(1)憂鬱な前夜祭
1
・・・蒼穹が広がっている。
惑星ブレイアの赤道から南北に広がるホルベイン大陸。その中央砂漠地帯の以北は広範囲で高気圧に覆われていた。その古き記録によればこの伝説的な物語は第十一銀河帝国衰退期の出来事であったらしい。
それは人類史に普遍的な統合されれば分裂し、分裂すれば統合されるというエピソードの一つに過ぎない。
しかし、その時にあってはそれはまぎれもない現実なのである・・・
王都リンシードの上空には雲一つない。穏やかな春の風に吹かれ、道行く人々の顔にも明るさが満ちている。いや、異常な活気にあふれていると言った方がいいだろう。フェスティバルへの期待に民衆は否応なく浮かれているのだ。フェスティバル、それも特別のお祭りの開幕はいよいよ今宵。何と言っても明日行われる王女の婚儀を祝う宴だ。いつもは王が王宮にいることさえ忘れているような酒屋のオヤジさえ、浮かれた客を当て込んで酒宴の仕込みに忙しい。
「ほうら、やっぱり、イア様のお相手はシニャック公だったろう。だってお似合いだものねえ。あたしのにらんだ通りさ」
「ふーん。なるほどな」
などと、いつもなら聞き流す女房の知ったかぶりの言葉にも相槌をうつ始末だ。
オヤジにとって王女が誰と結婚しようが知ったことではないのだが、お祭りで騒ぐことには賛成だ。みんな大いに騒いでたらふく飲んでもらいたいものだ。景気のいい話だ。
王都リンシードのほとんどの人々が似たり寄ったりで勝手な期待をふくらませ、異様な熱気を生み出している。
そんなリンシードの民の騒々しさに、昨夜、王都に到着したソル・シニャック・リンシードはやるせない気分を味わった。
牙犬のパワーと海鷹のスピードを併せ持つという高貴な家柄。シニャック・リンシード家の次男であり、第三王位継承者のソルは人一倍、「気」に敏感だった。王都全体に婚儀への淡い好意が漂っていることを察知してソルは思わず顔をしかめるのだ。
ソルの兄である第二王位継承者タル・シニャック・リンシードと第一王位継承者イア・リンシードの婚儀。かたや、武勇に優れ、たくましい体に端正なロイヤル・マスクの青年大公。かたや、知性にあふれ、リンシードで一番とだれもが絶賛する美貌の姫君。極めて正当なカップルではないか。どこからも文句の出ない組み合わせだ。しかし、できるなら誰か文句をつけてくれ。そんな気分だった。
なぜなら、言わずもがなのことだがソルはイア姫に熱い恋心を抱いていたからである。
もちろん・・・それはソルの胸に秘められた片思いなのだった。
朝日のあたらぬ西の塔の窓からも流れ込む・・・昨夜より一層浮かれた街の「気」にベッドの上でソルは眉をひそめる。領地のラングーン城で婚儀の知らせを受けてから、王都リンシードまでの旅程を含めた三週間というもの、彼の心は砂嵐のように荒れ狂い、一刻も穏やかになることがなかった。
(なぜ、兄上となのだ。いや、なぜ、私が兄上でなかったのか)
問いつめてもせんない問いかけをもうどれほどくりかえしただろう。
ラングーン城の謁見室で知らせをもたらした使者の前で知らせの書状に目を落としながら、商都マーオーの街を抜けセラ街道を北上する牙犬の鞍上で揺られながら、幼年時代を過ごしたリンシード王宮の西の塔の扉の前で鍵が届くのを待ちながら。
(なぜ、兄上がイア姫と)
ソルは憂鬱な思いをふりはらうようにかっては南の塔の寝室に据え置かれ、独立してからはソルの領分となった西の塔ラングーンの間に運び込まれ、子供の頃そのままの、しかし今はぴったりのサイズになった、ベッドの上でのびをした。
そのわずかな動きを察したように控えの間から静かな声がする。
「ソル様、お目覚めでしょうか」
(ラダルトか)
ソルの心は無限回廊に迷いこんだような問いかけから、一瞬、離れた。ソルの従者の中でもとびきり古い、何しろソルが母親の胎内にいるときからのお守り役であるラダルトの声の意味を考えたからだ。
(ラダルトから声をかけてきたな。ということは私が目を覚ますのを待っていたということか。つまり、何か知らせたいことがあるわけだ)
ソルは控えの間のラダルトの表情を思い浮かべた。年老いたとはいうものの父エル・シニャツクの剣士長として腕をふるい、鍛えぬかれた体の上に・・・申し分なく仕上げられた豪胆な顔。しかし、そこには手に負えぬ腕白小僧を預けられ、もたらされた苦労の数だけ皺が刻み込まれている。
