(7)魔女の罠
魔女の罠
1
「どうなってんだい」
ビールが叫んだ。
イア王女は顔をたたく雪つぶてにもひるまず回廊へと足を踏み入れる。
ドレークはまたもやあわてて後を追い、ビールや残りの兵士たちも覚悟を決めた面持ちで続く。
視界を遮る吹雪はほんの数タンで通り過ぎた。
人々は周囲の様子をうかがう。
回廊は凍てついていた。左右の壁も床も天井も表面を氷が覆っている。そして外部への窓からは陽光が差し込み、回廊は神秘的な輝きに満ちていた。
「こりゃ、魔法かい。冷てえな。それに眩しいくらいに明るいぜ」
ビールのつぶやきに答えるように王女が言った。
「おそらく黄金の魔法です。もしも魔女クラインの技だとするとおそるべきことです。リ
ンシード王宮の使い手もおよばない高度の技ですから」
「イア姫様、まさか魔女は、その、呪文かなにかで我々も氷の中に閉じ込めたりできるのでしょうか」
ドレークは珍しく脅えた調子で王女を振り返る。ホルの剣士は魔法のたぐいは苦手のようだ。
「わかりません。私も黄金の魔法の奥義は知らないのです。でもやる気があれば、そしてできるのならば私たちはとっくに凍っているはずです。どうやら魔女とやらは私を待っているようですね」
「イア姫様を?」
王女は無言で冷たい光を放つ回廊を進んで行く。
「しかし、たまらねえ寒さだな」
ビールがブルブルッと身震いして言った。兵士たちも同じ思いの顔をしている。
南国育ちの彼らには体験したことのない低温だった。
「イア姫様、お寒くありませんか?」
どうにかドレークには王女の身を案じるゆとりがあったようだ。
「大丈夫です。マルドーク殿の用意してくれたこの衣装は温度調節機能があるようです。さっきからホットになっています」
「しかし、限度がありましょう」
「それより、回廊がつきるようですよ。あの扉の向こう。奥の間ね。たしかに妖しい気配がします。いよいよ、魔女さんとご対面できるみたい」
一同は王女の指さす前方の扉を見つめた。
ドレークの命令で一人の兵士が扉にとりつく。
「鍵はかかっていません」
兵士が扉に手をかけて言う。ドレークが振り返ると、王女は小さく頷いた。
「よし、開けろ」
奥の間は暗がりになっていた。
シュウシュウと不気味な物音がする。王女が声をあげた。
「気をつけて。何か魔法の・・・銀の魔法の気配があります」
「銀の魔法・・・」
「銀の魔法は二つの系統に分かれるのだけど、一つは人の心の操作。そしてもう一つは獣の心の操作。これは後の方ね。魔法獣の匂いが強いのです」
奥の間の中央にある巨大なベッドがぼんやりと浮かび上がる。
グルルと低い唸り声がしてのっそりと巨大な獣がベッドの上に身を起こした。
「青猫の化け物だ!」
ビールが叫んだ。
「こんなでっかい青猫見たことねえぞ」
「いいえ、あれは青虎よ。魔法によって作り出された動物。気をつけて。青虎は戦獣よ」 イアの注意にドレークは剣を構えたまま、王女の前に出て青虎に対する。
青と黒の縞模様の巨大な獣は赤く光る瞳で侵入者を見下ろした。ベッドの高さを割り引いてもドレークよりも頭ひとつ高い。恐ろしく長い牙が上顎から左右に突き出していて並の者なら恐怖のあまり、相対するだけで腰を抜かしてしまいそうだ。
ビールはドレークに肩を並べながら言った。
「おい、ドレークの旦那よ、おいらは青猫の類いは苦手なんだ。とくに、でっかいのはダメだ。王女様は引き受けたから、あんたあいつの相手を頼むぜ」
「ビールよ、奴が相手を選んでくれるとは思えないがね」
ドレークがビールの軽口にとりあうのも滅多にないことだった。それほど目の前の巨獣は剣士にプレッシャーを与えていた。
