(6)王女と反乱軍
王女と反乱軍
1
波が砕ける音がする。
ホルの軍船スクランカ号は北々西の風を帆にはらみ、一タンに三ジーフの速度でセラ海を南下していた。ウクリルの港を出港してから、すでに八日、すなわち一週間が過ぎている。
空には星もなく、月もない。
夜の海は暗く、水平線は姿を消し、海と空は一つにとけあっていた。
風を受けながら、甲板に立つイア姫の姿を照らすのは船室との出入り口に取り付けられた小さなランプのみ。
闇の世界のたった一つの遠い星のような微かな光の中、ホルの少女エレナは恍惚とした表情でイア姫の横顔を見つめていた。
ホル反乱軍参謀マルドークの命令により、王女の身の回りの世話を受け持った十五才の少女はマルドークの姪だった。一週間の船旅の間に彼女はすっかりイア姫のファンになっていた。
(なんて、美しい方なのだろう。まるで絵の中に入り込んでしまったみたい。本当に。本当に王女様なのだわ。おとぎ話の中にしかいないと思っていた。この美しい王女様が私とお話ししてくださるなんて。なんだか信じられない。まるで私までが神話の世界にとりこまれてしまったような気分。ああ、どうしよう。こんな強い海風にさらされて、王女様が風邪でもひいてしまわれたら)
エレナは熱にうかされたように、めまぐるしく心を動かしながら、喜びとも苦しみともつかないほどハイな感情の中からようやく言葉をしぼりだした。
「王女様、風が体の毒になります」
エレナの声に応じて王女の顔が正面を向いた。
王女の瞳が向けられた瞬間、エレナの背中に電撃が走り抜ける。
エレナの心を支配しているのはすでに激しい恋だった。
王女に見つめられただけで呼吸が乱れてしまうのだ。
「大丈夫ですよ。エレナ。私は風が好きなのです。確かに風は体から力を奪うけれど、心に力を与えてくれますから。それよりも、あなたは大丈夫? 疲れたら、船室に戻りましょうか?」
「いえ、・・・私は、私は平気です。海育ちですから。だけど慣れないと、気持ちのいい風は突然、悪魔に変わりますから」
「ええ、そうね。でも、心配しないで、私は海鷹で風に乗るから、風のご機嫌を損ねない方法は知っているのよ。だから、もう少し、ここで考えさせてね」
「・・・はい。でも本当に無理をなさらないように」
「エレナ。ありがとう」
そう言って微笑んだ王女を見つめ、エレナはまたもや電撃に打ちのめされる。
もはや、心から言葉は消えうせ、何とも言えない幸福感だけがエレナの全身を満たしていた。
イア姫はエレナの寄せる賛美の瞳から視線を外し、ふたたび暗黒の海に目をやった。
果て無き闇にふと変化が起きた。
イア姫の目がピクリと動く。
エレナはイア姫の微かな反応に気がついて、顔をめぐらした。イア姫の見ているものを見るために、視線をたどる。そして小さな叫び声をたてた。
「あ」
海原に青白い燐光が浮かびあがっていた。
巨大な存在が海中に潜んでいる。目を疑うような光景だった。
「あ、あれは一体、何?」
エレナは答えを期待するでもなく、心のままに言葉をもらした。しかし、意表をつくようにイア姫が落ち着いた声で答えた。
「あれは魔鮫よ。パラヤクと呼ばれる銀の魔法の使い魔・・・」
「魔鮫?・・・パラヤク?」
見張りの船員が怪物を発見したらしく、イア姫たちの頭上にある操舵室で騒ぎが起こる。 イア姫の背後の扉から、数人の海の兵士が甲板に飛び出す。
「おお」
「ありゃ、なんだ」
「鮫の化けもんだ」
「パラヤクだ」
彼らは海中のモンスターに気付くと口々に叫びをもらした。
発光する巨大な鮫は軍船スクランカ号と平行して悠々と泳いでいる。魔鮫の全長はスクランカ号を凌駕しているようだ。
青白い背鰭だけが海上に見えるだけだが、その大きさからも、そして海中から発する光の範囲からも、圧倒的な巨体を人々に想像させる。
波を蹴立てていた背鰭が海中に沈んだ。
人々は不吉な予感を覚えて、身構える。
「エレナ、船室に戻りなさい」
イア姫はそう言いながら、エレナの手をつかみ、自ら、船室への扉に体を投げた。
二人の女はもつれあうように船内の廊下に倒れ込む。
ズシンという振動が腹ばいになったエレナを突き上げた。床の上の体がフワリと浮き上がる。エレナは我を失い叫んでいた。
「イア姫様!」
「・・・船底に体当たりしている」
激しい揺れの中で、イア姫がつぶやいた声がエレナの耳元に届く。
エレナの中に冷静さが蘇る。
「王女様、大丈夫ですか」