(ラダルトは気がききすぎるのだ。そして忠義すぎる)
ソルは最近になってようやく、自分の振る舞いのひとつひとつがどのようにこの老臣の心を痛ませてきたか反省するようになり、髪の毛がほとんどなくなったラダルトの頭のことまで思いやるようになったが、それでもラダルトのほとんど表情のでない真面目な顔を思い出すとわがままの一つも言いたくなるのだった。
「呼んではおらぬぞ」
控えの間でラダルトが沈黙した。
ソルはたちまち気がとがめ、ベッドから起き上がり、もう一度思いっきりのびをしてから言った。
「とっくに起きてるよ。入って用件を申すがよい」
ラダルトは正装に身を固め、ひっそりとソルの部屋の扉を開けた。
「なんだ、ラダルト、もう正装しているのか」
ソルはうかつにも何のための正装かということを忘れ、ラダルトのいつになくきらびやかな衣装に注目した。
「似合うじゃないか、どっからひっぱりだしてきたんだ、その金銀の刺繍いりスカートは」
「ラングーンの街でかねてより仕立てさせておりました。イア姫様とタル大公様のご婚儀ともなれば格別の慶事でございますゆえ」
ラダルトの答えにソルの心はたちまち曇った。しかし、もはや、それを表情には出さない。言葉がその分だけきつくなる。
「それで、朝から何の用だ」
「兄上様、タル・シニャック・リンシード大公殿下より、南の塔で再会を祝したいと朝一番で知らせがございました。昼より前のなるべくはやい時間にと」
(何だ、そんなことか)
昨夜とて、面会には遅すぎるという時間に到着したわけではない。顔を会わせるのがうとましいので旅の疲れを理由にラダルトを挨拶にやったのだ。
「兄上様におかれましては、ソル様の体調をひどく気遣われておいででした」
(筋肉野郎め、私が虚弱体質といつも決めてかかる)
ソルはうずまく複雑な思いをストレートに兄への悪口として心の中に吐き出した。
「わかった。昼の鐘が鳴る前には私も金銀のスカートをはくよ。お前とおそろいにしてくれ」
「めっそうもありませぬ。ソル様には特別仕立ての礼装が用意してあります」
「・・・用はそれだけか」
「イア姫様からも同じようなお使いが」
ソルは窓に目をやった。見えるのは青空とはるか下方のリンシードの森。
(もはや決められたことだ)
あきらめに似た決意をしながらソルは言った。
「南の塔。それから王女の間。そしてお許しがあれば陛下。挨拶回りはこの順だ」
「御意」
「・・・他になにか?」
「・・・これは未確認の情報ですが、ホルの街で何か変事があったとか」
「ホルで?」
「つまり、ホル城主のザツオ・ホルベイン様のご到着が遅れているための噂話の域を出ないのですが」
「なぜ、それを早く言わん」
「慶事には不吉なことですので」
「シュライムに真偽を確かめさせろ」
「勝手ながらすでに手配いたしました」
ソルは窓辺からラダルトを振り返って言葉を捜した。
(ぬかりないな。じい。お見事。あっぱれ。さすがだ。いつもながら・・・)
それらの言葉を飲み込んで、ソルは問いかけた。
「反乱だと思うか」
「今のところは何とも」
「・・・この街は平和だな」
ソルの言葉の飛躍にとまどってかラダルトは口をつぐむ。ソルは遠くを見る目で言葉を続けた。
「王女の結婚に街中が浮かれまくっている。まるでリンシードの神話物語そのままに永遠の平和が約束されているようだ。だが、もはや、この王都を一歩出れば、平和など、どこにもないではないか。どこの城でも後継者問題がくすぶり、悪政を行う城下では人々が牙をむきだし始めている。トルエーン地方での大飢饉では暴動が起きた。それなのにだ」
「ソル様のご心痛、察しまする」
「こんな心配症にだれがした。お前の教育が悪い」
「面目ございません」
「あやまるな。責めてるわけではない」
ソルは再び窓辺に戻った。しばらく間があり、考えぬいたような口調でラダルトがソルの背後から声をかけた。
「ソル様、何か、この婚儀に問題があるとお思いでしょうか。その、何かご不満が」
