(3)ホルの反乱
ホルの反乱
1
リンシード王都のはるか南の地、ホル。
西の太洋セラ海の沿岸を走るセラ街道は古都スラートから発し、王都リンシードを抜け、トリタ、クキ、マーオー、ウクリル、タネーン、タガタ、ヤソジ、ドリなどの有名無名の街をたどって南へ下りホルへと着く。リンシードからホルまでは牙犬に乗っておよそ四〇日の行程だ。そしてセラ街道はそこで終わる。
こう述べると、いかにもホルは辺境の地のように聞こえるが、実際はそうではない。
確かにホルより南には険しいホルベイン山脈、さらにその向こうには果てがないといわれる不毛のリンシード大砂漠が広がっている。
だが、水量豊富なペール川を挟んで栄える平野地帯にあるホルの街は古くから人の住む土地であった。
亜熱帯に属し、高温多雨の気候から自然の食料も豊富で、リンシード王朝建国当初から南海の楽園として知られて来た。そして今は暑さに強い聖牛を中心とした牧畜産業も盛んである。
いわばリンシード王朝の南の食糧庫ともいうべき土地の中心。それが聖なる牛をシンボルとするホルの街であった。
さらにホルは東の大都アライソへと走るサリフ街道の出発点でもある。
小高い丘の上に建つホル城の聖牛の塔から見渡せば北にセラ街道、西にサリフ街道という二つの大いなる道が果てしなく伸びているのを見ることができる。
今、その聖牛の塔の北側の窓から下界を見下ろしているのはホル城当主のザツオ・ホルベインであった。ザツオは四五歳になる、髭をたくわえた、色黒の、貴族にしてはあまり品のない、つまりリンシードの血脈とは無縁の、大きな顔に苦渋の色をありありと浮かべていた。
眼下のサラ街道には砦が築かれている。もちろん、砦はそこだけではない。西にも、東にも、南にも、ホルの城はぐるりと砦で囲まれてしまっている。
そして、その砦にいるのはザツオの配下のものではない。裏切り者の、恩知らずの、不埓きわまるザツオの元部下、元市民、元農民たち。つまりホルの反乱軍である。
ホルの支配者ザツオは今や、城にとりこめられていた。
ホルの城兵さえも多くが反乱軍に加わり、ザツオは攻め込んで脱出することもままならないほどの小勢力で砦の反乱軍と対峙しているのだ。
「馬鹿者どもめ。おのれの身もわきまえず、このホルの正当なる所有者たる我に逆らう忘恩の徒。無学非才の者どもめ。ごくつぶしの、はねっかえりの、虫けらども。主人の手を咬んでただですむと思うなよ。今に目にもの見せてくれる。リンシードから救援軍がついたなら全員串刺しで火あぶりにしてやるからな・・・おい、衛兵、王都からの返事はまだか?」
悪態の限りを尽くす城主ザツオに返答を求められて側に仕える衛兵はおどおどと首をすくめた。
「はっ、すでに海鷹の伝令も、近隣の城に到着しておりましょうから、今日中にもご返答があることかと」
「その言葉、聞き飽きたわ」
ザツオは怒りにまかせて傍らの壷を衛兵に投げ付けた。
衛兵は跳んで壷をよける。壷は粉々に砕け散った。
「くそ、このままでは、この我が海鷹で城外におちのびる羽目になってしまうわ」
ザツオはもう一度、窓から眼下の砦をにらみつけ、いくつか悪態を怒鳴ると窓から唾を吐いた。
「ざまをみろ」
それからいささか怒鳴り疲れた顔でザツオ・ホルベインは物見の間を後にした。
反乱軍の司令部は北の砦に置かれていた。
砦といってもそこは半分は素人の反乱軍の手になるもので、しかも急造であるから、立派とはいいかねる。しかし、城から思い出したように打ち込まれる弓矢の攻撃を凌ぐには充分の防壁をそなえ、民家を改装した一部分には物見の櫓も組まれている。
今、櫓の一つに三人の男たちが集まっていた。
「三日で作った割りにはなかなかのもんができたじゃありませんか」
頭にターバンを巻き、でっぷりと太った、いかにも商人でございます、といった笑みのはりついた顔の中年男が今にもこわれそうな木のイスに腰を下ろしながら言った。
「大工はたっぷりいるからな。兵士の数より多いぐらいだ。なにしろ、市民はほとんどこちら側だ」
答えた男はリンシード王国の熱帯用兵装を身につけている。牙犬と聖牛の紋章入りの薄い胸当て、布製の軽い小手、そして、鉄線があみこまれたスカート、腰にはホルの兵士が携帯する聖牛の角をデザインした長剣。いずれの武具もがっしりとした男の体にはやや軽すぎるといった感じを与える。彼は立ったまま、聖牛の燻製をかじっていた。
黙ったまま、城を見上げるもう一人の男は背に弓矢を背負い、頭に鉄の板を巻いている他はどう見ても野良着といったスタイルだ。三人の中では一番若い。顔は真っ黒に日焼けしており、目元にあどけなさが残っている。
「ビール、どうだ。城の様子は?」
今度は若者にターバンの男が声をかけた。
「ついさっきまで、聖牛の塔に人影が見えただ。ありゃ、城主様だな」
「おいおい、敵を捕まえて城主様はないだろう」
「ふん、別に尊敬して言ってるわけじゃねえだ。おらの農園じゃ、城主様といったら能無しのただ飯食いのことだ。そんで、おらにとっちゃ、いくら憎んでも憎み足りねえ、妹の仇野郎のことだ」
突然、若者の目に怒りの炎が宿った。
「城主様はあの女と狩りに来て銀兎を射ねえで、おらの妹を射ただ。おらはどうしたって城主様にこの矢を射ねばならん」