「大丈夫。エレナ、あなたは怪我しなかった?」
「平気です」
「何かにつかまって、でも立たない方がいい」
第二の振動が襲う。エレナは左手でイア姫の手をにぎりしめ、右手で壁の手すりをつかんだ。船室の内外から兵士たちの叫びが聞こえる。兵士が海に落ちたようだ。
「・・・が落ちた!」
「ロープを投げろ」
「武器をとれ」
「総員起床」
「怪物だ」
甲板の上では海の兵士たちが右往左往している。怪物の体当たりによる船の動揺のために反撃もままならぬ様子だ。しかし、はるか上層のマストの上には状況を冷静に見守る一人の水夫が立っていた。
「王女様は、船室に、逃れたか。・・・パラヤクとは、また、恐ろしいものを、使う。使い手の、銀の魔法使いは、どこに、いるのだろう。パラヤクなどを、海に放つとは、なんという、無分別、無思慮、これが、繁殖したら、何とする、つもりか。愚かすぎる。・・・む。あそこか」
水夫に変装していた黒の魔法使いルギは暗闇の一点を見据えた。
ズシン。パラヤクの体当たりがスクランカ号を揺さぶる。ルギの体が宙を舞った。
恐慌におちいった甲板の誰の目にも止まらず、ルギは海中に身を躍らせ、パラヤクのために激しいうねりを起こす海面に顔を出した。そして、驚くべき速度で泳ぎ出す。
その前方、波間に漂う小船があった。
とても外海を航行するに足るものとは思われぬ。十ジーフほどの全長も持たぬ、小さな帆船。その船首に銀の仮面の男が立っていた。
右手に銀の鐘を握り高く、掲げている。
小船には銀の仮面の男以外に人影はない。
銀の鐘は周期的に光を放つ。その度に音なき音が発せられ、空中に散って行く。
彼方で魔鮫パラヤクの起こしたうねりが微かに小船を揺する。
銀の仮面の男は姿勢を崩さず、スクランカ号の方角に向けて、銀の鐘を巡らせている。
・・・チィーン。
鐘の音。波。風。気配。何かが、銀の仮面の不動の体勢を崩した。
銀の仮面は跳躍し、体を回転させながら、空中で何者かと交錯し、船尾に降り立った。 そして、銀の仮面の男が立っていた場所には水に濡れた黒の魔法使いが着地した。
二人はお互いに相手を見た。口を開いたのは銀の仮面の男だった。
「これは驚きだ。よもや、攻められるとは思いもかけぬ。何者だ。海の悪魔か」
「それは、こちらの、セリフだ。銀の仮面に、銀の鐘。パラヤクを、操って、船を襲わせるとは、一体、何の真似か?」
「む。お前はホル反乱軍の魔法使いか」
「そうだ、としたら、どうする?」
「知れたこと。リンシードの王政に仇なすものを放っておけるか」
「ほほう、すると、お前は王帝の命で、動いている、と、言うのか」
「当然だ」
「馬鹿な、パラヤクなど、王帝陛下が、許すものか。魔鮫の使い手、となれば、アライソの、道を誤った、魔法使い、しかおらぬ」
「・・・」
沈黙した銀の魔法使いにルギが言葉を投げる。
「狙いは、王女様、だろう」
「お前は王宮の魔法使いなのか?」
「それを、問う、ということは」
ルギが最後まで言わぬうちに突然、小船が、空中に跳ね上がった。
パラヤクが波しぶきをあげ、浮上する。戦船を襲ったものよりいくらか小柄なパラヤクが潜んでいたのだ。
燐光を放つ不気味な怪魚はふたたび、海中に没した。
小船は転覆し、波間に漂う。
しかし、ルギはその気配を読んでいたようだ。反動を利用して高く跳躍すると攻撃に移っていた。
「ハッ」
短いルギの気合の声の後には波と風だけの海の静寂が戻って来た。
一瞬、海面に銀の仮面が光った。波に揺られ反転した銀の仮面の男の背中には無数の手裏剣が突き刺さっていた。
続いて、海面にはルギが姿を現す。
ルギは周囲の気配を窺った。
(去ったか)
魔法使いの手から離れた銀の鐘は海中へと沈んで行った。
操り手を失った魔鮫パラヤクは何処へか泳ぎ去ったらしい。
(退治するまでは、海の民が、手を焼くことに、なるな。・・・それにしても、スクランカ号からは、離れ過ぎた。はたして、陸まで、体力が、持つだろうか)
ルギは暗い海面を見渡した。スクランカ号の船影はない。
(王女様、どうか、ご無事で)
星のない空を一瞬、見上げてからルギはゆっくりと泳ぎ始めた。あまり楽ではない遠泳のスタートだった。
2
セラ海からペールの大河へ。そしてホルの港へ。灼熱の太陽を浴びてスクランカ号の船首像・聖なる牛が輝く。
今、ホルの反乱軍は歓声をあげて、戦船の入港を迎えた。
「王女様が」
「我々のお味方に」
