(8)分裂の序曲
分裂の序曲
1
ホル城は解放された。
城主ザツオ・ホルベインは幽閉の身となった。王女は銀の魔法のためにザツオが操られ、数々の非道な振る舞いをしたことを理解していた。だが、城主たるものの責任ゆえに罪は免れない。ホルの市民にとって彼は殺人鬼にほかならなかった。おそらくザツオは死刑となるだろう。
今、ホルの城、聖牛の塔の大広間には反乱軍の主だったメンバーとラングーン城の遠征軍のメンバーが一同に会していた。ささやかな宴が催されているのである。
すでに南国の太陽も落ち、夜も更けていたが、広間は明かりに満たされ、人々は盃を重ねていた。
しかし、そこには王女イア姫とラングーン城主ソルの姿がなかった。
二人は魔女クラインの巣となっていた奥の間にいた。
イアはくつろいだ装いだった。ホル風の赤いドレス。裸足で巨大なベッドに腰掛け、牙犬タロスの毛繕いをしている。
ソルはまだ兵装を解いていない。イアを見つめながらベッドの脇に立っていた。
二人には共通したところがあった。無表情で何かを待っている気配だ。
その何かがやってきた。
「到着したようです」
物見の間へ通ずる回廊の扉の前で黒の魔法使いシュライムが言った。
イアとソルは同時にハッとした表情を示した。
イアはベッドから降り、不吉なものを見るように扉を見た。
まもなく扉が開き、ルギに案内されて、伝令の海鷹兵士が一人部屋へ入って来た。
シュライムがイアに向かって言う。
「この者はヤソジの町に潜入している黒の魔法使いでカブルと申します。ヤソジの町に届いた王宮からの情報をお伝えしますが、緊急の場合ですので略礼式とさせていただきます」
イアがいらだちをみせまいとする無表情さで言った。
「許します。さあ、早く言ってください。リンシードの王宮で何が起こったの」
カブルは若い魔法使いで、感情制御に懸命だった。しかし、その声はかすかに震えていた。
「今朝未明、リンシード王宮で戦闘がありました。シニャック大公軍とリンシード王宮警備隊による衝突です。シニャック大公は王宮とリンシードの町の重要拠点を占拠しました。王宮警備隊はほぼ壊滅し、残されたものは捕らえられました。ただし何人かの貴族たちは脱出に成功した模様です。この戦闘の結果、王帝陛下は亡くなられました。シニャック大公は」
「何ですって!」
イアが叫んだ。
「この戦闘の結果、王帝陛下は亡くなられました。シニャック大公は明日、リンシード十二世を名乗り、王位宣言を行うと発表しました」
カブルは忠実にリフレインを行い、メッセージを中断した。
イアは右手でベッドの縁をたたいていた。
その目からは大粒の涙がこぼれおちる。
唇からはうめきがもれていた。
ソルはイアをチラリと見てから、カブルに尋ねた。
「本当に兄上が王帝陛下を弑逆したのか」
カブルは答えた。
「この情報は王宮の魔法院からの連絡とラングーンの黒の魔法使いたちの報告を総括的に分析判断したものです。誤報の疑いはありません」
「しかし、第一王位継承者のイアは、王女殿下はここにご無事なのだぞ」
「変事はその報告が届く前に行われました。そのためにシニャック大公の王位継承は王院ならびに魔法院によって支持されました。さらにこれはまだ未確認ですがシニャック大公はソル様の暗殺指示を魔法院に発令された模様です」
「何だと」
今度はソルが叫んだ。
「シニャック大公はソル様の暗殺指示を魔法院に発令された模様です。繰り返しますがこれは未確認です」
カブルはまたも丁寧にリフレインした。
「理由は何だ」
「王室反逆罪です。二日前、ソル様配下の黒の魔法使いがシニャック大公の酒に毒を盛り、逮捕されたということです。犯人は犯行を自供しました。シニャック大公の軍事行動はこの事件を引き金として起こったとも考えられます」
「馬鹿な」
ソルは蒼白になってシュライムを見た。
「ラングーンの黒の魔法使いの長としてそのような指示は一切出しておりません。何者かによる陰謀と判断します。このような策謀を許し申し訳ありません」
シュライムはよどみなく答えた。
「つまり、私の手の者を装った誰かに命を狙われた兄上が、それを王帝陛下の指示によるものと見なし、革命に踏み切ったということか」