若者の言葉に燻製を食べる男の表情が曇る。
「ザツオ様も昔はあんなではなかったのだ。あの女狐が現れるまでは・・・」
「ドレーク司令官、いまさら迷いは禁物ですぞ。もはや、こうして砦まで築き、城を囲んでいる身の上ですからな。しがない商人の私など、この反乱が失敗すれば、生きたまま鎖で海中に縛られて、肉食魚の餌にされるにきまっておるのです。実に恐ろしい」
そういいながらターバンの男は愉快そうな顔をする。
ドレーク司令官と呼ばれた男は聖牛の燻製をごくりと飲み込んで言った。
「迷いなどはせん、 剣を捧げた方に弓引いたのだ。俺とて最後まで戦うほかに道はない。ただすべての凶事があの女、魔女クラインによってもたらされたことを言いたかっただけだ。ザツオ様は悪魔に魅了され、狂ってしまったのだとな」
魔女クラインの名前が口にされ、三人の男はそれぞれの記憶に残るその女の姿を心に描いた。世界でもっとも妖しい魅力を秘めた魔女の姿を。
ブルルッとターバンの男が身を震わせた。
「いやいや、まったく、思い描くだけで、寒くなってくるとは、とんでもない女ですな」
「・・・セーラー殿。時に城を囲んでこれで三日。例の件は大丈夫なのだろうか」
セーラーと呼ばれたターバンの男は再び商人の笑顔をまとって答える。
「例の件は大丈夫か? さあて、ドレーク司令官、何しろ、事が事。私とて計算板を弾きましたがね、こればかりは計算通りに行くとは限らない。商売は賭けですからな。まして今回は反乱などという大商いでして、まあ、雲をつかむような話とはこのことだ。・・・実をいえば私はどうしてこんな事を始めてしまったのかとずっと後悔してるんです。どうせ、死ぬならね、あの魔女に魂を売ってお城の商人としてやっていても良かったんじゃないかとね。まあ、その点は司令官も同様かもしれない。そして、・・・無謀な賭けに乗った理由もね。また同じだ。そうでしょう?」
ドレークは無言だった。商人セーラーはドレーク司令官の目を見つめ言葉を続けた。
「あの世で、女房に仇討ちもできない卑怯者とののしられたくはないでしょう。私だってごめんだ。・・・ましてドレーク様は武士ですからな」
ドレークは表情を変えずにセーラーを見つめ返した。二人の中年男もまたビールと同じように愛する者を城主に奪われたのである。自分自身がいまわしい回想へと踏み込まぬようにと思ってか、セーラーは早口で話を進めた。
「つまり、例の件は大丈夫も何も、あれは一種の夢でございましょう。ねえ、夢ですよ。こうして反乱をして、にくい仇を追いつめた。しかし、攻めるには兵力は充分ではない。だから、しばし、夢でこの世に生をつなぐ。‥‥‥夢が叶えば最小限の犠牲で仇を撃ち、・・・夢破れればこの身を捨てて、仇に向かえば済むだけのこと」
セーラーは言葉を切った。
ドレークは商人の話の意味を頭の中で整理しているようだった。そして口を開いた。
「もちろん、俺は命を惜しんでいるわけではない。ただ、例の件が駄目とならば、リンシードの正規軍の来る前に、城を落とさねばならぬということだ。トルエーンの反乱のように徹底抗戦をするわけにはいかんのだから。部下や市民を皆殺しにさせるわけにはな。だから、正規軍が到着したら白旗をかかげるしかない。・・・しかし、そのタイミングが問題だ。もし、城を落とす前に降伏しようものならば、戦後処理はザツオ様、というよりはあの女狐に委ねられることになるのだ。生き残った者はあの魔女クラインに裁かれるのだぞ」
「死んだ方がマシですなあ」
「だからなのだ。例の件の成否。それによって決戦の日を決めねばならん」
「なるほど。しかし、その点は大丈夫でしょう。正規軍がホルに侵攻するよりもずっと早く、例の件が成功か失敗か、明らかになるでしょう。おそらく、遅くてもあと三週間のうちには。正規軍の方はどれほど早くとも四週間はかかるはずです」
「全軍となればそうかもしれんが、先行部隊がもっと早く着くかもしれん」
「一応、街道には密偵を放っていますから・・・、しかし、近隣の城から、兵が出ることはないでしょう。そんなことをして犠牲を出しても得るものがありませんからな。ま、もしもの場合は臨機応変に対処するしかありませんが」
二人の会話は途切れた。
黙って聞いていたビールがのんびりとした口調で言う。
「いざとなったらやるだけだべ。ドレーク将軍はお侍さまだで、待つのがつらくて焦れてるだ。ほれ、おらの燻製をあげるで、食っとくといいだ」
ドレークはビールに聖牛の燻製を差し出され、真剣な顔に苦笑を浮かべて言う。
「そうか、俺は焦れていたか」
商人セーラーはビールの真っ黒い顔を頼もしそうに見た。
ビールは若者はどこか超然とした落ち着きを漂わせていた。
とぼけた顔をしているが、さすがはホルの農民を代表する一方の雄である。
ドレーク、セーラー、そしてビール。三人はそれぞれが兵士の、市民の、そして農民のリーダーであり、ホルの反乱軍の指揮をとっている。彼らの手に反乱軍に参加した民衆の運命が握られていた。
城を囲む反乱軍は彼らの指示を息をひそめて待っている。
そして彼ら三人もまた何かを待っているのだった。
一体、何を?