「お心の優しい方だそうだ」
「ホルを救ってくださる」
「王女様、万歳」
人々は希望にすがるようにささやき、不安を打ち消すために叫んだ。
すでに海鳩の伝令により、イア王女が反乱軍に味方するという情報が届いていたため、それまで悲壮な決意を固めていた人々の顔に喜びの表情が戻っていた。反乱鎮圧の軍勢はホルまで陸路四、五日ほどの距離に迫っている。しかし、王女が味方となればその脅威は消えるのだ。
ホルの人々は自分たちの命を救ってくれるかもしれない、貴族の中の貴族であるリンシードの王女、しかも伝説の乙女アーミーの再来とも噂される美貌の少女を一目見ようと、港に集まったのである。
スクランカ号から下船したイア姫は人々の歓呼に応える間もなく、兵士たちに囲まれ、反乱軍の用意した仮宿へと案内された。
臨時の宿泊地に選ばれたホルの貴族の私邸はホルの城と港のほぼ中間点に位置していた。 家主の貴族サマビ・ホルベインは反乱以前にホル城主により家族ごと死刑に処せられ、屋敷は空き家となっていた。それを反乱軍が占拠したのだ。
門をくぐり、庭から館へと向かう間、イア姫は自分の記憶に収められたホルの人名簿をめくり続けていた。
(サマビ・ホルベインか。城主ザツオの伯父にあたる人物だな。その家族をすべて死刑にするとは尋常ではないな。しかし、そうまで異常であれば反乱以前にホルベイン一族の内で紛争が起こってもおかしくなかった。内紛が起こらず、事ここにいたって城を守る兵士がいまだ残っているのも奇妙な話だ。つまり、それこそが魔の力の気配があるということか。それにホルに潜入していた黒の魔法使いからは何の連絡もなかった。ということは魔法使いはすべて消されているか、魔の力の術にからめとられたか・・・)
イア姫の思考は次々に状況を読んで行った。与えられるすべての情報、見るもの、聞くものは王女の鋭敏な精神で処理され、イア姫の行動にフィードバックしていく。
統治者として、意志を持つものとして、保全するものとして、民を幸福へと導くものとして、王女は教育され、成長してきた。好むと好まざるとに関わらず、彼女は第一王位継承者であり、リンシードの民を守護するものとして優秀であることを要求され、それに適応してきたのだ。王女はすべてが自分をこの地に呼び込むための計画であったと感じていた。
(一体、誰が? 何のために?)
王女が最終的な疑問にぶつかったところで一行は身を落ち着ける部屋についた。
反乱軍が会議室と呼ぶ、それはサマビ家の会食場であり、一度に二〇人が着席できる細長いテーブルを神話をモチーフにした天井画の女神たちが見下ろす一室だった。
三人の反乱軍のリーダーたちは入り口に整列して、王女を迎える。
それは正式な礼というわけではなかったが、彼らが階級というものをまったく無視したり、あるいは憎悪したりという精神の持ち主ではなく、どちらかといえば無思慮に、また、あるがままに王室への畏敬の念を持つ人々であることを示していた。
この会見にしても、王女の希望に沿うものであり、王女の休息所は別室に用意され、一度そこに落ち着いてからという段取りを王女自信が省略させたのである。
王女を会議室に案内したホルの元家老大臣マルドークは王女を主の座に着席させてから、さすがに彼だけは格式高い作法にのっとり、平民である反乱軍のリーダーたちを王女にひきあわせた。反乱軍司令官ドレーク。市民を代表するセーラー。農民を代表するビール。 暴君により、愛する者を失った男たちを。
王女は口元だけで笑うロイヤル・スマイルを浮かべながら、冷静に謀反人たちを観察した。
(軍人、商人、そして農民か。全領民をあげての反乱にふさわしいリーダーたちね。個性的だけれど、共通している部分もある。まず、私が誘拐されていなければ、一生言葉を交わすことのない人々だったということ。南の国の肌色。そして緊張した誠実さ。それから、悲しみにふちどられた決意)
王女は黒の魔法の観相術を用いながら、三人のリーダーたちに同情を感じる。マルドークからは予備知識として、三人が反乱軍に参加するにあたって、どのような事情を持つものなのかを聞かされていた。王女にとっても愛するものを奪われることは何よりも同情に値することであった。
三人の紹介が終わったところで、王女は乞われるより早く着席を命じ、作法に従い、土下座したマルドークにも席を与えた。