(その通り。ラダルト。お前に分からぬわけはない。ラングーンの城で知らせを受けてからの私の態度。そりゃあ、みっともないものだったものな。だからといって、いかにお前といえどもこればかりは仕方あるまい。野生の岩熊を生け捕りにしろといえば深手を負いながら五〇〇ダーンもあろうかという岩熊をかついできてくれたお前でも。だから私もたまには心を隠す)
ソルはラダルトに背を向けたまま答えた。
「兄上と王女の結婚だ。これほどめでたいことはない。不満なんかこれっぽっちもないさ。ただ世界の行く末を案じたまでだ。それよりも今は冷たいデユーンのジュースが飲みたいな」
「ただちに」
ラダルトはソルの見えないところでかすかに納得のいかない顔をのぞかせて控えの間に下がった。しかし、「気」に敏感なソルにはラダルトの心が手にとるように分かった。
(ラダルト。じいや。いくらお前が心配しても、どうにもならぬことがあるのさ)
ソルは控えの間で用意していたデューンのジュースがグラスにそそがれ、氷のふれあう音を聞きながらためいきをついた。
2
リンシードの王宮は広大で果てしない。
すべての回廊を巡り渡るには一ヶ月はかかるという話だ。
どれほどの権力が集中したのだろうか。今では想像することもできない。リンシード王国全土の富と、技術と、民の力がすべて結集したのだ。建築に百年。王宮の完成からすでに二百年を経過した今もその威風はまったく損なわれていなかった。
塔の数は七十七あり、中央のリンシード王座のある庭園の塔の回りを螺旋を描くように配置されている。これをつなぐ回廊は慣れぬものを惑わすに充分な迷路となっていた。地下には本物の迷宮リンシード・ラビリンスもある。
しかし、幼年時代をこの王宮で過ごしたソルはいりくんだ回廊に迷うこともない。
西の塔から南の塔へと続く近道をしかも景色のいい場所を選び、供の者を数人引き連れて足早に歩いていく。
「しかし、ソル様。さすがですな」
ソルの後ろに付き従いながら声をあげたのは護衛長、ラングーン生まれのバロイカだった。隣に並ぶ大柄のラダンテに勝るとも劣らない巨漢だが、年齢はずっと若い。ソルよりは年上だが二歳とは離れていない。病床のバロイカの父親バロームに変わり、ソルの護衛長として抜擢されたばかりである。ラダルトが横目でバロイカをじろりとにらむ。ソルに対してあまりに気安いと思われるバロイカの口のききかたを非難する視線。しかし、ソル本人が許していることなのでそれ以上文句は言うことはない。
ソルは振り向きもせず聞き返す。
「何がだ?」
「だって、こんなどっからどこまでが廊下でどこまでが部屋か分かんないような城中を迷いもせずにスイスイと」
「子供の頃にたっぷりと探検したからな。奥の塔まで勝手に入り込んで、ラダルトに救出されるまで、迷子になったことも一度や二度ではない」
「ラダルト様に?」
「苦労かけたよなあ。ラダルト」
ソルはちらりとラダルトを振り返った。一瞬、なつかしい情景を追っているような目をしていたラダルトはたちまち表情を引っ込めた。
再び前を向いたソルは微かに笑みをもらしながらつぶやく。
「思い出したくもないか。なにしろ、私が一週間も行方をくらましていたときなど、あのかんしゃくもちの父上にもう少しで切腹させられるところだったものな」
ラダルトはようやく口を開いた。
「亡きお殿様に対してそのような口をきくものではありませぬ」
ソルは笑いをこらえながら言った。
「それ、あそこの階段を上ったら南の塔だ。バロイカ、言っておくが、お前はあまりしゃべるな。兄上は私と違って礼儀にはうるさいからな。下手な口を聞くと首が飛ぶぞ」
「はっ」
背後でバロイカがいつになく緊張した気配を確認してソルは階段に足をかけた。
50ジーフほどの回廊をのぼりきると王家の紋章である牙犬リンシードとシニャック家の紋章である海鷹シニャックの彫刻のついた巨大な扉があった。
ラダルトが音もなく進み出て、南の塔の衛兵にソルの身分を告げる。
衛兵はソルに最高級の敬礼をして扉をあけた。
ソルは懐かしい回廊を歩くうちになごみかけた心が再びくもりだすのを感じた。
「待ちかねたぞ」
大公の間にソルが足を踏みいれるなり、声が響いた。
正面にソルの父親である前シニャック大公の肖像画が、その下に父親と瓜二つの兄、タル・シニャック・リンシード大公が立っていた。
