前世
魔物一匹いない静かな春の森の中。
その日、少年バテルは、朝早くに目が覚めたので、いつもとは少し場所を変えて、新鮮な空気でも吸いながら剣術の修行でもしようかと思っていた。
試しに近くの森に足を運んだのだが、面白いものを見つけた。
この不思議な石板だ。
そのエメラルドでできた石板は俺の背丈よりも大きく、木漏れ日に照らされキラキラと輝いている。
エメラルド碑の表面には見事な装飾が施され、びっしりと長い文章が細かく刻まれ、中心にはめ込まれた、五つの深紅の宝石で装飾された白金の剣がとりわけ目を引く。
(この世界の文字じゃないな)
しかし、バテルは少し特別だ。
バテルには前世の記憶というものがある。
しかも、前世の世界はこの世界とはまるで違う世界だ。
いや、記憶ではなく知識があるといったほうが、より正確かもしれない。
なぜならば、バテルは自分の前世のころの個人情報のようなものは一切、覚えていないからだ。
名前も、性別も、どこに住んでいたのかも、どんな人生を歩んできたのかもさっぱりわからない。個人情報だけが、すっぽりと抜け落ちてしまっている。
もっとも知識の偏りから、ある程度の推測をすることは可能だ。
バテルは地球という惑星の日本という島国に住んでいた。
転生といえば、きれいさっぱり過去の記憶や知識を忘却して、清らかな状態で、また一から赤ん坊から始めるものだというイメージだが、バテルの場合は生まれた時から汚れている。
大方、何かの事故ですべて消し忘れたのだろう。それとも、なんらかの大きな意思が関与しているのか。だとしたら神様にでも説明してほしいとバテルは常々思っていたが、一向に現れない。
いくら理屈をこねてもわかる話ではないが、十二歳にしてここまで屁理屈が出るのだから、前世の知識も少しは役に立つ。
個人的な思い出を失ったことも、悪い思い出を思い出して身もだえることもないし、いい思い出はまた新鮮な気持ちで味わえるという点ではラッキーだっただろうとポジティブにとらえている。
赤ん坊のころから前世の知識があったバテルは、この世界で、ゆるく楽しいスローライフでも送ろうかとのんきな気分でいたが、この世界はそんなに甘い世界ではなかった。
バテルの住む国は、エルトリア帝国という前世でいえば、古代ローマ帝国に似ている巨大な超大国で、長い繁栄を謳歌していた。
魔法という地球にはなかった技術のおかげで、地球に比べて生活レベルもそれほど低下していない。魔道具を使えば、水もたくさん使えるし、火だってすぐに起こせる。
値は張るが、エアコンや冷蔵庫なんかの代わりになる魔道具だってある。いわゆる白物家電には困らない。
魔法のおかげでむしろ地球より良いこともある。
例えば、医療だ。科学が発展していないせいか、内科的治療は貧弱で、感染症には弱いが、こと外傷となれば、神殿の神官に頼めば、彼らが、神聖魔法と呼ぶ魔法で、すぐに直してくれる。高度な神聖魔法なら、無くなった腕すら復活できるという。
もっとも娯楽の面においては、まだまだで、本を読んだり、剣や魔法の鍛錬をやる以外に楽しみは少ない。しいて言えば、食事は豊かである。
だが、住みよいこの国も、最近では経済が停滞し、異民族の侵入や魔物の増加などの外圧に悩まされている。
貴族に生まれたバテルは、恵まれてはいるが、彼の家、クラディウス家は武門の家、軍人一家で、父や兄は、常に最前線に駆り出されていてほとんどあったことがない。
つまりは、バテルだけしっぽりスローライフというわけにはいかない。
彼も成人すれば、戦場に駆り出されるだろう。
よしんば、封建的社会の足かせから解き放たれて、どこぞで隠居暮らしできたとしても、異民族や魔物に国が蹂躙されれば、それどころではない。
国破れて山河在り状態で、原始レベルの生活などバテルはごめんだった。
だから、こうして、敵と戦えるように、毎日欠かさず、剣術と魔法の稽古をしている。
少し長くなってしまったが、要するに今、目の前にあるこの不可思議な石板に書かれている文字をバテルは読むことができる。
刻まれているのは日本語だ。ほかにも、英語、中国語、スペイン語など様々な言語がつづられている。
(見るからに古いな。俺の他にも地球のことを知っている奴がいたのだろうか。わざわざこんなにたくさんの言語で書いてくれるなんて、ずいぶんと博識な奴だったんだな)
バテルは上から順番にじっくりと石板に刻まれた怪文を読んでいく。
(下なるものは上なるもののごとく、上なるものは下なるもののごとし)
題名なのか格言なのか。文章の最初にでかでかと刻まれている。
(いや、まるで意味が分からんぞ)
それに細かい文字でびっしりと書かれてあって読みにくい。
ところどころ文字が欠けていたりつぶれていて読めないのも厄介だ。
最初は意味不明だったが、読み進めていくうちに、少しわかってきた。どうやら錬金術に関して書いてあるらしい。