その時、青虎は口元を歪め、目を細め、ニヤリと笑うような表情を見せた。
「笑いやがった!」
ドレークとビールの背後で王女は何かをさぐるように部屋を見回していたが、青虎の表情に納得したようにつぶやく。
「知性を強化してあるのね。・・・青虎さん、あなたの主人はどこかしら」
青虎は王女に話しかけられ今度はとまどったような表情を見せた。
「ええっ、こいつにしゃべってんですか」
ビールは思わず王女を振り返った。
「しかも、こいつは人間の言葉が分かるらしい」
ドレークが青虎を見据えたまま、ささやくような声で言った。
青虎は判断をあおぐようにチラチラと部屋の奥に視線を送っていた。
「この青虎には名前があるんだ。アイーロックっていうの」
最初にそんな女の声がした。
そして、青虎の背後に人影が現れた。
まるで今まで透明だったものに色がついたような唐突な出現だった。
「魔女だ」
ビールが叫んだ。
青虎の脇腹を撫でながら薄手の青いローブだけを身にまとった少女がベッドの上に立っている。
「魔女クライン」
ドレークがうめくように言う。
しかし、背後ではイア王女が意外なものを見た驚きの顔を見せていた。
王女は喘ぐように叫んだ。
「あなたは、ミア! ミア・シニャック・リンシード」
王女にミアと呼ばれた少女は首をかしげた。
「ミア? 違うわ。あたしはクラインよ。魔女クラインなんて呼ばれてるもの。ミアって誰? その人は私に似ているの?」
「似ている? いえ、そっくりよ」
タル・シニャック大公の異母妹ミア。そもそも彼女こそが王女誘拐の最初の一味だった。そのミア・シニャックにそっくりな、というよりもどうみても本人に見える少女はもう一度、首をかしげた。
「ふーん。ところであなたが王女様?」
魔女は本題を思い出したように身を乗り出す。
「そうです」
「なるほど。ねえ、あたしのことを何歳くらいだと思う?」
魔女の質問はクルクルと矛先を変える。思わず王女は問い返した。
「年齢?」
「そう」
「私と同じくらいか。少し下かしら」
「へえ、すると、あなたには本当のあたしの姿が見えているのね」
「ああ」
今度は王女が納得したように頷いた。おそらく魔女は普段から魔法により人々に幻影の姿を見せているに違いない。
「私に銀の魔法は効きませんよ」
「そうか。じゃ、あんたは王女様に違いない。すごいね。どういう技なの」
魔女は心の底から感心しているようだった。王女は妙な状況にとまどいを感じながら質問に答える。
「・・・王家の人間は白の魔法によって保護されているのです」
「つまり、対魔法シールドってことね。その指輪に制御されているのかな?」
王女は質問に答える代わりに問いただす。
「なぜそんなことを聞くの?」
「あたしのパパがね。なんでこんなまわりくどいことをしたのかを不思議だったから」
「あなたのパパ? まわりくどいことって? あなたは何者なの?」
「えーと、質問は何だっけ? 何に答えてほしいわけ?」
王女の矢継ぎ早の質問に魔女は本当に混乱したようだった。王女も質問を考え直す。
「・・・あなたはここで何をしていたの?」
「もちろん、あなたの来るのを待っていたのよ。イア・リンシードをね」
2
王女は眉をひそめた。
「私を待っていた?」
クラインは口元をわずかに歪めた。
「そうよ。待ちくたびれちゃうほど待ったのよ。パパが言ったのでなけりゃ、とっくにどっかへ行ってしまうところよ。まあ、ヒマつぶしにいろいろしてたけどね」
「ヒマつぶし?」
「そうよ、ここのバカな城主をたぶらかしてね。まあ、そこそこ楽しめたかな?」
「するとザツオに魔法をかけたのはあなたなのね?」