聖牛の塔を下りた城主ザツオ・ホルベインは歴代城主の肖像画を飾った回廊を渡り、奥の間へ到着した。
そこは南国とは思えぬひんやりとした空気の漂う場所だった。
「王都からの使い以外はとりつぐな」
衛兵に命じ、奥の間の扉を閉じさせた瞬間、ザツオの心にふと疑いが生じた。いや、それは疑いというよりも本来ザツオの持つ正気が一瞬目覚め、発した問いかけだったかもしれない。
(ひんやりしている。ひんやりしている。この南の国、常夏の国、ホルの。城の中とはいえ、光が差し込む窓もある、しかも、真昼の。外はうだるような熱気に満ちている。それなのに。にもかかわらず。ひんやりしている。それは、ひんやりしているのは、異様なことではないのか。なにか不自然な。この冷気は)
「ザツオ様」
ザツオの心が一瞬とまどった。
(我は何を考えていたのか。我は何かを・・・)
「ザツオ様」
その声は天使の歌声のように甘く、高く、澄んでいた。
その声の主を目にした時、ザツオはもはや何も考えられなくなっていた。
奥の間には周囲が三十ジーフもある巨大な天蓋付きの円形ベッドがおかれている。
天蓋から幾重にも下ろされたレースのカーテン、そのカーテンの向こうにしどけなく寝そべった女がいた。
不思議なことに見る者、あるいは見る場所、そして見る時によってその女の印象は変化した。少女のようにも見え、熟れきった女のようにも見えた。やせているようにも太っているようにも見えた。髪の毛でさえも長かったり短かったりする始末だ。理性で考えれば、それは奇妙なことであり、女のすべてが幻かも知れぬという、単純明快な結論を得ることもできるだろう。しかし、一度、その女の目を見てしまえば、理性そのものが消え去ってしまう。一見した者の心はたちどころに女の虜となっている。
ザツオもまたいつものようにすっかり心を奪われ、ヨロヨロとした足取りで薄衣だけを身にまとった女の元へ、その名をうわ言のように呼びながら近づいて言った。
「おお、クライン、クライン、我の愛しき女よ、クライン、クライン」
ザツオはベッドにたどり着き、よじ登り、にじり寄って、愛人クラインの胸に顔を埋めた。
クラインはザツオの髪を白い手のひらでなで、その耳元を甘い吐息でくすぐる。
「寂しかったわ。ザツオ様。どちらにいらしてたの」
ザツオは体を悶えさせ、震える声で返事をする。
「なに。大した用事ではない。我は裏切り者どもの様子を。ちょっとな」
「放っておけばよいのですよ。あなたのお慈悲も考えず、手をふりあげる愚かな者のことなど」
「うん、うん、その通り」
「そのうちに泣いてわびにまいりますわ」
「うん、そうであろう」
「それより、ザツオ様、クラインはお願いがありますの」
「何かな?」
「フフフ、あかあい、あかあい、真っ赤な血が見たいんです」
「・・・血か」
「ええ、ええ、血です」
「・・・その、どのように」
「そうですねえ、ほら、前に将軍の奥様を床に縛りつけて、ノコギリで交替しながら切り刻んだでしょ。あれ、素敵だったなあ。あれ、もう一度やりたいなあ」
「・・・ドレークの妻のアストラッドか。あの女はよく泣き騒いだなあ。なかなか息も絶えずにな。しかし、兵の妻を切るとなると、その夫がまた裏切るかもしれんからなあ」
「まあ、なにを心配なさってるの。兵士の一人や二人、どうなろうと平気ですわ。それとも、ザツオ様、クラインのことを、もう飽いてしまわれたの?」
「馬鹿な。我がお前に。愛しいクラインに飽く。そんなことがあるわけないではないか。我は死すともお前のものじゃ。身も心もな」
「まあ、うれしいわ。フフフ、では、ザツオ様。お願いをきいてくださるのね」
「もちろんじゃ、もちろんじゃ、血を見よう。二人でな。真っ赤な血を」
「ああ、うれしい。クラインはとっても感じてきましたわ」
「おお、そうか」
「ザツオ様、抱いてください」
「おお、こうか」
「もっと、もっと強く」
ザツオとクラインは重なり合い、激しく熱気を放った。
しかし、窓から午後の強烈な陽光の差し込む部屋は二人の官能が高まるにつれ、ますます、ひんやりとした冷気に包まれていった。冷たく。まるで地獄の風が吹いているかのように。
2
(水の匂いがする)
(あたりはすっかり明るくなったようだ)
(四日目の朝)
(一体、ここはどこなのかしら?)
(それにしても体が痛い)
(この苦痛にあとどのくらい耐えなければならないのだろう)
イア姫は目を覚まして、かなりの速度で移動する牙犬の振動を感じながら、考えを巡らしていた。
王女は目隠しをされ、うつ伏せのまま、牙犬の背にのせられ、両手両足を牙犬の四肢に縛り付けられている。屈辱的な姿勢であり、それが四日も続けば一種の拷問であった。王宮で気を失い、意識を取り戻した時にはもはや牙犬の背で揺られていたのだ。
「止まれ!」
聞き覚えのある男の声が叫んだ。
ふと、王女を乗せた牙犬の足が止まった。
周囲にあわただしい気配がする。
王女の心に希望が沸く。
(追っ手が来たのではないか)
だが、その希望はすぐに打ち砕かれた。
歩み寄る足音も、王女の耳元で聞こえる男の声も何事もないように落ち着いていたからだ。草を踏み、何者かが近づいて来る気配がする。
「王女様、ご気分はいかがですか」
一瞬、男の問いかけを無視しようと考えた王女は会話の魅力に逆らうことができず、ほとんど無意識に返事をしていた。
「イライラします。それに体が痛い」
「なるほど、ひょっとして腹がへったのでは? きっと空腹でイライラしているのですよ」
そう言われて王女は自分の空腹を意識した。誘拐されてから口にしたのは水だけだった。そして言った。
「なるほど、おなかがへるとこういう気分になるものなのね」
「ハハハ。さすがだ。育ちが違うというのはこういうことだ。つまり、王女様は初めての空腹を体験なされているわけだ」
男はそう言いながら、王女の戒めを解き始めた。
「窮屈な姿勢をとらせて申し訳なかったな。追っ手より早く森を移動するためには、これが一番だったのでね。そして・・・」