「おそらく」
シュライムは短く答え、カブルを見る。カブルは報告を再開した。
「これは確認された情報ですが何故かアライソ軍が西に進み、シニャック城に迫っている模様です。なお、昨夜、王宮内におられたメモール・アライソ当主殿下は生死不明です。ただしリンシードより東に向かうアライソ兵の一団が目撃されていますので、メモール殿下は王宮からの脱出に成功したものと推測されています。以上、報告を終わります」
カブルは言い終えるとわずかにに肩で息をした。
室内に沈黙が蘇った。
イアのもらす嗚咽を堪える息遣いだけが室内の人々の耳に入る。
シュライムが言った。
「ソル様、私はこれより別室でラダルト殿を交えて報告の詳細を検討したいと考えます」 ソルはイア姫の気配を窺い、一瞬の間をとってシュライムに頷いた。
その時、王女が顔をベッドに伏せたままで言った。
「しばらく、ほんの数タクでいい。私を一人にしてください。いえ、タロスはこのままで」 ソルは一瞬迷った様子を見せてから答えた。
「御意のままに」
ソルと黒の魔法使いたちは大広間へと扉を開き、退出した。
王女はしばらく動かずにいた。
牙犬タロスは心配そうな顔で王女に身を寄せる。
王女は目をつぶり歯を食いしばった表情で牙犬の首を抱いた。
2
すでに深夜といえる時刻になっていた。
「情勢はすこぶる険悪です」
会議室となった城主接見室に集まった一同はシュライムの声に応じて彼を見た。
会議にはラングーン城から城主ソル、バロイカ騎士長、黒の魔法使いシュライム。
ホル反乱軍からマルドーク元家老大臣、ドレーク司令官、農民代表ビール、そして市民代表セーラーが出席していた。
王女は城主の席に着座し、無表情な顔をしていた。
「セラ海街道を南下しているリンシード正規軍にホルの占領命令が出されました。この軍団は牙犬部隊を中心に約三万人の構成員を持っています。正式な命令通知があるのは二日後になると思われますが、現在、ドリの町郊外に駐屯しているこの部隊は遅くとも五日後にはホルに殺到してきます」
「しかし、こちらにはイア姫様が」
口をはさんだのはバロイカだった。
「大公はオルトスタ王帝陛下を殺害されているのです。王女の無事は大公にとって良い知らせとはなりません」
「するとイア姫様のお命までを狙うってのか」
バロイカの乱暴な発言に一同は押し黙った。いつもならバロイカの失言を叱り付ける役目のラダンテはラングーン城に留守将軍になっているため、この場にいないのだ。
ビールがバロイカに自分と同じ匂いを嗅ぎ付けたように笑みを浮かべながら沈黙を破った。
「正規軍が来るとどうなるのかね」
「抵抗がなければ王女殿下とソル様は身柄を拘束されるでしょう。そしてお二人はまず死刑ということになりましょう」
「死刑!」
バロイカとビールが同時に叫んだ。二人はお互いを思わず見た。
シュライムは話を再開した。
「もちろん、ここにはラングーンの戦船アリオリオ号が入港していますので、その場合はお二人には海路で脱出してもらいます。ラングーン城まで戻れれば多少の時間は稼げるでしょう」
「だけど、大公殿下だって馬鹿じゃない。ラングーン城もその頃には囲まれてるだろう。リンシード王宮軍にはラングーンの十倍の海戦部隊だってあるし」
バロイカがまたもや無鉄砲な発言をした。今度はその言葉をシュライムが引き取った。「つまり、情勢はすこぶる険悪なのです」
「市街戦になれば、五分の戦いはできると思いますが」
発言したのはホル反乱軍のドレーク司令官だった。
「その、王女様を守るために戦うということですが」
ドレークは言葉を切ってマルドークを見た。
ホルの老臣マルドークは決意を秘めた眼差しを王女に向けた。
「思いがけない知らせに動転しておりますが、王女殿下のホルに施してくださったご恩には報いる覚悟です。ホルの人々は王女様のためには命を捧げましょう」
それはホルの代表者として明らかに王女との同盟を宣言する発言だった。
それまで無言だった王女が口を開いた。