テーブルには花もなく人数分の水の入ったゴブレットがあるばかりである。王女は考えをまとめる時の癖で一瞬視線を落とし、目の前のゴブレットに二、三タン見入ってから、ドレークの視線をとらえて澄んだ声で話を始めた。
「ホルの善良なる人々よ。虜囚の身である私に礼をつくしてくれたことを感謝します。また、マルドーク殿からお聞きした限りでのあなた方の立場を我が身の痛みとして受け取ることをお許しください。そして王族の一人として良民であるあなた方の不幸を守護できなかったことを詫びるゆえ、私の出来る限りの援助を与えることをリンシードの紋章にかけて誓いましょう。すでにリンシード王女の名によって、接近しつつあるリンシードの反乱鎮圧軍があなた方と衝突しないよう配慮いたしました。しかし、あなた方の言葉を信じるゆえにこそ、あなた方の敵対者、ホルの領主、ザツオ・ホルベインにも弁明の機会を与えねばなりません。そこで会見を申し入れていただきたのです」
「会見ですと?」
礼を逸してマルドークがイア姫の言葉を遮った。マルドークは自らの非礼に赤面し、口ごもる。
「マルドーク殿。許します。自由に話しなさい。ここは王宮ではなく、反乱軍の会議室なのですから」
「王女殿下の寛容に感謝いたします。されど、ご説明申し上げたように、城主ザツオ様はすでに正常とは思われず、王女殿下に不測の事態が生じる可能性も、さらには会見の要請を受諾しないとも」
「ザツオが私との会見に応じるか、否かは不明でしょう。しかし、もし、応じるとあれば鎮圧軍の到着前にザツオの申し開きを聞くことはこの反乱の調停を請け合う以上必要なことです。リンシードの王法は公平を旨とします。両者の発言が伴わなければ、私は介入することができないのです。もちろん、ザツオが私の申し入れを拒否すれば事情は違って来ます。反乱鎮圧軍はただちにホル城包囲軍となり、ザツオを王法拒否者として逮捕することになるでしょう。この地がリンリードの領土である限り」
「王女殿下」
王女の言葉の終わるのを待ってホルの商人、セーラーが《王女の目を見つめる礼》をとることに緊張した表情で、しかしなめらかな口調で発言を求めた。王女は即座に視線を合わせ、セーラーの発言を促す。
「おそらく、ザツオ様は王女との会見に応じるでしょう。しかし、そのことは王女様にとっても、我々、反乱軍にとっても不都合な事態を引き起こすことになると思えます。あの城の中には、その、こうなった、この反乱のすべての元凶が」
セーラーの口が次第に重くなった。元凶となった人物の名はイア姫の口から出た。
「魔女ですか? 魔女クライン?」
そう言った王女だけが口元にロイヤル・スマイルを浮かべている。
室内の男たちは重苦しい気分をいっせいに立ちのぼらせた。
「魔女が私に危害を加えると?」
男たちは沈黙で肯定する。
「そうであれば、なおのこと、私は魔女クラインと対決しなければなりません。ここが地獄の魔王バルンガーの領土ではなく、私の父上、オルトスタ・リンシードの王国であることを証明するために」
「王女殿下」
マルドークの呼びかけに答えず、王女は決意を示す見上げる視線を作り、いささか高圧的な口調で告げた。
「会見の日時は今より明日の夜までのザツオの選ぶ時とし、場所はホルの城内のザツオの選ぶ場とします。ただちにザツオに伝えてください」
うつむいたまま、ビールは横目でドレークを見つめ、視線をとらえると口をとがらせた上で口元を微妙にくねらせた。
あからさまな「はねっかえりの牙犬」を暗示するポーズに反乱軍司令官ドレークは胸中で同意しつつ、不敬な農民を目で叱った。
3
マルドークの姪、ホルの少女エレナはイア姫のために用意された寝室を点検していた。 気分はすっかり、イア姫の女官長といったところだ。
ホルの城から脱出してきた少女たちとともに王女にふさわしい居室を作り上げようと部屋を清め、飾り立てることに熱中している。
壁や床、そして天井は磨きあげられ、ベッドには極上の夜具が持ち込まれる。カーテンもリンシード仕立てのシルカ・レースを幾重にも重ね、ホル名産のガラス工芸品の花瓶の数々にはホルの名花アトールを中心に色とりどりの花々が生けられる。花の香りが部屋を満たして行く。
「素敵なお部屋になった」
少女の一人がポツリと言う。
「王女様にふさわしいかしら?」
別の少女がそう言うとエレナは即座に答えた。
「まだまだよ。イア姫様にふさわしいお部屋には程遠い。でもこれが精一杯ね。ここはお城じゃないんだし」
