平和へのメッセージ
青い空に、真っ白な絵の具を溶いた筆が走ったかのように飛行機雲が現れた。それはじわりじわりとにじみ、しばらくして混ざっていった。
今年は改元の年。昭和はすでに過去となり平成も終わりを告げ、令和になった。
昭和生まれでも、戦争の知らない私以上に、平成生まれの甥姪に戦争について話そうとしても、どう説明していいのか、私自身体験していないので難しい。
その時、読む本が『きけ、わだつみの声』だったとしても私の心には戸惑いが残る。
しかし今回、平和について改めて思うのは、第二次世界大戦の前と後では全く日本は変わってしまったという事。
ところで、この鹿児島県南鹿児島市知覧町のことをどういった場所だと知っている人はいるのだろうか。この町が『特攻』の基地があったという意味を知っているのだろうか?
『特攻』という言葉は、今ではゲームで『特別攻撃』『特殊攻撃』という言葉の略語として安易に使われることが多いような気がする。けれど本来は、昭和の第二次世界大戦末期の戦時下においての『特別攻撃隊』の略で、特に知られているのが、この知覧町の特攻航空部隊である。この攻撃で若く未来のある青年たちが、飛行機に片道分だけの燃料を乗せ、大空に飛び立ち、敵軍……アメリカ軍の戦艦に突撃攻撃をしたのである。『特攻』と言うのは本当に痛ましい、悲しい、周囲は辛く、家族には胸がつぶれる思いだっただろうと言うことまで理解できる。
ただ、理解できないのが、命と引き換えに敵軍に立ち向かった若い青年たちの思い……本心である。
苦しかっただろうと思う。飛び立った後、恐怖を覚え、元の基地に引き返し、故郷に戻りたかった若者たちもきっといただろう……それが恥だと言われても……。
ただ、その日までは近くのお店で普通に食事をし、色々話をして、前日などに自分が飛び立つこと、別れを告げること……どれ程の恐怖や悲しみ、諦めを噛み締めただろうと、戦争の時代の凄まじさ、現実の体験談をもう聞くことができない、理解できない私が悔しくてならない。
知人や仲間に苦しい、怖い、嫌だとも口にできず、文字通り死への片道切符と共に、敵軍の戦艦にぶつかっていく……しかもその途中に殆どが飛行機や大砲に撃墜されたりしてまさに犬死になのだ。
私にとっては、ナチスドイツのユダヤ人迫害と同等の罪で、未来ある、前途ある若者を戦場に送り込んだ……そして最後には戦況が芳しくないと言う理由で、『人間魚雷』『特攻部隊』を生み出し前途ある若者の命は散っていった。
昭和天皇の終戦宣言に涙した人々は、戦争に負けるはずがないと悲しくて泣いたのだろうか?
もしくは私の大伯母のように、夫を戦争で失い、もう二度と会えない……と泣き崩れた人はどれだけいるのだろうか。
その上、骨壷の中身は骨ではなく、そこらで拾った石ころだったと嘆いていたことを知っている人は、この時代に何人いるのだろう。
どうして……体でなくてもいい、遺骨でいい、遺品でいい……夫や父や、息子や兄弟の縁を一つも返してくれなかったことを悲しむ人もいるはずである。
ただ、私が思うのは、戦争はもう二度と起こしてはならない。空を飛ぶ特攻隊の飛行機や、人間魚雷というものはもういらない。
令和とその前の平成という年号の祈りの通り、平和は勝手に生まれない。
個人個人が少しでいい、平和になることを祈ること。その為にできることを考えること。
関係ないようでも、ボランティア活動で缶のプルタブやペットボトルのキャップを集めるだけで、平和に一歩近づく。
それに平和は、この国だけでは駄目なのだ。
戦争は世界各地で起こる。テロも戦争の一つだ。それを……悲劇を未然に防ぐ、もしくは平和的に話し合いをすることだけでも、紛争を収めるだけでもなく、健康でそれぞれが笑顔で暮らせる世界を求めることだと私は思う。
陽炎の彼方面に笑む君が
遺し想ひ出子らに伝えむ
飛び立ちし飛行機雲の向かふには
君を想ひて一人隠れ泣く
彼方面……向こう側