「まあ、魔法ってほどじゃないけどね。このホルの城は魔法には無防備なんだもん。銀の魔法のほんの初級技。テクってほどのテクも使わず、思うがままよ」
「ホルの城の魔法使いたちはどうしたのです」
「最初に切り刻んであげたわよ」
「切り刻んだ?」
「あたしは血を見るのが好きなんだ。どうしたわけか。生まれつきね」
クラインの言葉に王女は息を飲んだ。
そして周囲の気配をうかがう。ここには愛する者を切り刻まれた人間がそろっているのだ。怒りが爆発してもおかしくない。だが、周囲には静寂が満ちていた。王女は妙な気分になり、ホルの人々をチラリと振り返った。そして、驚いた。
兵士たちは床に崩れていた。ビールもそしてドレークまでも。
王女は魔女を睨んだ。
「何をしたの?」
「ちょっと眠ってもらったのよ」
「いつ。いつ魔法を使ったの?」
「あんたとちょっとおしゃべりをしている間にね。そこの兵士があたしに剣を投げようとしたから」
魔女はつまらなそうな顔で答える。王女は驚異の念を褒め言葉に変えた。
「あなたはおそるべきテク・マスターね。しかし、いったいどこでそれほどの技を得たの?」
「得た? 何いってんのよ。すべてはあたしが生まれもったものよ」
その一言で王女の顔にひらめきが走った。
「・・・そうか。どうやらあなたのことが少し分かったわ」
王女は一人頷いた。魔女クラインは王女の態度に気をひかれた。
「へえ? 何が?」
「あなたは分身。クロノイドの秘法を使ったものがいたのね。あなたはおそらくミア・リンシードの細胞から生まれた人工人間なんだわ」
「何? それ?」
魔女の目が丸くなった。王女は嫌悪と同情の入り交じった複雑な表情を一瞬見せる。
「そう? あなたは知らないのね。それではあなたのお父様はどなたなのかしら」
「パパ? パパにね、それは秘密にしときなさいって言われてんだ」
「それじゃあ、あなたのお母様は?」
「ママ? ママはあたしを生んですぐ死んだよ」
「いいえ、あなたの魔法はすべて王家の秘法に属するもの。しかもことごとく封印が解除されている、・・・つまり、あなたが生まれつき魔法が使えるというのはそういうことなのです。そして封印を解除できるのは王家では私以外にはいないのです。けれど私はミア・シニャックの封印を解除していない。ということは、どこかの魔法研究所で封印解除の実験が秘密のうちに行われたことになります。だからあなたは成功した一人ということなのです」
魔女はさらに目を丸くした。王女の話が理解できないといった顔つきだった。
「いったい、何の話なの?」
「紫の魔法についてですよ」
魔法使いの少女は目を輝かした。
「そうよ。パパの欲しいものは。紫の魔法。でも、それがあたしと関係あるの?」
「紫の魔法は命の秘密に属するものなのです」
「命の秘密?」
「魔法と一口にいうけれど実はこの世界の魔法は習練により体得できるものと持って生まれた能力、そう超人間的能力といったものに分類できるのはあなたにも分かるでしょう?魔女さん」
「当たり前じゃない。もっとも練習して身につける魔法なんてたかが知れてるけどね」
魔女は胸をそらした。
「そうです。あなたのテクは黄金の魔法といい、銀の魔法といい、ふつうの魔法使いがどんな修行をしても到達できないレベルを示しています。しかし、なぜ、あなたにそんな魔法が使えるのか? あなたは考えたことがありましたか?」
魔女は吐き捨てるように答えた。
「そんなもん。あたしが天才だからに決まってるじゃない」
そして、馬鹿にしたような目で王女を見下ろす。
王女は淡々と話を続ける。
「いいえ、紫の魔法。つまりあなたの体の中に組み込まれた魔法のシステムが能力を発現させるのです」