王女は手が自由になったのを確かめた瞬間、男の方へと四日間たまりにためた怒りをパンチとして繰り出した。しかし、それはむなしく空を切った。
「そして、王女様の体力を奪う効果も抜群だ」
王女は痺れた体を震わせた。
「さ、目隠しをとってあげましょう」
イア姫は自分に目隠しを取る力も残っていないのを自覚した。
目隠しが取られると王女はゆっくりと目を開き、周囲を見た。
目の前に大きな川があった。そして、牙犬と男たち。そして屋根つきの川船。
その景色が揺れた。王女は抱き抱えられ、牙犬の背からおろされたのだった。男の体臭を嗅ぎとり、王女はもがこうとするが、体に力が入らなかった。
王女はやんわりと地面に降ろされた。
立ち上がることはできなかったが、なんとか半身を起こすことには成功した。
朝露が王女の体の火照りをひんやりと冷やす。
目の前にはふてぶてしい笑顔をもらす男が立っていた。王女を王宮から、さらい、牙犬の背中にくくりつけた男、森の盗賊アクアポリーと名乗った男が。
額のかすかな傷痕が気になる他は魅力的といえる整った顔立ち、そして、王宮の剣士を思わせるたくましい体。背中には大剣を背負っている。
男は柔らかな、しかしどことなく皮肉っぽい調子の声で言った。
「これからの旅はもう少し楽になりますよ」
イア姫は今度は黙って、待っていた。体の痺れが消え、立ち上がる瞬間を。牙犬に走りより、牙犬を奪い、この盗賊たちから脱出する機会を。
(あの牙犬は私の指示に従うだろうか。しかし、それしかない。待つのよ。もう少しで体が動くようになる。もう少し。あと、ちょっと)
しかし、それは無駄な待機となった。男の後ろに鉄の檻が運ばれてきたからだ。
「檻の中なら手足が自由にのばせますからね」
王女は絶望の表情を浮かべ、なす術なく男が自分を檻に放りこみ、扉の鍵がかけられるのを見守った。
ようやく檻の鉄棒を握り締める力が戻って来た。
王女は鉄棒を両手でつかんだ。
その時、檻の外から王女の目の前に金属のカップが差し出された。
「急に堅いものを食べると体に悪いですからな、まあ、このスープをお飲みなさい。なかなかいけますよ」
イア姫は男を睨みつけながら、仕方なくカップを手に取った。男に投げ付けてやろうという考えはスープの匂いに拒否された。王女は湯気ののぼるスープに口をつけた。口惜しいことにそれはこの世で一番美味な食べ物のように感じられた。
イア姫の様子をじっと見つめていた男は王女がスープを飲み干し、顔を上げ、目が合うとニヤリと顔を歪めた。
「お気に召しましたか」
王女はニコリと笑みを返した。アクアポリーは王女の笑顔にドキリとして自分の笑いを引っ込めた。
王女はカップを差し出して静かに言った。
「お代わりをいただきます」
アクアポリーは思わず吹き出した。
「ハハハ。こりゃ、肝のすわったお姫さんだ。それに、こうしてみるとききしにまさる美しさだ。牙犬の背中に縛られて三日三晩。体はすっかり汚れて、匂うほど。そのあげくに檻の中から安物のカップを差し出して聖牛のスープをおかわりする女。そんな女がこんなに美しいとは、まさに奇跡だ。さすがはアーンの娘と呼ばれるだけのことはあるな」
王女はアクアポリーの笑いを無視してつぶやいた。
「おかわりはなしですか?」
アクアポリーは笑いを抑えつつ、ようやく言葉を返した。
「はいはい、ただいま、お持ちいたしましょう」
男は仲間に声をかけ、スープを持って来させた。
王女はカップを受け取ると、今度は狙いすましてスープを男の顔にお見舞いした。
「アチチ」
顔にスープをあび、アクアポリーが飛び上がった。
「ホホホ」
王女は高らかに笑った。
何事かとかけよってくる盗賊たちをアクアポリーは手で制しながらうめくようにつぶやいた。
「とんだはねっかえりだ。なるほど、檻は確かに必要だな。あいつの言う通りだ」
そして、顔を手でぬぐいながら、手下に命令を下す。
「さあ、王女様のお食事はおしめえだ。檻を船に運び込め」
それから、王女に向かって言う。
「今度、こんな真似をしたら、飯を抜くぞ」
王女は心底、それは困ったという顔をした。
盗賊アクアポリーはその顔を見て、言葉につまり、ガクッと肩を落とした。
「あいつとは誰ですか」
唐突に王女が尋ねた。アクアポリーは手下によって担ぎあげられた檻の横で王女を見た。
「それは、船の中でゆっくりと話そう。先は長い」
王女は盗賊たちに運ばれて、揺れる檻の中で言った。
「あの、川はカリフル川ね。どこへ行くの?」
アクアポリーは素っ気なく答えた。
「カリフル川を下ればウクリルに着くに決まってる」
「盗賊さん、アクアポリーといったかしら、できれば檻は景色の見えるところにおいてね。だって船でカリフル川を下るなんて初めてなんですもの。ね、お願いします。アクアポリーさん」
アクアポリーはチラッと王女を見た。そしてつぶやいた。
「なるほど、王女ってのはこういうもんか」
王女はアクアポリーのつぶやきなど耳に入らぬ様子で目の前に迫るカリフル川の岸辺の景色に見入っていた。
王女の横顔を窺いながらアクアポリーは妙な表情を顔に出した。
そして自分の心が様々に変化するのを感じた。
(なるほど、この王女は魅力的だ。あいつの計画に従い、冒険と思いつつ、姫を攫ったが、牙犬に縛って三日も走ったら、死んでしまうか、あるいは屈辱で自ら命を断つとか、そんな恐れもあったのに、この王女ときたら、まるで、気ままな旅でもしているような顔してやがる。そして、俺は、なんだか、ウクリルで、この王女を売り飛ばすのが、惜しいって気までしてきやがった。おい、五千万モルの取引だぞ。大きな村を十や二〇、襲ったって稼げねえ金額だ。だってえのに、この女を手に入れて、情婦にしてえって気分が、どんどんふくらんで来る。この女を抱いたら、もう他の女なんて、紙屑のような気になるんじゃねえかな。・・・おい、何を考えてる。アクアポリー。世の中の奴らに血に飢えた森の盗賊と恐れられる、大盗賊団の首領の、この俺様が。女に惚れるだと。・・・まあ、いい。お宝を拝んだら、取引相手を殺して、王女を手にいれればいいってことだ。なんだ。簡単なことじゃねえか。どうかしていたぜ。・・・そういえば、こうもあいつの言うとおり事が運ぶとなると、・・・追っ手もそこまで来てるってことになるな)