「マルドーク殿。その言葉ありがたくお受けします。しかし、王宮のお家騒動に市民の皆さんを巻き込むわけにはいきません。私は正規軍に投降することにします」
王女の発言に一同はハッと顔を見合わせた。
ソルの顔に緊張が走る。
王女の言葉の終わりを確認する充分な間の礼をとってシュライムが言った。
「おそれながら王女殿下。ことは簡単には参りません。すでに王女殿下が反乱軍側として調停を申し出られたことは正規軍の知るところとなっています。ソル様には失礼ながら兄上の大公殿下の性格から、ホルに対してはかなりの弾圧が加えられることになろうかと」 王女が顔を赤らめた。
「それではシュライム。いえ、シュライム殿。私にどうしろと言うの」
シュライムは視線をソルに送った。
ソルは右手をあげ城主の指輪を見せる臣下の礼をとる。
「ラングーン城主として王女殿下に申します。まず兄、シニャック大公の無道の振る舞いを深くおわびします。当然のことながら、ラングーン家は大公の王位継承を認めるつもりはありません。よって王女殿下に王位継承を宣言され、空位を埋めることを求めます」
王女の顔に一瞬、苦悩の影がよぎった。
「私に王位を継げというのね」
「王女殿下は第一王位継承権をお持ちです。王女殿下の存在を確認すればリンシード王宮の王院や魔法院に必ずや同調者が現れるでしょう」
「それでは内乱になります」
「すでに内乱なのです。それに兄上が王女殿下による、その、つまり王帝夫人としてイア様の補佐なしにどんな政治をとるかご想像ください」
王女はソルを見つめた。そしてあきらめたように言った。
「そうね、それは確かにひどいものになるでしょうね。あの方は天性の独裁者気質ですものね。それで勝ち目はあるのかしら。私は父の仇をうてるの?」
ソルは右手を降ろし、シュライムを見た。
シュライムは充分な間をとり王女の問いに答えた。
「まず、当面の敵を撃破しなければなりません。ホル鎮圧軍の三万人部隊です。ここにはラングーンの城兵が牙犬部隊を中心に五百人しかおりません。しかし先程、マルドーク殿がおっしゃられたようにホル反乱軍の協力が得られれば、ここに一万五千の軍勢が加わります。ホル城で防衛するには充分と考えます」
「それでは駄目よ」
王女が口をはさんだ。
「それではラングーン城が落ちてしまいます。ホル鎮圧軍を突破し、陸路でセラ海街道を北上し、義勇軍を募りながら、ラングーン城軍と合流しなければ戦略的に敗北するわ」
シュライムは王女の反論にたじろぐ様子もなかった。
「ホル鎮圧軍を迎え撃って戦術的に破ることは不可能ではないと考えます。鎮圧軍にはホル攻略の性格上から魔法使いがおりません。また王女殿下の存在が明らかになれば寝返る将兵がありましょう。もちろん苦戦は必至ですが」
そこで再び反乱軍司令官ドレークが口を開いた。
「一万五千とはいえ、正規兵としての訓練を受けたものは三分の一、つまり五千人ほどです。しかし、王女が王位を継承され、逆臣を討つとなれば、先程マルドーク様が申し上げた通り全軍全力を尽くすことをお約束します」
ビールが割り込むように言った。
「いいや。一万五千どころじゃないね。三十万人のホル市民は全部王女にお味方するだよ」 王女はビールを見て微笑んだ。しかし、瞳にはまだ迷いがあった。
「王女殿下」
シュライムが呼びかけてしばらく間をとり、背後を振り返った。別室から黒の魔法使いルギが現れた。ルギはケースを持っていた。シュライムはケースを受け取ると中身を王女に示した。
「我が軍は現在、ひどい劣勢ですが、ひょっとしたらこの品が戦術的に役立つのではないかと思います」
「それは」
ケースの中身を確認して王女がやや高ぶった声で言った。
「アレキサンドライト・ソード!」
3
すでにオルトスタ二六年はタルオルトスタ元年になっている。
それは同時にイアオルトスタ元年でもあった。
その砂馬の月、第三の白の日。
セラ海街道は夕暮れを迎えている。
新王帝タルオルトスタ・シニャック・リンシードの命を受け、ホル鎮圧軍は南下していた。
ホル鎮圧軍の総司令官はヤソジ城主カーズ・ヤソジ・リンシード、先鋒はアユー将軍率いる王宮第三牙犬部隊の五千人。その後にクキ城軍五千、ドリ城軍一万、マーオー城軍五千、そしてヤソジ城軍五千の総勢三万人の大部隊である。