「あたしの中に組み込まれた?」
「そうです。しかし、封印を解く紫の魔法を正しく使わなければ、本当の能力は発揮されないはずです。そうした超越的な能力は封印されているのです。封印を解くためにはそれに応じた鍵が必要とされるのです。そしてその封印を解く『鍵』・・・つまり『紫の魔法』は現在では唯一、私に組み込まれたシステムなのです。つまり、私抜きではあなたのような魔法使いは生まれないはずです」
「へっ、生まれないったって。ここにこうしてあたしはいるじゃない」
「黄金の魔法はシニャックの血脈に受け継がれています。私の想像ではあなたはミア・シニャック・リンシードの体の一部から合成され、封印の鍵を解くために何度も何度も失敗を重ねた果てに偶然成功した一人なのでしょう」
「そりゃ、どういうことさ? あたしがエクロン・スランみたいにビンで育ち、次から次へと合成されて、うまく封印が解けなかった失敗作は焼き捨てられたってことかい?」
「・・・」
「だから血も涙もない魔女になったってわけ?」
「言い過ぎたでしょうか?」
「アッハッハ。おもしろいや。そうかい、あたしはビン育ちか。そんなこと思いもしなかったな。つまり、パパがあんたを欲しがるのは失敗なしであたしみたいな魔女を生み出すためってことだね」
「おそらく、そういうことでしょう」
「こいつはいいや。あたしのような天才が百人も生まれたら、一年で世界は滅びちゃうよ。そんなことができると本気で思っているの?」
魔女の声のトーンは高くなっていた。
「少なくともあなたの父親はそう考えているのだと思います」
「パパが?」
「そうです。だから教えてください。あなたのパパとは誰なのですか?」
魔女クラインは王女の質問に答えることをはじめてためらう様子を見せた。それから思い直したようにニヤリと笑う。
「へへん。どうしたってあんたはパパに会うことになるさ」
「どうして?」
「だってあんたはあたしに捕まって捕虜になるんだもん」
「私を捕虜に?」
「そうさ。さっきも言ったようにそのためにまわりくどいことをしたんだから。あんたをリンシードの城から誘いだすために、盗賊を使い、ホルでは反乱までおこさせてね。そうまでしないとあんたを捕まえることはできないと言ってたな。それほど王家のガードは固いって。それに」
「それに?」
「あんたを城から出せば城の方にもいろいろ細工ができるって」
「お城に?」
「でも、何度も言うようだけど、あたしなら直接あんたをひっさらうこともできたと思うけどね」
「残念だけど、それは無理です。私がここまで来てしまったのはまんまと謎に魅せられてしまったからなのです。最初からあなたが来ていたら、お城の魔法使いがあなたを捕らえたでしょう。あなたは魔法の匂いが強すぎますから」
「ははあ。匂いか。あたし、そんなに匂う?」
「パワーが強ければそれを隠すパワーも必要なのです。その点、あなたはノーガードすぎますよ」
「へえっ! たいした自信だ。じゃあ、あんたはすんごいパワーを隠してるってわけ。ここまで来たのも好奇心が強かったからだって言うの?」
「残念ながらその通りです。私が魔法を使えば、私をさらった盗賊たちは私をリンシードの城に送り届けたでしょう。私が興味を引かれたのは銀の魔法使いカレーブー。その正体です」
「正体って、名前まで知ってりゃ充分じゃないの?」
「いいえ、この計画は王家の秘密をかなり深く知っていなければ立案できません。王家の誰が、私をさらい、紫の魔法の秘密を解こうとしているか、それを知る必要があるのです」「知るったって。どうするのさ。あんたのお仲間はあの通り、役立たずだし、あたしを拷問でもするってえの?」