アクアポリーは背後の森を振り返った。
(ふん、まるでそんな様子はねえが、急ぐにこしたことはねえ)
アクアポリーは配下の者たちに向かって声を張り上げた。
「急げ、檻を積んだら、すぐに船を出せ、野郎ども、モタモタするな」
部下たちは首領の声に答えるように、足早に船に乗り込んだ。
やがて、王女と盗賊たちを乗せた川船は岸辺を離れ、川を急速に下り始めた。
ゆっくりと移る対岸の景色を檻の鉄棒の隙間から眺めていたイア姫は人の気配に振り返った。
盗賊アクアポリーがアトルの実を抱えて立っている。
「とりあえず、一段落ってとこだ」
アクアポリーがアトルの実を投げた。
イア姫は檻の中へ飛んで来たアトルの実を両手でキャッチする。
アクアポリーは残りのアトルの実を船のデッキにおろし、ひとつをつかんでかぶりつく。そして檻の側へ座り込んだ。
「さて、何から話すかな。まあ、あいつのことか。それとも、その前に俺のことか。
これは妙な話なんで、あんたにどこまで信じてもらえるか、それに、なんだって俺があんたにそれを話すのか、実を言うと俺にもよくわからねえ。
俺は、これでも、ドリの城の生まれなんだ。俺の親は兵隊じゃねえよ。嘘のようだが、俺はドリの城主だった男の子供なのさ。まあ、正妻の子じゃなくて、妾腹ってやつだ。正妻の方に男子がなかったんで、跡継ぎっていう奴でもあった。つまり、ひょっとしたら俺は今頃、ドリ城主だったってわけだ。ま、俺がそんないい身分だったころ、俺の親父はあんた・・・つまりイア・リンシード王女の誕生日にはリンシード王宮で王の警護を担当したって自慢してたぜ。
ところが、親父の奴、早死にしやがった。俺が十才の時だ。
親父の弟が、つまり、俺の伯父にあたる男が、ま、ちょっと欲が出たんだな。
俺が邪魔になったんだ。
俺は毒をもられたんだが、死にそこなった。運がよかったのか、どうか、知らねえが、とにかく解毒剤が効いたのよ。
だからって、どうすることもできねえ
。なにしろ、親父の正妻は生きているし、城のことは伯父がガッチリつかんでる。
俺は、遠からず、何らかの方法であの世行きって寸法だ。
そこで、俺の母親は、俺を連れて、逃げ出したのよ。一応、母親の実家はドリの小さな村の領主だったのでね。そこへ、追っ手がかかった。伯父がドリの城兵をくりだしたのさ。俺のお里は村ごと焼かれちまった。全滅さ。俺と母親はもう行く当てがない。
それでも、俺の母親は俺を連れて、落ちのびた。
まあ、俺のことが、その、大切だったわけだ。
なんと、母親はホルまで逃げて、身を売ったのさ。
ホルの売春宿で俺は育った。母親が死ぬまで三年。俺は十三で、独りぼっちさ。
ま、そっから、いろいろあんだけど、結局、十年後には、こうして盗賊団の首領におさまってた。
さ、そこであいつのことだ。
あいつってのも不便だが、俺はあいつの名前をしらねえんだ。
あいつはいつの頃から、俺の夢の中に出てくる男なんだが。
夢っていったって、まあ、普通の夢じゃねえ。
あいつは銀の魔法って言ってた。
・・・へえ、知ってるかい。そりゃ、話が早いや。つまり、銀の魔法ってやつで、あいつは俺の夢の中に忍び込むんだ。それでいろいろと助けてくれるのさ。モアブの森で、小僧の俺が、盗賊どもを従えるのにだって、いろいろ知恵を貸してくれた。どこそこへ行って誰の手下になれ、村のどの家を襲えば金がたんまりある、今度の襲撃はやばいから身を潜めておけって、そんな知恵さ。結果はその通りになるんで、俺は生き延びて、いつしか、盗賊たちのボスってことになった。それが今の俺、モアブの森の盗賊、ウクリル盗賊団の首領、アクアポリー様ってわけよ。
そして、五日前のことだ。あいつが夢に現れた。
あいつはね。魔法使いの衣装を着てる。顔はフードに隠れて見えねえ。年とってんだか、若いのかもわからねえ。で、あいつは夢の中で俺に言った。
『アクアポリーよ。明日。モアブの森に海鷹に乗った女がやって来る。その女はまず、一千万モルの金貨をお前に渡す。お前は女と一緒にリンシード王宮から、王女をさらうのだ。そして、森に戻る。そして部下を少し、そこに残し、その部下たちに海鷹の女は自由にしてよいと言え、海鷹の女は殺してもかまわん。それから、お前は王女を牙犬に縛り付け、モアブの森を南に下るのだ。追っ手もまた牙犬で迫っている。だが、カリフル川まで来れば大丈夫だ。王女を檻に入れ、カリフル川を船で西へ行け。ウクリルのアジトに王女を連れ込むと、そこに五千万モルを持った男がやってくる。お前は王女と金を交換しろ』
つまり、そういうわけだ。
そして、あんたは檻の中ってわけだ」
アクアポリーの長い話を聞き終わるとイア姫は尋ねた。
「海鷹の女って誰ですか?」
「さあ、知らねえな」
「私は誰に売られるのですか?」
アクアポリーはトアルの種を川に吐き出して言った。
「さあ、俺は知らない」
「・・・あなたは、まるで、操り人形ですのね」
「なにっ・・・」
アクアポリーは王女の言葉に胸をつかれたような顔をした。
「・・・俺が、操り人形?」
「ええ、あなたは銀の魔法使いの道具にされてしまっているのよ」
「ハハハ、何を言うかと思えば。残念だが、俺は操られてなどいない。すべては俺の意志さ。あいつの言葉をすべて実行するわけじゃない。俺がいける、大丈夫だと思ったことをやってるだけさ」
「それが、銀の魔法使いの手口なのですよ」
「ハハハ、俺が操り人形だって」
アクアポリーは笑いながら立ち上がった。
そして、そのまま、真実から顔をそむけるように王女の檻の前から離れていった。
イア姫はその様子を見ながら、思いに沈む。
(盗賊の心を夢の暗示が深くむしばんでいる。銀の魔法使いでこれほどの術を使う者は、王国に何人もいないはず。一体、誰が、あの若者を操っているのだろう。そして、私をどうしようというのだろう)
イア姫は陰謀の形をいくつか、思い浮かべ、貴族たちの組み合わせを考えてみた。