「ねえ。エレナ。イア姫様はそんなに綺麗な人なの?」
「綺麗? 綺麗なんて言葉じゃとてもとても。アトールの花より美しい方なのよ。だって、女神アトールよりアーミーの方が十倍も美しかったっていうでしょ。イア姫様はアーミーの生まれ変わりというんですもの。本当にそうだと思うわよ」
「なんだか、エレナったら、自分の恋人を自慢してるみたい」
「え」
少女の何気ない一言にエレナの頬はあっと言う間に真っ赤になった。
「まあ、エレナ、どうしたの」
「恋人。恋人ね。王女様のような方に愛されたら、どんなにか幸せかしら」
「うわー、エレナ、本当にマドパの女神にとりつかれちゃったの」
同性愛の女神の名を挙げて少女たちはエレナをからかう。
しかし、エレナはひるむ気配もなく、答える。
「あなたたちだってイア姫様を一目見れば、男なんてたいしたものじゃないってことが分かると思う」
「ゲッ、マジでいっちゃってるよ」
少女たちはたじろいだ。エレナがどうやら異常な感性の持ち主であることに思い当たったのだ。そして、少女たちはエレナがそれほどまでに慕う王女をまもなくその目で見ることができるのだと思うとワクワクしてきた。
「でも、王女様は大公様と結婚なさるんでしょう」
少女の一人が何気なく言う。
「結婚式の前日に攫ってきちゃうなんて」
「ホルの大人たちはとんでもないことしちゃってるんじゃないかしら」
「本当に王女様はホルを救ってくれるのかな」
「婚約者の大公様だって怒るんじゃないの」
「でも王女様が味方なら大丈夫かも」
手の空いた少女たちがおしゃべりをしている間に急ごしらえの王女の寝室を念入りに点検したエレナは少女たちに告げる。
「さあ、会議室へ王女様をお迎えにいきましょう」
少女たちと廊下を歩きながらエレナは感じていた。城を脱出した少女たちがいくらか明るさを取り戻したことを。彼女たちは毎夜、泣いていたのだ。エレナが城主に殺された父と母を思い出して泣くように。それぞれの肉親の死を悼んで。
彼女もイア姫に出会うまで夜になるたびに泣いていた。
(それで私は王女様の虜になったのかしら。たよるもの、守ってくれるもの、こわい夢を見た時になだめてくれるものを欲しくて。なぜ? なぜ、私は信じてしまったの? 一目見ただけで王女様が私の保護者だと)
かすかな疑い。考えることのできるものにとって当然の疑問。
しかし、その陽炎のような不信は前方の右の扉が開き、伯父のマルドークの先導で王女イア・リンシードが姿を見せ、彼女がエレナに気付き、微笑んだ瞬間、消え去った。
そして、彼女の背後の仲間の少女たちの顔を想像した。
エレナには分かっていた。イア姫に心を奪われない女の子はいない。
(でもね、私が先よ。少なくてもあなたたちの中で王女様と一番親しいのは私なのよ)
4
(なんて暑さなの)
イアは頭上の太陽。人々の顔の影。顎からしたたり落ちる汗。
そして風を求める肌のいらだちを意識した。
リンシード王宮で過ごした夏の一番暑い日も今には遠くおよばない。
(会見は夜にしてもらうべきだった)
イアは相手からの返事にクレームをつけなかったことを後悔していた。
城から戻った伝令は「聖牛の塔、聖牛の間にて。正午」というザツオの短い言葉を伝えた。
そして今イアは反乱軍の護衛役の人々とホル城に通じる道でまもなく高みにのぼりつめる陽にさらされていた。聖なる牛の車の上で。
堀に囲まれたホルの城壁は白く輝いている。
イアはホルの城を注意深く見つめた。
リンシードのダークブルーの王宮との大きな違いはもちろんそれだけではない。まず何よりも、当然のことだが、サイズがいたって小さい。七七の塔を持つリンシード王宮と比べてホル城には三つの塔があるだけだ。中央奥の聖牛の塔、手前右に金角の塔。手前左に銀角の塔。それらは三角に配置され、金角と銀角を結ぶ底辺に正門がある。塔の下の結合部分は城壁の陰に隠れて見えないが、イアはおおよその構造を想像することができた。 材質は多少異なるものの建築様式はリンシードの王宮とさほど変わっていない。
(北の塔に似ている)
イアは中央の聖牛の塔のデザインを見てふとそう感じた。リンシード王宮西の塔はソルの領域であり、王女はただちに昨夜受け取った海鳩によるソルの通信を思い出させた。
王女誘拐の追跡者であるソルは王女の居所をつかみ、ラングーン城の戦船に乗って、ホルまであと半日の距離まで迫っている。
(今夜にもソルが到着する)