「いいえ、そんなことをしなくてもあなたはきっと教えてくれるでしょう」
その時、少女の表情に驚きが走った。
「な、なにを。あ、あたしに銀の魔法なんか。アイーロック! 何してるの。王女を捕まえて」
「あなたの青虎なら眠ってます」
少女はチラリと横を見た。巨大な戦獣はガックリと首をたれて寝息をたてていた。ちょうどホルの兵士のように。魔女は一瞬、口をあんぐりとあけた。それから王女を鋭い目で見直した。
「さすがね。リンシードの王女様。すごいテクじゃないの」
「ありがとう。さあ、それでは教えてください。カレーブーは誰ですか?」
「い、言うもんか」
「いいえ、あなたは教えてくださる。カレーブーは誰ですか?」
王女の淡々とした質問に、魔女の顔には苦悶の表情が現れた。魔女は王女から目をそらそうとして果たせず、目に見えない力と戦うように全身の筋肉を緊張させている。
「すごい。あたしがこんなにコントロールされるなんて。パパの言う通りだったわ。でもイア姫。言ったはずよ。ここであたしは待っていたと」
突然、魔女クラインの体が輝き出した。鋭い銀の光が王女の瞳を射す。
王女は唇をかみしめた。
「はっ、銀の器ね。罠を仕掛けたのね」
魔女クラインはすでに奇妙な銀色の機械と化している。
王女の放った銀の魔法のウェーブは銀の器に反射し、王女自身に放射されていた。
どこからか魔女クラインの勝ち誇った笑い声が氷の部屋にこだまする。
「捕まえた。イア姫を捕まえた。王女様はあたしの手の中。アッハハハハハハ」
3
ペール川に浮かぶラングーンの戦船アリオリオ号から海鷹の群れが飛び立ったのは十タクほど前のことだった。
海鷹は三羽編隊三組の計九羽。
正確な三角形をした最初の編隊の先頭にはソル・シニャック・リンシードが乗っていた。 そしてソルの眼下にはホル城の三つの塔が見えていた。
背後を振り返ればはるか彼方にアリオリオ号がホルの港に接近しようとしているのも見える。バロイカ率いる牙犬部隊の上陸までにはまだ一タルト以上の間がありそうだった。 ソルは迷った。
そのソルの躊躇を見て取ったように後尾の海鷹が一羽、身を寄せて来た。鳥上に乗るのは黒の魔法使いシュライムだった。
「ソル様」
「どうした、シュライム」
「魔法の気配があります。かなり強力な力がホルの城から発しています」
「場所は?」
「おそらく北側にある聖牛の塔の頂上付近と思われます」
「そうか」
「どうなされます」
「シュライム、一緒に来てくれるか?」
「御意のままに」
「よし、ランダー」
とソルは背後の海鷹に乗る部下の名を呼ぶ。
「お前が指揮をとり、東の金角の塔の屋上で待機せよ」
ランダーの海鷹があわててソルに接近する。
「ソル様はいかがなされます」
「私は聖牛の塔にシュライムとともに降りる。お前はバロイカの牙犬部隊の合流を待ち、三つの塔を占拠するのを支援するのだ」
「承知しました」
ランダーは心配そうな表情をわずかに見せたが、それ以上逆らわず、残りの海鷹たちの方に転ずる。
それを確認してソルは手綱を持ち直した。
「いくぞ、アールゼ」
ソルに名前を呼ばれた海鷹は翼の羽ばたきを一瞬止める。
ソルとシュライムを乗せた二羽の海鷹はほとんど同時に急降下を開始した。
西に傾いた陽ざしを反射して白く輝く聖牛の塔が迫って来る。
ソルの海鷹は塔の屋上にふわりと舞い降りた。
同時にソルは剣を抜き、跳躍して塔内への出入り口の前に立つ。
間を置かずにシュライムがそれに続いた。
「鍵がかかっている」
ソルがシュライムを振り返る。
「おさがりください」
シュライムは言いながら、ソルの前に出た。