銀の魔法使い、王女の生活を知る貴族、王女を王宮から誘拐して利を得る者。
その組み合わせ、その形は増殖し、やがてきりがなくなっていく。
(そうね。王位継承にまつわる陰謀なんて星の数ほどあるってこと。すべては私の買い手って奴を見てから判断するしかない)
それから王女は年若い盗賊のことを考えた。
(アクアポリーの生い立ち。あれは本当かしら。ドリといったわね。ドリの城主は・・・たしか・・・マル・ドリ。ええと・・・そうだ。跡継ぎのいない兄から弟が継承した城だったわ。多分、そうだった。まあ、そんな事件があったとしても、それほど珍しくはない。・・・こんな時、オリョレサがいてくれたら、もっとはっきりするんだけど。なにしろ十年も前の小城の跡継ぎ問題なんて、さすがにわからないわ。・・・そういえばオリョレサは大丈夫かしら。さらわれて、気を失った時、オリョレサの叫び声を聞いたような。あれは私がさらわれたことに対する叫びだったのかしら。それとも、あの盗賊がオリョレサに何か危害を加えたのでは。もしも、オリョレサの命を奪うようなことをアクアポリーがしていたとしたら、私はあの盗賊を・・・たとえ、いかに不幸な生い立ちがその心をねじまげてしまったのだとしても・・・許すことができないだろう)
イア姫はそこで考えるのを止め、ふたたび、川岸の風景を眺め始めた。
(追っ手か)
遠い岸辺の緑色が王女の瞳に映っている。王女の顔に底知れぬ憂慮、深刻な影が瞬くほどの間、浮かんで、消えた。
3
追っ手のソルたちがカリフル川についたのは王女を乗せた船が岸を離れてから七タルトほど後のことだった。すでに太陽は高く輝いている。
牙犬を止めてソルは思わず口に出した。
「やはり川か」
ずっと南へ南へと下っていた追跡の旅が、西へと方向を変え、モアブの森の外側を目指し始めた時から、それは予想されたことだった。
老臣ラダルトが牙犬を降り、焚き火の跡を調べている。
「どうだ、ラダルト」
「距離は大分、つまったかと」
「しかし、船を使われてはまた離されるぞ」
「・・・でございますな」
「ダックル、モアブの森の盗賊は船を持っているのか」
死神ダックルは死んだデクの代わりに与えられた牙犬の上から答えた。
「へい。牙犬よりもいくらか足の早い川船を持ってますぜ」
三日の間にダックルはすっかり、ソルたちの一行に溶け込んでいた。その不幸な生い立ちと身の上を知っているのでラダルトやバロイカたちもダックルを好意的な目で見ている。実際、モアブの森を進んで行くにあたって、ダックルの知識はかなり、役立ち、それゆえに盗賊たちをもう一歩のところまで追いつめていたのだ。
「タロスの様子から見て、盗賊たちは川を渡ったのではないようだ。船で西へ向かったと見て、いいだろう」
ダックルはソルに向けて牙犬を寄せながら言った。
「川を下ったとなると、相当に船足は速いですぜ。まあ、ここらからだと、二日半でウクリルの町に着きます」
「牙犬ならどうだ」
「まあ、急いで四日ってとこでしょうか」
「・・・盗賊たちめ。用意周到だな。まるで、追っ手がここまで来ることを知っているようだ。・・・仕方ない。ここで、しばらく休もう。食事をして、牙犬にも餌を与え、各自、体を休めろ」
ソロの部下たちは牙犬を降りる。それぞれの顔にはさすがに疲労感が浮かんでいる。
(無理もない。ほとんど休まずに三日間、モアブの森を抜けて来たのだ)
部下たちの顔色を観察するソルの目元にも疲れはにじんでいる。
火を囲んで、ソルたちはスープとチーズ、そして干しパンの簡単な食事をとっていた。
疲れた体に少し力が戻って来た。
「シュライム」
ソルは無駄口は疲労の元と考えつつ、気分転換を求めて、死神ダックルから贈られた宝剣・・・アレキサンダーライト・ソードを手に取って、黒の魔法使いシュライムに話しかけた。
「この剣をどう思う」
「まさにアレキサンダーライト・ソードに相違ありませぬ」
「魔法の剣だと聞くが・・・」
「アレキサンダーライトとは超古代の神の名を宿した宝玉と伝えられております。アレキサンダーライト・ソードの魔法は霊石にまつわるもの。すなわち、至高の知恵と呼ばれる紫の魔法に属することゆえ、私のような、最下級の黒の魔法使いには詳しいことは分かりませぬ。しかし、貧しい知識の中で申し上げるなら、そもそも、霊石とはそれ自体が生きており、考えることもすれば、力も発する宝石だと言われています。けれど、霊石の力とふれあうためには究極の魔法・・・つまり紫の魔法と呼ばれる体系が必要不可欠とされております。ソル様もご存じのように、紫の魔法を極めた者が絶えて久しく、私の知る限り、すでに一人として、この世に紫の魔法使いが存在せぬ時代となって、その実態、利用法もまた失われてしまったのでございます。・・・伝説ではアレキサンダーライト・ソードは光の剣とされ、太陽の光によって力を発し、百人の敵を一度に倒すと言われます。とはいえ、すでに長い間、それを実行した者もなく、効能は疑われ、いわゆる宝剣として王家の墓所に埋葬されてしまったそうです。おそらく、墓あらしはそうした墓所から剣を盗みだしたのでしょう。・・・アレキサンダーライト・ソードはダークエメラルド・スピア、キングルビー・ナイフとともに、古代においては王家の武器として一般的なものであり、複数存在したとも言われております」
シュライムは口を閉じた。
「一度に百人を倒す武器か」
ソルは無敵の武器で武装し、世界を平定する古代リンシードの兵士たちの姿を思い描いた。
(結局、この剣に象徴される絶大な力がリンシード王家を生んだのだ。その力が失われ、王国の結束も乱れていく。それは当然といえば、当然のこと。無慈悲な力だけでは人は幸せにはなれぬ)
ソルはアレキサンダーライト・ソードの柄に嵌め込まれた霊石を見つめた。霊石は太陽の光を受け、神秘的なグリーンの輝きをたたえている。
「だけど、ソル様」
ソルの左に控えていたバロイカが声をあげた。
「ただの剣としても、それはかなりのわざものと、俺は見ますね」
