が、潰れた声で尋ねる。
「助かりました・・・あなたは?」
話しかけられた僧兵は、拳に手を合わせて挨拶を返した。
「これは、お騒がせして申し訳ない。
拙僧は、この女を追ってここまで来ました。
この女は、ある地方の村の出身でして。
その村では、妖魔に憑依された人間が現れては、
こうして人を襲うことがあるのです。
妖魔に憑依された人間は、
ある種の音の組み合わせを聞くと、獣の本性に目覚めてしまうのです。
そうなると、無差別に人を襲うようになる。
さらには、
自分自身もその音を発するようになって、
仲間を目覚めさせようとするのだとか。
いやはや、大事に至らなくて、何よりです。」
僧兵はそう話している間にも、テキパキと中年の女を縛り上げていった。
そうして、縛り上げた中年の女を大きな麻袋に詰めると、
その父親と娘の方を見て言った。
「妖魔に憑依された人間は、同族を求めるのですが・・・。
よかった。
あなた達は大丈夫な様だ。
この辺りには、妖魔の同族がまだ潜んでいるという情報があります。
あなた達も気をつけて。
では、拙僧はこれで失礼する。」
そう言い残して、僧兵は家を出ていった。
後には、
滅茶苦茶になった室内、
留め金を壊された玄関の扉、
それと、腰を抜かしたその父親と娘が残された。
そうして、招かれざる客達が帰っていってから。
その父親と娘は、
玄関と家の中を片付け終わって、
なんとか落ち着きを取り戻そうとしていた。
こたつに入ってぼーっとしている娘に、
台所からその父親が声を掛けた。
「さっきは驚いたね。
でも、お前に怪我が無くてよかったよ。
もう大丈夫だから、お茶を入れ直してゆっくりしよう。
お前も飲むだろう?」
放心した娘は、その父親の顔も見ずに、黙って頷いて返した。
それからしばらく間があって、
その父親は、お茶を入れて娘の隣に腰を下ろした。
娘の前に湯呑を差し出す。
「ほら。
温かいお茶を飲めば、気分も落ち着くから。」
その父親が促すと、
娘は相変わらず放心したまま、顔を見ずに頷いて返した。
それから、湯呑を取って口をつける。
そんな娘の様子を見て、その父親も湯呑を手に取った。
そうして、
その父親と娘が、やっと落ち着きを取り戻した、
その時。
遠くから、規則正しい鐘の音が聞こえてきた。
その父親は、耳を澄ましてその音を聞いている。
「・・・鐘の音が聞こえる。
今度こそ、除夜の鐘の音みたいだね。
今年は、大晦日に大変なことがあったけど、
何とか無事でいられてよかった。
来年もこうして、ふたりで一緒に過ごしていこうね。」
その父親は、隣に座る娘にそう話しかけると、
熱々のお茶を美味しそうに啜り始めた。
だから、
すぐ隣で起こっている異変に、気がつかなかった。
その父親のすぐ隣では。
除夜の鐘の音を聞いた娘が、
身じろぎ一つせず、体を固くしていた。
それから、小さな体をぶるぶると震わせ始めた。
体中の筋肉が、体格に不釣り合いなほど隆起して盛り上がっていく。
小さな手の爪が、長く鋭く伸びていく。
小ぶりな口が裂けんばかりに開けられて、そこから鋭い牙が姿を覗かせた。
そして娘は、
顔をキッと上げて、
射抜くような眼光で頭上を睨みつけると、
除夜の鐘のような音色の遠吠えを、上げ始めたのだった。
終わり。
年末なので、除夜の鐘をテーマにしました。
除夜の鐘が煩悩以外の何かを解き放ってしまう、
同じものでも受け取り方によって違うものになる、
このふたつの要素を入れて、
ローファンタジーな内容になりました。
後半部分の、
僧兵が呪文を唱えるのと、娘の変化と、
その時系列が伝わると良いなと思います。
お読み頂きありがとうございました。