ホルからセラ海街道を三十タヤハほど北上した場所に街道を挟んで小高い二つの丘がある。ホルまでは半日の距離だった。
総司令官カーズは凡庸な青年貴族だった。そのため、先鋒のアユー将軍が実質的な作戦指導を行っている。アユー将軍は髭に白いものが交じり出したとはいえ、自ら牙犬を駆る歴戦の猛将であり、がっしりした体格に似合わぬ、緻密な頭脳ももっているという評判がある。
「あの丘に伏兵がありそうだな」
アユーは暮れかかる街道の先を見据えて副官のギラサーキフに言った。
「しかし、そろそろ野営をしなければなりませんが」
ギラサーキフは行軍のスケジュールについてアユーの判断を仰ぐ。
「わかっている。だが、どうも昨日から嫌な気分になるのだ」
「といいますと」
「我が軍は監視されているような気がする」
「ホルの反乱軍にそのような作戦能力があるでしょうか」
そこでアユーは声を低めた。
「ギラサーキフよ。情報によると、ホルにラングーンの城兵が合流しているらしい」
「ソル様、いえ、謀反人ソル殿下の軍がですか」
「謀反人か。俺にはどうもソル殿下が謀反などするようには思えぬ」
「アユー閣下、そのような言葉がタル大公、いえ、新王帝陛下の耳に入ったら大変です」「ふん。お前が讒言しなければ大丈夫だろう。なにしろ、この鎮圧軍は出発の時には亡きオルトスタ十一世陛下の命を受けたのだ。兵士たちの忠誠は前王帝に捧げられている」
「しかし、現在はタルオルトスタの王帝位を王院も魔法院も承認している模様ですし」
アユーはアユーの身を案じて反論する副官ギラサーキフを振り返り、真顔で言った。
「それにな。ホルにはイア姫様がおわすのだぞ」
「確かに王女殿下からの通信は届きましたが、敵の謀略かもしれません」
「もし、謀略だとするとホルには王女の印を模造するほどの知恵者がいることになるだろう」
ギラサーキフはそこで言葉につまった。
アユー将軍は再び前方を見て言う。
「だから気になるのだ。あの丘がな。とりあえず、これ以上、丘に接近して夜になるのはまずい。全軍に停止命令を出せ。ここに陣を築く。明朝出発すれば、昼までにはホルに着く距離だ」
「仰せのままに」
ギラサーキフは命令に対しては一切の反論をせず、ただちに連絡将校を呼び出した。
全軍に停止命令が伝わって行く。
牙犬部隊は前衛を警戒に残し、野営地構築に取り掛かった。
「おやおや、停まっちまったぜ」
街道の右側に位置する丘の頂上でラズの木の陰からバロイカが叫んだ。
「予定ではこの丘を越えてから野営するはずだったのにな。どうするシュライム」
バロイカのかたわらに立つシュライムは落ち着いた声で答える。
「なかなかどうして、さすがはアユー将軍だということでしょう」
「おいおい、アユーを褒めてる場合じゃないだろう」
「バロイカ殿、すぐに作戦を変更します。どちらにしろ我が軍主力はまだ後方ですし、ソル様も到着していませんからね」
「ソル様か。なあ、あの宝剣、アレキサンドライトソードだっけか、あれは本当に復活するのか」
「さあ、とにかく、女王陛下があの剣について、私たち下級の魔法使いには伺い知れぬ知識をお持ちなのは確かなようですから。そこに期待するしかありませんね」
シュライムは答えながら《静かな声》で伝令役の黒の魔法使いに指示を出したようだった。
丘の側面にはラングーンの牙犬部隊五百人が息を潜めていた。
牙犬たちはうめき声ひとつ出さず、待機の姿勢をとっている。
「とにかく、我々の使命は後方撹乱です。敵が前にいるからには夜の間に後方に移動するしかありません」
「ちぇっ、簡単に言ってくれるぜ。俺たちゃ、黒の魔法使いほど静かに動けないぞ」
「ルギたちに陽動作戦をさせますから、なんとかしてください。バロイカ騎士長」
「はい、はい、分かりましたよ。軍師殿」
「さあ、まもなく日没です」
「長い夜になりそうだなあ」
バロイカはそう言いながら、眼下の敵部隊に視線を戻した。
バロイカの見る限り、敵の士気はそれほど高くはなさそうだった。斥候が出る様子もなく、杭が打たれ、テントが張られ、どちらかといえばのんびりと野営の準備が進められている。