「これならば」
シュライムは扉の鍵を調べ、たちまち開錠してしまう。
ソルは屋内の気配を読み、扉を開いた。冷たい風が一瞬、吹き過ぎる。扉の向こうには階段が下へと続いている。
「この下は?」
「階段の下は物見の間、その奥が城主ザツオの居間となっています」
シュライムの答えを聞きながら、ソルはすでに階段を下り始めている。
「何だ。この寒さは?」
ソルは屋内の異常な冷気に気付いたものの足を止めずにつぶやいた。
「これは黄金の魔法によるものと考えます。このような強力な術を操るものがホルにあるとは知りませんでした・・・ソル様、ご用心ください」
シュライムは黒いフードの下から答えてソルの背後に従う。
ソルは頷くでもなく、足早に進んで行く。
物見の間は無人だった。
「人の気配がある」
ソルが言った。物見の間から回廊へと続く扉をソルが示す。
シュライムが黒の魔法で鍵を開けながら声を低めて言う。
「魔法の気配も濃厚です」
扉が開くと回廊の彼方から声が聞こえた。それは魔女クラインの笑う声だった。
「女だ。女が笑っている。待て。あの声に聞き覚えがあるような」
「ミア様ではないですか」
「そうだ。ミアの声だ」
ソルは回廊を走り出す。
「ソル様、前方かに何か来ます」
「分かっている」
回廊の門から巨大な獣が姿を出現させた。
「青虎か」
青虎は低い姿勢から一気にソルへと飛び掛かった。
ソルは剣を払いながら飛びのく。
ソルの剣は空を切ったが、巨大な獣は苦痛の呻き声をもらした。
喉に一本の矢が突き刺さっている。
シュライムの放った手投げの矢だ。
しかし、青虎は着地すると同時にひるまずにソルを目がけて跳躍する。前足の爪がソルの剣と打ち合い、火花が散る、これは青虎のフェイントで鋭い牙がソルの顔面をねらっていた。ソルは反り返りながら空中回転し青猫の攻撃をわずかにかわす。
「ギャッ!」
青虎は一声叫び、動きを止める。シュライムの矢が今度は青虎の右目に刺さっていた。 そして次の瞬間、残された左の目に矢が立つ。
視力を失った青虎はそれでも攻撃を再開する。ソルとシュライムはじりじりと後退する。 青虎は強化された視覚以外の感覚器でソルたちの気配を正確に察知していた。青虎の鋭い前足の爪が高速で左右に振られる。さらに牙攻撃。ソルは大きく跳んで後退した。
ふと青虎の動きが止まる。青虎は身を捩り、悶え始めた。
「シュライムの矢毒が回ったか?」
「しかし、ご注意ください。擬態かもしれません。こやつめは知性も強化されているようですから」
けれど、間もなく青虎は動きを止めた。ソルは死体を見つめつつ息を整える。
「死んだか。黄金の魔法に青虎、一体、敵は・・・」
「よくもアイーロックを殺したな」
ソルの言葉を少女の声が遮った。
声の主を青虎の死骸の背後に確認して、ソルは驚きに目を見張った。
「ミア!」
ソルは異母妹にそっくりな少女を見て立ちすくんだ。
「お前はまだこの陰謀に加担していたのか?」
少女がソルを睨む。その口が何かを言いかけて開き、少女はそのまま仰向けに倒れた。少女の胸にシュライムの矢が刺さっていた。
「シュライム」
ソルは意外な顔で黒の魔法使いを振り返った。
「ソル様、この娘はミア様ではありませぬ。この魔法。黄金の魔法の源泉はこの娘から発しておりました。また、今、ソル様に銀の魔法をかけようとしていました」
シュライムは静かな口調で言った。
「何? ミアは魔法なんか・・・」
「ですから、この女はミア様ではないと判断しました。しかし、もしもの場合を考えて眠りの矢を使っています」
「そうか」
ソルは青虎の死骸を乗り越え、少女を見下ろした。