「バロイカは剣には目がないからな。欲しければ、授けるぞ」
「えっ、本当ですか。いや、でも、その」
と、バロイカはラダルトの顔色を窺った。ラダルトはすでに(控えろ。この身の程知らずの若輩者が)と言わんばかりに目を光らせている。
「あの、・・・俺も、お仕えしてから、これといって、何の手柄も立ててませんから、その、一発、大手柄を立てて、それから、褒美としてもらうってことに。・・・そうだ。王女様を無事に取り返したら、いただけるってことにしましょうか?」
たまりかねてラダルトが口を出す。
「こら、何がしましょうかだ。おこがましいにも程がある。バロイカ。お前の父上が聞いておったら、この場で切腹してしまうわい。ソル様、バロイカを甘やかすのもいい加減にしませんと」
「ハハハ、ラダルト、そう怒るな。よし、そうしよう。バロイカ、イア姫様を取り戻したら、この剣はお前に授ける。そうなると、お前の剣を欲しい一心で、イア姫様が無事に戻るような気がするからな」
「うわっ、約束ですよ。ソル様」
無邪気に喜ぶバロイカのために、ラダルトが爆発しそうになるのを手で制止して、ソルは立ち上がった。
「さあ、行くぞ。出来る限りの速さで西へ向かう。シュライム、ウクリルの町に密偵は何人いる?」
「十人が二組、潜んでおります」
「それと連絡をとっておけ。もし、盗賊たちが町へ入ったなら、居場所をつかんでおくようにと」
「承知しました」
「よし、出発だ」
牙犬にまたがったソルはもう何度目になるか、数え切れぬ祈りを心の中でつぶやく。
(イア姫、どうか、無事でいてくれ。私は他に何も望まぬ。幸運の神マンバよ。願わくば姫に恩恵を)
「行け、タロス」
ソルの号令とともに牙犬たちは一団となって、走り出した。その上空を数羽の海鳩の影がよぎる。シュライムが放った小さな伝令たちは西へと、あっと言う間に飛び去った。やがて樹木はまばらとなり、まもなくソルたちはモアブの森を抜け、カリフル川流域の平原地帯へと追跡の足を伸ばす。
4
リンシード王宮、庭園の塔、王の間。
人払いをして、一人きりになったリンシード十一代の王帝オルトスタ・リンシードは夜の闇をそのまま取り入れた暗がりの中で深いためいきをついた。
(すでにイアが誘拐されて五日がすぎたか。長いな。この苦しみは。しかも、いつ終わるのか先も分からぬ。この王国を支配する‥‥‥絶大な力とはこうも無力であるのだな。
ふっ・・・ただ王の子として生まれたがゆえに手に入れた王座。そんなもののためにたった一人の娘が命を危険にさらされるとはな。そして、この老いた体をむなしく、ベッドに横たえて、ただ待っておる。
一体、誰が愛し子を奪っていったのだ。どんな運命が朕をこれほど苦しめるのだ。
もしも、いまわしき者が王座を欲しいというのであれば、そんなものくれてやる。さっさと名乗りをあげるがよい。姫を無事にこの手に。この肉の落ち始めた老いぼれの手に戻してくれるのならば。
さあ、誰なのだ? 我が妹、メモール・アライソ・リンシード、そなたか?
・・・それとも、ザドの大男、トレウル・リンシード、そなたか?
・・・それとも、まさかとは思うが、タル・シニャック・リンシード、そなたか? 我が愛し子を手に入れ、事実上の皇太子となるというに。朕が死ぬのを待ち切れぬというのか。そなたにはもったいないほどの王女なのだぞ。けして親ばかなどではない。我が愛し子、イアこそが、この王国を、もう一度、栄光に導く、朕はそう思っておった。わかっておるぞ、タル大公、そなたの望み、このリンシードの王たらんと、日々、その胸を焦がす思いを。だからこそ、我が愛し子をそなたに嫁がせる決心をしたのだ。そなたの養う兵がこの王宮を荒らし、イアの命を奪う前にな。・・・いや、これは妄想だ。さすがにタル大公もそこまで愚かではあるまい。
・・・では一体、誰だ。分裂の危機にあえぐ、この王国の希望を奪っていこうとする愚か者は。王族ではないのか。あのカローン城のムリノの言うように反乱する民たちなのか。 ・・・朕にはもはや、力がない。腐りきった官僚たち、おごりたかぶった貴族たち。そうした者を正すことはできない。それに気付いた時にはもはや年を取り過ぎていた。だが、イアならば。我が愛し子ならば、それが可能なのだ。もしも、リンシードの民よ。この王の無力を恨むがゆえに、イアをさらったのならば、それは、自分で自分の首をしめることなのだぞ。戦乱が国を覆うぞ。その兆しが見えぬのか?
・・・ホルの反乱か。そんなことを言っておったな。兵をさしむけるようにと言ったはずだ。困ったことに・・・朕にはすべてがどうでもいいことに思えてしまう。イアを。イアをこの手に抱きしめて、その笑顔を見るまでは・・・」
暗闇の中で、眠れぬ夜を過ごす、憔悴した王の頬を涙が伝う。
王の孤独を癒す者はどこにもいなかった。
そして、リンシード王宮、南の塔、大公の間。
すでにタル大公は深い眠りに落ちている。
どのような危急のときであろうとも、すぐに眠ることができる。それがタル大公の性格だった。いびきもすごい。まるで妖しい獣のようないびきがふと途切れた。
『現れたな』
夢の中でタル大公はつぶやきをもらした。
それが常の夢でないことはタル大公にはすぐにそれと知れる。
灰色のゆらめき、目に映る、すべてがゆらめいて、しかも色をもたない。
そんな夢の世界に漂うタル大公の目の前に魔法使いのローブがひらひらと舞う。
『お前は誰だ。どの城の魔法使いなのだ』
タル大公は決まり文句のように問いかける。
『・・・答えぬのだな』
タル大公は灰色のゆらめきの中で、そのものがゆらぎ、さだまらぬ形であるのに、何とか、その顔を確かめようと夢の中で、目をこらす。
『わかっておる。これで何度目か。汝は余の前に姿を見せず、言葉を吐くのであろう。無礼であるが、許す。言いたいことを言え』
ゆがみ、おぼろげながら、魔法使いらしい相手は灰色の世界で含み笑いをもらす。