ソルの手紙には「くれぐれも自重されたし」という一文が添えられていた。
(待つべきだったかもしれない)
しかし、と王女は考えた。ホルの反乱軍の正当性をつかむためには王女が城主ザツオの不正の証拠を握らねばならない。リンシードの正規軍にしろ、ソルの軍勢にしろ、彼らが到着すれば、王女の自由は奪われるだろう。彼らはイアの父であるリンシード王の命令で動いているのであり、王女の無事が優先される。そして王女抜きの軍の介入はひょっとしたら道を誤るような気がするのだ。
リンシード正規軍にも、ソルにも手に負えない何かが目前の城に潜んでいる。
そんな予感がイアの胸にのしかかっている。
イアには感じられる。ホルの城を包む邪悪な気配が。
それはイアを待っているかのようだ。
(本当にそうだろうか。私はこの事態を楽しんでいるだけではないのか)
いつの間にか頬を伝っていた汗が顎からポトリと落ちた。
(城に戻り、王女としての義務を果たすよりも、ここで何か他のことをしていたいだけなのではないのか)
王女の口元に笑みが浮かんだ。
(もちろん。その通りだろう。そしてあの城には実にこみいった手段で私を呼び寄せた、何かが待っている。私がそれと対決するのは避けられぬ。私はそれを望む。なぜなら私はリンシードの王女だから)
王女の中で一つの迷いが解けたとき、周囲の熱気が遠のいていった。王女は目の前の敵に心を集中した。そして実際、王女は前方の城からただならぬ冷気が放射していることを意識する。
(確かに城の中には恐ろしい魔法の使い手が潜んでいる)
王女は確信した。
そのとき、車をひく聖牛が歩みを止める。
一行の先頭に立つ、反乱軍司令官ドレークが城の門に大声で呼びかけた。
「リンシード王女殿下、イア姫様のお着きなるぞ」
イアの乗る牛車の周囲の護衛の兵士たちの顔に緊張がみなぎる。
返事もないまま、堀の向こうの門が開き、はね橋が音を立てて降りた。
門の中は無人である。
それは無礼な行為であった。
ドレークが叫んだ。
「無礼であるぞ」
城壁のどこかから声が答えた。
「反乱者の中に王女殿下がいるとは信用できぬ」
ドレークが王女を振り返った。
「あれは城主ザツオ様のお声です」
王女は頷いた。
「私にも聞き覚えがあるようだ」
王女はドレークにそう言うと牛車の上に立ち上がった。
「ホルの城主なるザツオ・ホルベイン殿。黒の魔法で私の声を確認するがよい。私はイア・リンシードなるぞ」
ほんのしばらく間があった。そして次に城壁から返った答えには明らかに狼狽の色があった。
「しかし、まさか、王女殿下がなぜここに」
「ザツオ殿、そなたの領民より、そなたの内政につき、訴えがあった。私はリンシード王女として、これを裁定することを請け負った。当然、当事者であるそなたも尋問しなければならぬ。それは伝令を通して申し伝えたはずだ」
「しかし、反乱者たちの策謀かと思いまして」
「しかし、その疑いは解けたであろう。ただちに王女に対する礼をもって私を案内してもらいたい」
「かしこまりました」
門の中に数名の兵士が現れた。
ホルの聖牛の紋章の盾を持つ正規兵だった。
城の兵士たちの目が妙にうつろなものであることを王女はただちに見て取った。
聖牛車のかたわらにいたドレークが身を伸ばして王女に耳打ちする。
「ザツオ様の護衛兵です。かっての私の部下たちです」
王女はちらりとドレークを見ると聖牛車から軽い動作で飛び降りた。
「さあ、いきましょう」
言うと同時に王女は門に向かって歩き出した。
イアが橋に足をかけたところでドレークがおいすがる。
「お、王女殿下」
ドレークの声に狼狽の色が濃い。
「どうかしましたか?」
言いながら王女は歩調をゆるめず、橋を渡り続ける。
「ご用心なされないと」
ドレークは言葉につまる。
「まず、会うべきものに会うのです。そのためには歩かなければなりません」
反駁しようとしてなおも言葉を探すドレークを横目で見ながら農民出身の反乱兵ビールがニヤリと笑った。
「お姫様の言うとおりだ。ドレークさん、前に注意した方がいいんじゃねえか」
言われてドレークは腰の剣に手をそえて視線を前方に戻す。
王女を先頭にドレークとビール、そして十人の反乱軍兵士たちが二列縦隊で続く。
反乱軍兵士たちは装備はバラバラだが、ドレークの選抜したメンバーなので行進もそれなりに格好がついている。