「まあ、アユーのじいさんは抜け目がなさそうだが、兵士たちは気合不足だな」
「市民中心の反乱軍を相手にするつもりですから、油断しているのでしょう」
「寝た子をおこさないようにしなくちゃな」
「御意」
バロイカはすでに移動のためのルートを模索しているようだった。
ソルは聖牛の塔の一室で差し込む西日に顔をしかめながら目覚めた。
「ソル。起きましたね」
ソルの横たわるベッドの脇から女王イアオルトスタの声がした。
「イア姫」
ソルはまだ眠そうな声でつぶやいた。
「気分はどうです」
ソルは自分の体の感覚を確かめる間を取ってから、いくらかはっきりとした声で答えた。「特に、・・・少し頭痛がするかな」
「神経が興奮して、血の脈が膨らんでいるのです。しばらくすれば治まるでしょう」
「すると紫の魔法の処置は終わったのですか」
ソルは身をゆっくり起こしながらイアを見た。
「ええ、あなたに送った私の血の力が、あなたの封印を解いたはずです」
「特に何かが変わったような気はしないけれど」
「そんなものです。効果は紫の器に接すれば分かります。もう時間がありません。さあ、紫の器、即ちアレキサンドライトソードを手に取ってみてください」
女王は自ら宝剣を抜き、ソルに向かって差し出した。
ソルはゆっくりとした動作でアレキサンドライトソードを受け取った。
王女の手から剣が離れた時、ソルの心の中で何かが弾けた。ソルはうわごとのような口調で声をあげた。
「分かる。分かります。この石が語りかけてくるみたいだ」
ソルは宝剣の柄にはめこめられた緑色に輝く石を示した。
「そうですか。伝承によれば霊石アレキサンドライトは生きてるっていいますからね」
ソルは石を見つめていた。
「力が。力が残り少ない。もうほとんどのエナジーを使い果たしている。石はそう言ってる」
女王の顔に不安が宿った。
「しかし、一度くらいなら使用可能だと言っています」
女王は頷いた。
「一度使えれば充分でしょう」
そこでソルの顔色が変わった。王女がそれに気付いた。
「どうしたのソル?」
ソルはあきれたような顔で言った。
「女王陛下、お目にかかれて光栄ですと・・・この石が言った」
「まあ」
二人は以前より輝きを増したように思える緑色の石を見つめた。
構築された陣地は街道の海側にそった細長い形になっていた。
「数を、頼みの、無防備な、布陣」
陣地の外縁部にほど近いクルルーの木の茂みに身を潜めた黒の魔法使いルギは敵の配置をそのように見て取った。
「さもありなん、三万の、軍勢だものな。しかし、うかつな、ことを、する」
ルギは次第に深まる夜の闇に紛れて、敵陣から離れる。
やがてルギは二十名ほどの黒の魔法使いの一団と合流した。ウクリルの町の部下もいれば、ドリやヤソジに潜入していた者たちの中からの応援部隊もいる。
《静かな声》が音もなく飛び交う。
「バロイカ牙犬部隊の移動のために東に火の手をあげる」
「手筈は完了」
「少女部隊の包囲もすでにすんだ」
「ソル様はすでに出発された」
「聖牛部隊の用意は整った」
「女王陛下の守備隊も移動を開始している」
「ホル市民軍主力は西の丘の手前に待機した」
「では」
「成功を、祈る」
黒の魔法使いたちは八方に散って行った。
その夜は雲が無かった。満天の星空である。
それにもかかわらず突然、雨音に似た音が鳴り響いた。同時に人と牙犬の叫びが地に満ちる。
鎮圧軍先方部隊の陣地に千を越える矢の群れが降り注いだのだ。
「敵襲だ」
休息に入ったばかりの兵士たちはあわてて自分の装備を求め、陣地に混乱が巻き起こった。
矢を受け、呻き声をあげる仲間に駆け寄ろうとした兵士たちは再び風を切る音を耳にした。
頭上から、今度は火矢の雨が殺到してくる。
火はたちまちいくつかのテントに燃え移った。
「将軍、敵襲です」
アユーのテントにギラサーキフが駆け寄った。
将軍はすでに装備を整え、牙犬を従えて姿を見せた。
「わかりきったことを申すな。矢はどちらから飛来したのだ」
「前方です。南の方角から。例の丘からです。それから東の方角には火の手があがっています」