『・・・大公様、お許しいただきありがとうございます。しかし、お忘れのようなので、もう一度申し上げておきますが、私は世を捨てた銀の魔法使い、名はありませぬし、どの城にも属しておりませぬ。ただ世を捨てたとはいえ、リンシードの王家には恩義を感じる者、それゆえ、こうして、つたない銀の魔法にて、恐れ多くも大公様の夢枕に立たせていただくのです。すべてはリンシードの行く末を案じる一心なのでございます』
『そうであったな。名無しの魔法使いよ。どうも夢の記憶とはあいまいなものだ。何を知っていて、何を知らぬのか、それさえも定かでない』
『それであるからこそ、銀の魔法は成り立つのです。夢の世界で知り得たことをすべて現実に持ち帰ったならば、因果の法がみだれますゆえ。・・・いや、そのような魔法の講釈をしている場合ではありませんでしたな。大公様は、今、困った事態に巻き込まれているかと』
『・・・困ったといえば、まあ、そうだな。何しろ、花嫁を奪われたのだから』
『大公様、事態は深刻ですぞ』
『そうであろうか』
『老いたる王は英知を失われました。それゆえの花嫁の失踪なのです』
『どういうことだ?』
『花嫁が消えて、次にあなたが消える。そして、花嫁は戻るがあなたは戻らない』
『何?』
『王はあなたに玉座を譲る気がなくなったのです。王のすすめる酒を飲んではなりませぬぞ』
『なんと、王が余を毒殺すると申すのか?』
『この度の婚礼はすべて、あなたを陥れる罠だったのです。あなたを油断させ、あなたを混乱させ、そして死者の国へと送り込むための』
『馬鹿な、そのようなまわりくどい』
『おお、純真な大公様、王家の者は大公様のような無垢な心を持っていないのですよ。陰湿で険悪な心に支配されているのです』
『・・・』
『大公様、こうなりましては大公様に残された手はただ一つ』
『・・・』
『王を殺して玉座を手に入れるのです』
『王を殺す!』
『殺すのです』
『殺す』
『殺す』
『殺す』
『殺す』
灰色の世界で大公と魔法使い声が交錯した。
ベッドの上でタル大公は目を開いた。
汗をかいて、ひどく喉が乾いている。
(夢を見ていたようだか、はて、何か、恐ろしいことを、夢の中で聞いたような気がするのだが、・・・思い出せぬ。ふん、このような中途半端な状況が余をいらだたせ、訳の分からぬ夢を見させるのか。王女の生死がはっきりせぬうちは、身動きがとれぬ。いや、手はないわけではない。いっそ、王を)
大公はその思いつきに体を震わせた。
そして、侍従の兵を呼んだ。
「誰か、酒を持て」
侍従の兵が答えるのを聞きながら、タル大公は闇を見つめた。理由の分からぬ不安が大公の心を乱している。
(まるで誰かが余の心に宿っているような、‥‥‥ふん。馬鹿な)
ランプの明かりが灯り、侍従の兵が酒のグラスを差し出す。タル大公はその酒を一気に飲み干した。しかし、不安はなかなか去っていかなかった。
リンシード王宮。西北の塔。鮫の間。
蝋燭の炎が揺れている。
この部屋の主、リンシード第四王位継承者、メモール・アライソ・リンシードは夜の化粧を終え、ベッドの背にもたれていた。胸元の広くあいた、アドニス風の、ナイト・ウェアはいささか、年齢にそぐわなかったが、夜の暗がりの中であれば、性的愛の女神ロマリモーンを連想させないこともなかった。
聖牛の月の第一夜。窓辺では夏を思わせる風がそよそよとカーテンを揺らめかせていた。
やがて、扉が静かに開き、訪問着のムリノ・カローン・リンシードが現れた。
迎えたメモールの声には甘い響きがある。
「遅かったのね」
「王宮内でありますれば、一目をさけていますうちに、遠回りをしてしまいましてな。なにしろ、我ら二人の関係を勘ぐられるのも、気持ちの良くないことで。・・・愛の密会ととられても、陰謀を巡らせているととられても。・・・まっ、実際は両方をしてるわけですが」
ベッド・サイドのテーブルにひろげられた男性用のナイト・ウェアを手にとりながら、老いた小城主は意味ありげな笑いを浮かべる。
メモールはベッドから起き上がり、飲み物をボトルからグラスへと移す。
そそがれたアトル酒によってグラスの氷の溶ける音がかすかに響く。
「王帝陛下の具合はいかがですかな」
「だいぶ、まいっているわね。なにしろ、年をとってからの一人娘だから。心痛が体調にはっきりでているわ」
「ふむ。では明朝はお見舞いに行くとしましょう」
「・・・どうやら、王女はウクリルに向かっているようだわ」
「ほほう。さようで」
「ホルの反乱のおかげで、兵を動かすのに都合がいいわ」
「すると・・・」
「アライソ暗殺団はもうウクリルに向かっているはず」
「なるほど。・・・幽閉という手もありますが」
「それは無駄よ。兄上にもしものことがあれば、継承順位は変わるのよ。私は十位以下に落ちてしまうわ。王の妹ではなく、アライソ家の当主としての順位でしかなくなるのよ」
「そうでしたな」
「あの、小生意気な王女には死んでもらうしかないのよ」
「・・・それで王女がウクリルに向かったというのは」
「まず、確実ね。タル大公の弟は王女の行方をつきとめつつある。・・・まったく、あの海鷹使いがさっさと王女を殺していれば面倒はなかったのに」
「いや、幸運とも言えますぞ。ソル・シニャックがああいう動きをするとは予想外でしたからな。あの若者、どうやら、王や兄への忠誠心だけで動いているのではありませんな」
「フフフ。そうね、あれは恋をしてるのだわ」
「どちらにしろ、二人を除くにはこれ以上なく良い機会ですな」
「そう。・・・しかし、私はどうも気になることがある」
「ほう?」
「・・・もうひとつの陰謀が、私たちの張り巡らしたものではなく、まったく別の陰謀があるような気がするのだよ」
「・・・もうひとつの陰謀とは・・・」
「まさか、ムリノ、私を裏切るようなことは」
「私が? あなたを? 愛しい女を裏切ると?」
「アッ」
いつの間にか、二人はベッドの中にもつれあっていた。
ムリノは手慣れた動作で、メモールの体をほどいていく。
「愛しいあなたを裏切るなど・・・」
あえぎ始めたメモールを見下ろしながら、ムリノの瞳にはゾッとするような不気味な光が揺らめいていた。しかし、メモールはすでにうっとりと目を閉じている。