ドレークはようやく、気をとりなおし、この小さな部隊の動きを把握することに集中することにした。
反乱軍の砦から、彼らを見守っているマルドークやセーラーはどんな気分なものかとドレークはふと考えた。自分たちの切り札が敵中にこんな形で入って行くのは大層不安なことだろう。反乱軍の小部隊は間もなく彼らの視界から消える。橋を渡り、ホル城の門の中へ。ザツオの、いや、魔女の待つ忌まわしい場所へ。もう、門の中だ。見ろ。かっての部下たちが濁った目で王女を見ている。彼らが王女に危害を加えた場合、守りきれるのか。ドレークは突然、自分が罠にかかったという強い思いに捕らわれた。
「全員、王女様を囲め」
ドレークが叫んだのはすでに城内に全員が渡り切った時だった。
後ろに控えていた反乱軍兵士たちはバタバタと王女の左右に散る。王女の左右にドレークとビールが。その左右に一人ずつ、前後に四人ずつ。反乱軍兵士たちはようやく王女を防御する態勢になる。
そのいささか混乱した動きを城の兵士たちは無言でながめていた。身構える素振りも見せなかった。
そして、城兵の一人が、まるで自分の意志というものが感じられない声で口を開いた。「どうぞ、こちらへ」
そして、城兵たちはまわれ右をすると正面の塔へとむかって歩き出す。
王女にうながされ、ドレークが命じた。
「全員、警戒せよ、よし、前進!」
ドレークは正面の塔を見上げた。一瞬、瞳にはかすかな恐怖が浮かぶ。殺された妻の叫び声がドレークの耳にこだまする。
次の瞬間、ドレークは優秀な剣士の顔を取り戻した。
塔の方から不自然な冷気が漂い出した時も、その顔に変化はない。
(まあ、涼しい)
塔の開かれた扉をくぐった時、王女の感じたものは心地よさだった。塔の中にはホルの猛暑が嘘のような冷ややかな空気が流れている。
短い廊下の果ては大広間になっていた。
城の兵が前方で二手に分かれると、その先に男たちがひざまずいていた。
中央の男が腰をかがめて一歩前に出る。
大きな顔を覆う黒髭。城主の衣を身にまとった男は王女を見つめた。
その表情にはうろたえとおびえが感じられる。
(ホルの城主ザツオ、彼は確か、四五歳だったはず。それにしては、これは老人のようではないか)
男の顔は皺に覆われていた。目は城の兵士よりもさらに濁り、黒髭の黒さが不自然に感じられた。おそらく、染めているのだと王女は考えた。
「ホルの城主、ザツオ・ホルベインでございます。王女殿下におかれましてはかようなさいはての地に・・・」
ザツオの名乗りに続く長い歓迎の言葉を聞き流しながら、王女は周囲の様子を窺った。(この冷たい空気。これは魔法だ。おそらく黄金の魔法。しかもきわめて高度な技術。こんな術を使える黄金の魔法使いはリンシード城にもいない。シニャック家の黄金の魔法は封印されているし、話に聞くザド城のトレウル・リンシードに仕える魔法使いサヤクは町の気温を変えると言うけれど。ホルにそんな使い手がいるとは知らなかった。このザツオが?)
王女は視線をザツオに戻し、意識を集中した。しかし、儀礼的な口上を述べるザツオには魔法の気配が微塵も感じられない。
(寒い)
王女の意識は突然、気温の感覚へと方向を変えた。先程までは快感だったホル城内の冷気が今では苦痛を感じさせるまでの低温となっていた。何よりの証拠に王女の吐く息は白いのだ。
王女はゆっくりと冷気の源を探る。
冷気はもはや冷風となり、あからさまに吹きつけていた。それはザツオの背後、大広間の奥の塔へと通じる階段から送り出されて来る。
ザツオはなおも挨拶を続けていたが、王女は無礼を承知で言葉を発した。
「ザツオ殿。問いに答えてもらいたい」
「はっ」
挨拶を中断させられ、訝るようにザツオは顔をあげた。
「ザツオ殿、そなたはそなたの領民を罪のあるなしを問わず、殺害したと聞いた。これは事実か?」
「滅相もありませぬ。事実無根でございます」
ザツオは即座に答えた。挨拶の言葉と同様に感情のこもらぬ口調だった。
「では、私の側に控える男は何者か、知っているか?」
ザツオは視線を王女にのこしたまま、やはり平然と答える。
「それが、謀反人のドレークのことであるならば知っております。この者はわが城の守備隊長の一人でありましたから」
「彼の妻君についてご存じか?」
「ドレークの家族についてですか? それは記録を調べてみないことには」
「なるほど、彼の家族のことまでは知らぬということだな」
「まさしく、その通りです」