「あわてるな。斥候を出せ。兵士たちには盾を取らせろ。負傷者にはしばらく構うな」
「は、ただ今」
その時、将軍は手でギラサーキフの行動を止めた。
「待て、何か聞こえんか」
「はあ」
耳をすましたギラサーキフは陣地の混乱の中に交じる不思議な声に気がついた。
それは女の声だった。
どこからともなく、それは風に乗って漂うように聞こえて来た。
「吾はイア・リンシードなり」
「リンシード王帝に弓引く者は誰か」
「吾はイア・リンシードなり」
「吾に逆らうものは誰か」
「吾はイア・リンーシード。牙犬の瞳の姫」
「吾はイア・リンシードなり」
彼方に見える敵陣の火の手を見ながらマルドークの姪、ホルの少女エレナは決められたセリフを黒の魔法の器に向かって叫んでいた。すると不思議なことにエレナの声は何倍にも増幅され、地を鳴らすように響くのである。
彼女の指揮により、一千人を越える少女たちが敵陣を取り巻いて一斉に叫んでいた。
やがて合図の火柱が丘の上に立った。
エレナは持ち場を離れる前に夜の闇に向かいもう一度叫んだ。
「吾こそはイア・リンシードなり」
女の声が反響を残して消えた。
陣地にいる兵士たちの顔に不安の色が浮かんでいる。
ギラサーキフは将軍の指示を求めた。
しかし、将軍は無言だった。その視線は前方の丘に向けられていた。
「将軍」
「待て、次の攻撃が始まるぞ。兵を南に展開させろ」
その命令の終わらぬうちに南の方角から振動が伝わって来た。
「何だ」
そのわずか数タク前、東の丘の麓にはホルの男たちが集っていた。
ビールは松明を片手に中央に立っていた。その横には巨大な獣がいる。
「そりゃ、いくぞ。お前たち。ちっと痛い目にあうが、こらえてくれ。ちいっと熱いでな」 ビールは獣の耳元で囁いていた。それから周囲の男たちに言う。
「みんな、巻き込まれるな」
男たちは一千人はいるだろうか。それぞれが松明を持ち、一頭づつ、巨大な体の獣を連れていた。巨大な獣・・・聖牛のしっぽにはクルルーの枯れ枝が縛り付けられている。その枝には油がぬられていたらしい。男たちが松明をかざすとパッと火が移った。
「そりゃ、逃げろ」
ビールとともに男たちが丘をかけあがる。
ロープにより結び合わされた聖牛の群れは頭を敵陣に向けている。
そのしっぽに火が燃え移った。
「モー」と叫んだ一千頭の聖牛たちは熱さから逃れようと丘の間を走り始めた。ホル鎮圧軍の陣地に着くころには怒涛のごとき疾走となっている。
聖牛の駆け抜けた後には大混乱と死体と負傷者の山が築かれた。
辛うじて難を避けたアユー将軍もさすがに冷静さを失ったようだった。
「兵をまとめろ。丘を占拠するぞ。俺に続け」
牙犬に乗ったアユーは先頭をきって丘を目指す。
牙犬部隊の兵士たちはあわてて後を追う。
「アユー将軍」
副官ギラサーキフが背後から声をかける。
アユーはふりむかずに叫ぶ。
「何人ついてくる」
「一千から二千の間です」
「くそ、半分やられたか。ホルの反乱軍どもめ、目にもの見せてくれるわ」
不意打ちに半減したとはいえ、さすがはリンシード王宮の精鋭牙犬部隊である。アユー将軍を追いながら、たちまち隊列を整え、丘の麓に着くまでには戦闘態勢を整えていた。 そこへ再び矢の雨が襲う。
しかし、今度は兵士たちにも用意があった。なんなく盾で矢を交わす。
「二手に分かれろ。一隊は俺と東の丘。一隊はギラサーキフとともに西の丘だ。行け。敵は少勢と見たぞ」
牙犬部隊は丘への攻撃を開始した。
西の丘はもぬけのからだった。ビールたちはすでに丘を降り、撤退している。
東の丘にはドレーク率いる五千人の兵士が潜んでいた。
ホル軍の中では訓練を受けた城兵を中心にした部隊である。ほぼホルの主力部隊と言えた。一方、東の丘にとりついたアユー率いる牙犬部隊は一千に満たない。
しかし、牙犬武者対歩兵ということで戦力的にはほぼ互角だった。
樹木の間から迫り来る牙犬隊の姿を確認したドレークは決死の面持ちで剣を抜いた。
「できる限りの抵抗でいい。無理はするな」
叫んだ時にはすでに衝突が開始されていた。