「しかし、ミアだとすると王女誘拐の罪に問われることはさけられないな」
「御意」
「どのくらい眠る?」
「半日ほどは」
ソルはそこで始めて本来の目的を思い出したように顔をあげた。
「先へ進もう」
「回廊の奥の間に王女殿下の指輪の気配があります」
ソルは頷いた。
「イア姫の気配も感じるよ」
二人は眠れる謎の少女と青虎の死骸を残し、足早に回廊を進む。
残された少女に間もなく、異変が始まった。
少女の体から煙りが立ちのぼる。
数秒後、衣装とともに少女の体は気化して消え失せた。
その出来事は少女をこの世に生み出したものの無慈悲な心をあからさまに示していた。
4
王女は銀色の光に包まれて空中に浮かんでいた。足が床からほんの十カトクほど離れて揺れている。
王女の周囲には巧みな配置で銀の魔法の器が配置されており、王女を幽閉しているのだ。 王女に駆け寄ろうとするソルをシュライムが止めた。
「お待ちください。ソル様も危険です」
「しかし」
「これは白の魔法の器や銀の魔法を無効にしたうえ、魔法を使った者を呪縛する銀の器です。ソル様も白の魔法の器、つまりラングーン城主の指輪をしていらっしゃるので危険なのです」
「そうか」
「しばらくお待ちください」
シュライムは言いながら銀の魔法の器に接近した。
ソルは見た。
ホル風の衣装を身にまとい、銀の光の中で揺れる王女の姿を。
(どうやら無事のようだ)
王女の表情は穏やかだった。冷静に脱出の方策を考えているようだった。王女にはソルたちの姿は見えないらしい。
(長い追跡だった。ついにイアを取り戻した。取り戻したって? 何のために?)
ソルは安堵を感じると同時に憂鬱な気分の再来を感じていた。
(そうだ。追跡の間、忘れていることができた。王女の身を案じながら、悩みを棚上げして、気楽でもあったのだ)
「魔法が解けます」
シュライムの声がソルの思念を破った。
銀色の光が急速に弱まった。
ソルは前に出た。光が消え、バランスを崩した王女の体を抱きとめる。
ソルとイアの目があった。
「まあ」
最初に口を開いたのはイアだった。
「ソル。突然現れたのでびっくりしたわ」
「救出が遅れ、申し訳ありません」
「まったくよ。あぶないところだったのよ」
「一日待っていただければよかったのです」
「あら、私を責めるの?」
「いえ」
「馬鹿ね。ありがとう。それでこのまま抱いて帰ってくれるのかしら」
ソルはあわてて、身を離そうとした。その体を王女の手が捕まえた。
王女の唇がソルの唇をとらえる。
ソルは目を見張って立ちすくんだ。
一タクほどキスをした王女は黒の魔法使いを振り返った。
「シュライム、目をつぶってた? 今のは王家に忠実な騎士へのお礼ですからね。私の婚約者には内緒にしておきなさい」
「御意のままに」
ソルはまだ呆然としていた。
塔の階下から牙犬の鳴き声が聞こえて来る。どうやらバロイカ率いる牙犬部隊が入城したようだ。その中には王女の牙犬タロスもいる。
王女は愛牙犬の気配を感じ取り言った。
「タロスが私をなめに来る。その前にホルの兵士たちを起こさなくちゃね。ところでミア・リンシードのそっくりさんはどうしたのかしら」
ソルが答えようとした瞬間、階下からの出口に黒の魔法使いが一人現れた。
それはシュライムの部下ルギだった。
ルギは《静かな声》でシュライムに何事か告げる。
シュライムは頷き、珍しくためらいを見せた。
「どうした。シュライム?」
その時、ソルは自分の手が小さな手でにぎりしめられていることに気がついた。
王女が緊張して力をこめたのだ。
シュライムは言った。
「リンシード王宮で変事があった模様です」
王女の手がソルからゆっくりと離れた。