訴えを否定するザツオに頷くように首をかしげ、王女は一瞬の間をとり、ザツオの視線をとらえて質問の矛先を変えた。
「ところでザツオ殿。ホルに黄金の魔法使いがいるとは聞いていないが。なかなかに見事だな。まるでリンシードの冬の季節、それも雪羊の月の寒さのようだ。ここが南国ホルであることを忘れてしまいそうだよ」
ザツオが初めて言葉を失った。王女は次なる質問をゆっくりと口にした。
「この魔法の使い手を紹介してくれないか?」
ザツオの顔に戸惑いの表情が浮かんだ。そして、ためらいがちにつぶやく。
「魔法?」
王女はじっとザツオの次の言葉を待つ。ザツオは見下ろす王女の瞳から目をそらそうとした。突然、額に汗が浮く。ザツオの心の中で対立する二つの意志が葛藤している。
(この女から目をそらせ・・・王女陛下の瞳の下にあらんことを・・・目をそらすんだ・・・リンシードのしもべはリンシードのあるじの瞳の賞賛を求めよ・・・女の目を見るな・・・王家の瞳に映るものは真実の自身なり)
王女の周囲の人々は突然、途切れた会話の行方を見守っていた。
そして、城主ザツオ・ホルベインが突然、立ち上がり、そして仰向けに倒れるのを見た。ザツオの目は倒れる寸前まで王女を見つめ続けていた。
城の兵たちは城主が転倒しても、身じろぎもせず、直立していた。
まるでザツオの行動を予測していたように王女は間を置かず、ドレークに命じた。
「ザツオ殿を介護してください」
ドレークは旧主ザツオと王女を交互に見た。それから、ザツオの方へ歩み出した。
膝を屈め倒れた老人の体をあらためる。ザツオは失神していた。
顔をあげたドレークは王女が素早い足取りで広間を横切って行くのに気付く。
「王女殿下」
「ザツオ殿は操り人形だったのです。私は黒幕と対決します」
「お待ちください」
ドレークは抱き起こそうとしていた旧主ザツオの体を放り出すとあわてて王女を追う。 ビールや残りの兵士たちもほぼ同時に従っていた。
城の兵士たちだけがまるで彫刻のように無言で立っていた。
すでに王女は奥の塔へ通じる階段を昇り始めている。
「王女殿下」
先行する王女を制止しようと呼びかけるドレークの声は無視され、王女は足をとめない。仕方なくドレークたちも階段を駆け昇る。しかし、王女の足は意外なほどに早く距離がつまらない。
突然、王女の足が止まった。
階段の上、塔への出口に城の兵士たちが現れたのだ。
彼らは剣を構え、王女に殺到する。
「王女殿下」
ドレークは剣を抜きながら、もう一度叫んだ。
「全員突入」
命じられるよりも早く、ドレークの部下の兵士たちは剣を突き出しつつ、王女の前へと出ていた。
間一髪、振り降ろされた城兵の剣ははねかえされた。
階段は人五人が横にならべばいっぱいという広さだった。ドレークはようやく最前列にでると剣を連続してくりだす。
部下たちがそれに倣うと、城の兵士たちは有利な高位をしめつつも圧倒され、後退し始める。それに応じてドレークたちはじりじりと階段を昇る。
ついに塔への出口に追い上げられた城兵たちは聖牛の塔の扉まで後退した。
階段を昇りきったドレークたちは横一列になり、扉の前の城兵を囲むようにせまる。
どうやら剣の力量も人数もドレークたちの方が一枚上手のようだった。
闘剣の間合いにもう一歩というところで後ろから王女が声をかけた。
「ホルの城の兵士たちよ。剣を捨てよ。イア・リンシードが命ずる」
城兵はその声を聞き、イアの姿を目にしたと同時に全員が剣を床に落とした。
それどころかドレークと彼の部下の何人かも剣を捨ててしまった。
驚いたのは農民あがりのビールだった。
彼は思わず、背後を振り返った。
「こりゃ、たまげたな。姫様の一声は魔法かね」
王女は微笑みを浮かべた。
「そうです。剣の誓いを行う者は銀の魔法による制御を受けるのです」
ドレークは部下たちに剣を拾い集めさせて言った。
「王女様、お願いですから、先に行くのはおやめください。城の中には剣の誓いを立てていない者もいるはずですから」
「まあ、ごめんなさい。早く相手に会ってみたいと思ったものですから。それではゆっくり参りましょう。その扉は奥の間へ続く回廊の入り口ですね。ドレーク、扉を開けてください」
命じられるまま、ドレークは扉に手をかけた。
次の瞬間、扉の向こうから白いものが吹き付けた。
「うわ、なんだこりゃあ」
ビールが思わず、後ずさる。
王女はわずかな驚きをこめてつぶやいた。
「雪だわ」