鎮圧軍の陣地では残りの部隊が態勢を立て直しつつあった。先方の牙犬部隊が丘へ突入したと知り、指揮官たちは歩兵をまとめながら、丘への移動を始める。大軍はゆっくりと南に向かって動き出した。
夜の闇の中で鎮圧軍総司令官カーズ・ヤソジ・リンシードの陣は後方に孤立しつつあった。
「敵だ」
その本陣の背後から叫び声があがった。
街道をはるかに迂回して現れたのはバロイカ騎士長率いるラングーン牙犬部隊だった。
バロイカは先頭になって剣をふるい、牙犬部隊は錐のように防御陣に突入する。
カーズは叫んだ。
「後方の警戒隊は何をしていた」
カーズの言う後方の警戒隊の兵士たちが黒の魔法使いたちにより音もなく排除されたことは彼の想像の範囲になかった。
鎮圧軍本隊五千人はほとんど無傷だったが、突入する五百の牙犬のスピードが数を圧倒した。
カーズが鎧を装着し終わる前に彼は敵の牙犬部隊の剣と槍に囲まれていた。
直営の警護兵たちはすでに倒されるか、降伏していた。
真っ青になって剣を抜いたカーズの前に二頭の牙犬が立ち塞がった。
その牙犬の鞍上に乗る者の姿を見たカーズの口が大きく開いた。しかし、言葉は出て来ない。
一頭の牙犬から男の声がした。
「我はラングーン城主、ソル・シニャック・リンシードなり。イアオルトスタ女王の将軍を命じられている」
カーズはしかし、もう一人の牙犬武者の方から目が離せない。
銀色の鎧兜を着た牙犬武者は剣も持たず、カーズを見下ろしていた。
その武者が名乗りをあげた。
「吾はイア・リンシード。オルトスタ十一世王の第一王位継承者にして、その遺志を継ぐ者なり。よってイアオルトスタ・リンシード王を宣言した。カーズ、久しぶりね」
カーズはようやく口を開いた。
「本当にイア姫ですか」
「この顔をお忘れですか」
カーズは首を振った。
「信じられぬ。見れば貴軍は少数。私をたばかって劣勢を崩すつもりだろう。その手には乗らぬ。私を殺すがいい。だが、お前たちは逃れられぬぞ」
カーズは精一杯の気力を振り絞って見栄を張った。
牙犬武者姿のイアは微笑んだ。
周囲の牙犬部隊のかざす松明の炎の中でその顔は伝説の乙女アーミーと呼ばれるに相応しい美しさだった。
「カーズよ。吾はリンシード王宮の後継者として無益な殺生をしたくないだけなのだ。お疑いあるなら、その証拠をお見せしよう。ソル将軍、やりなさい」
イアは視線をソルに向けた。
つられてカーズもソルを見る。
ソルは背中に吊ったアレキサンドライトソードを抜きはなった。
柄にはめこめられた霊石が怪しい緑色の光を放つ。
「カーズよ。お前もリンシードの一族なれば聞いたことがあるだろう」
ソルはカーズを見つめて言った。
「これこそが紫の魔法の器、アレキサンドライトソードなるぞ」
重々しく言いながらソルの心は実は不安に満ちていた。アレキサンドライトソードがいかなる威力を持つものか、実際には知らないからだ。
しかし、ソルがそんな考えを持った途端、霊石が語りかけてきた。
(近距離じゃ駄目ですよ)
ソルは心の中で頷いた。そして剣を構え、剣先で西の丘を指し示した。
「見ろ。これがアレキサンドライトソードの威力だ」
ソルは緑色の霊石がウインクするように瞬くのを感じた。
剣先から目も眩む緑がかった電光が迸った。
光は一直線に進み、一タンも過ぎぬうちに小高い丘を跡形もなく吹き飛ばした。
火のついた丘の破片が花火のように飛び散る。
戦場のすべての人間が凍りついた。
アレキサンドライトソードを握るソルさえもがその威力に絶句していたのだ。
最初に我を取り戻したのはイアだった。
彼女は震えを隠すために声を張り上げた。
「カーズ、吾の軍門に下れ。すみやかに降伏せよ」
カーズは振り向き、王女を見るとヘタッとその場に崩れ落ちた。そして細い声でいう。「女王陛下のお心のままに」
ほんのわずかの乱戦の間にホルのドレークは無数の手傷を負っていた。
周囲の兵たちは次々に倒れ、さらに西の丘から敵の新手の牙犬部隊が接近していることも分かった。牙犬武者はホルの兵士たちを簡単に倒して行く。その上、数が加われば勝敗の行方は明らかだった。
「これまでか」
ドレークが全員退却の合図を出そうとした刹那、轟音とともに西の丘の方角に火の手があがった。次の瞬間、熱風が吹き付ける。
敵も味方も我を忘れ、西の丘の方角を見た。
西の丘は消えていた。
両軍の兵士たちはつかのま戦闘の手を休めた。
両者が再び戦闘を再開しようとする前に伝令の声が届いた。
「戦闘中止。鎮圧軍総司令官は降伏した。全軍、戦闘を中止して指示を待て」
ドレークは額から流れ落ちる血を拭って思わずつぶやいた。
「勝った」
4
ホル鎮圧軍の野営地はイアオルトスタ女王軍の野戦病院に変貌していた。
戦死者は両軍あわせて一千人に近い、負傷者はほぼその十倍だった。
ホル鎮圧軍は将兵ともにイアオルトスタへの忠誠を誓い、女王軍へ編入された。
このことによりラングーン城までの各城都市はイアオルトスタの支配下に入った。
黒の魔法使いシュライムの情報分析によればこの戦闘の結果、タルオルトスタの軍はラングーンの包囲を解き、トリタ城まで後退することをを余儀なくされたはずだった。アライソ軍がシニャック城を牽制しているためにしばらくの間、タルオルトスタはリンシード王宮とシニャック城を結ぶ防衛戦を維持するので手一杯となったのだ。
しかし、事実上、リンシード王国は分裂したことになる。
夜明前、イアは戦場の仮説テントのベッドに身を横たえた。
ラングーンの予備部隊が警護にあたっている。
周囲ではホル市民のボランティアによる負傷者の看護が続けられている。
イアの心に負傷者たちの苦しみの気配がのしかかっていた。
そしてその苦しみを生み出したのがイア本人であることが彼女を二重に苦しめている。 しかし、すでに数日を眠らずに過ごしたイアはやがて眠りに誘いこまれていった。
夢の中でイアはリンシード王宮の王女の間に立っていた。
彼女は紫の喪服を身につけている。
その瞳は怒りに燃えていた。
イアの正面にある大きな鏡が銀色に輝いて歪んだ。それは水銀のように流動した。
歪みが静まると銀の仮面をつけた男が鏡の中に立っていた。
「待っていたわよ」
イアの呼びかけに銀の仮面の男は気取った仕草で礼をした。
「これは王女殿下、いや女王陛下でしたか。お待たせして申し訳ありません。お怒りになられましたか」
銀の仮面の男は神妙な口調で言った。
イアの顔にさらなる怒りが浮かんだ。
「あなたがカレーブーね」
「まさしく」
「あなたのたくらみは見事に成功したようね。父上は殺され、王国は分裂し、私は私の民の命を奪うことになった」
イアは鋭い声でカレーブーを追及する。
銀の仮面は笑いの表情を示すものだったが、仮面の奥で男は含み笑いをしたようだった。「いやいや、大失敗ですよ。女王陛下を取り逃がしましたからね」
イアは怒りのために声を失った。
「それにくらべ女王陛下は得るものが大きかったでしょう。まず意にそまぬ結婚を避けられた。あなたの婚約者は親の仇ですからねえ。こりゃ破談だ」
イアは不意に怒りをそらされた。
カレーブーはイアの急所をついたのだ。
イアは相手に対する態度を改める必要を感じた。
「あなたには道徳的な怒りをぶつけても無駄のようね」
「さすがは女王陛下、慧眼ですな。真理を求めるものに無用なものが何かをご存じとみえる。究極の魔法、紫の秘法を求める者にありきたりのモラルはありません」
「つまりあなたはあきらめていないのですね」
「さよう。かならずや女王陛下を手にいれますぞ。その神秘の血をね」
イアの顔に笑みが浮かんだ。
「私にあなたの正体が分からぬと思っているのですね」
カレーブーが仮面の下でわずかな反応を見せた。
「ほほう。女王陛下は逆流している。銀の魔法の夢を逆上るとは」
「あなたは二重人格者だわ。仮面の上では真理の探求者となり、仮面の下では現世権力の亡者となる。あなたは」
「ふうむ。女王陛下。ここは逃げ出すことにしますぞ。まったく陛下は侮れん。それでは再会を約して」
「お待ち。たとえ、あなたが何者だろうと私はけして許しません。この夢を忘れぬことを私は誓うでしょう。リンシード王の名において」
イアは鏡に指を突き付けた。
カレーブーは笑い、鏡は再び銀色に輝いた。やがて光は消え、闇の中でイアの意識も消え去った。