ソルはわざとらしいほどにうやうやしく臣下の礼をとり、挨拶の言葉を述べた。
「お久しぶりでございます。兄上様。この度はまことにおめでとうございます」
そこまで言ったところでひざをついて下を向いていたソルの肩が痛いほどの力でつかまれた。
「何を水臭い。お前に似合わぬぞ」
タル大公はそう言いながらソルの体を引き起こすなり、両腕をまわして抱きしめる。
「わが弟よ」
ソルは仕方なく抱かれたままになっている。兄好みの香水の匂いがムッときて思わず息をとめる。タル大公はソルの息が続かなくなるほどまで抱きしめて、それから腕を放し、今度は片手で強引にソルの肩を抱くと星鹿の毛皮でしつらえた長イスにソルと一緒に腰をおろした。
「何年ぶりになる?」
ソルはようやく息をついて答えた。
「父上の葬儀以来ですから、三年ぶりでしょうか」
「もうそんなになるか。するとお前はいくつになった?」
「この秋で十七になります」
「そうか。余とはちょうど十歳違うのであったな。それで体の具合はどうだ?」
「いえ、一晩眠りましたら、もうすっかり」
「そうか。大義であったな。余が思うにラングーンの城は潮風が強くてお前の体に悪いのではないか。余が王位についた後はシニャック城に移るがいい。シニャックにはよき温泉もあるし、お前にとって格別の保養になると思う」
すっかりリンシード王きどりの兄にソルは思わず言葉を強めた。
「兄上、お言葉がすぎます。リンシード王帝陛下はご健在であります」
タル大公の笑顔がピタリと止まった。
「そうか、少し気が早かったか」
ソルは兄の機嫌を損じたことを一瞬で悟った。その気分の変動が激しいことは充分知っているつもりではあったが、何が兄の気分を害するかを知るのは至難の技だった。
(この気分屋の兄が王に)
ソルはそのことを思うだけで暗い気持ちになった。
(どれほど首がとぶことになるのか)
そう思わずにはいられない。
すでに兄の顔にはかんしゃくの気配が浮かんでいた。
ソルは言葉を選んだ。
「しかし、私のようなものにお気遣いいただき、ありがとうございます」
タル大公の顔色がパッと明るくなった。
「何を申す。たった一人の弟ではないか。その弟の身を案ずるがゆえ、つい、あのようなことを言ってしまったのだ。王位のことはな。だが、まあ、それが現実のこととなるのもそう遠いことではないだろう」
ソルは先程と同じセリフを言いそうになるのをグッとこらえた。そしてかろうじて言葉を返す。
「まさしく」
兄の顔がほころんだ。
「余はお前に期待しておる。余がリンシード王に。お前がシニャック大公に。そうなればリンシードは兄弟二人のものだ。お前は余の片腕として力をふるうのだ」
「もったいなきお言葉」
「だから体を大切にせねばならんぞ。お前は余と違い脆弱なのだからな」
「ありがたきお言葉」
「さて」
タル大公は納得がいった顔をして立ち上がった。
「他に挨拶回りもあるであろう。行くがよい。そうだ。わが妻に会ったなら伝えるがよい。今宵が待ち遠しいとな。フフッ、あのイアをこの手に抱くかと思うと本心からそう思う」
ソルは表情を変えぬために渾身の力をふりしぼりながら立ち上がった。
「では兄上、失礼いたします」
すでに一人恍惚の表情を見せる兄を残し、ソルは大公の間を後にした。
3
「見ろ。あれがアシタロの作と言われる六頭の牙犬像だ」
ソルは回廊と回廊の間の広間の一つで中央に据えられた巨大な黄金像を指で示した。
「ほう、こりゃたいしたもんだ」
バロイカは黄金色に輝く牙犬を見上げて目を丸くする。
「リンシード建国にあたり、リンシードの六人兄弟の足となった牙犬を題材にしている。牙犬の名前は右からエス、チー、ルド、タロス、サラ、クロ。すべて黄金製だ。一頭でも盗めば、一生、遊んで暮らせるぞ」
「ソル様、そろそろ、急ぎませぬと、王女様との約束の時間をすぎますぞ」
ソルの解説をラダルトがさえぎった。
ソルは肩をすくめる。大公の間を出て南の塔を後にしてから、ソルの足はすっかり重くなっていた。バロイカが王宮を初めて見ることを口実に、あちらこちらで立ち止まり、説明を始める。つまり、最後の無駄な抵抗だ。王女と会うまでの時間を引き伸ばしても時の流れを止めることはできないのだが、ソルがスケジュールを消化することで否応なく迫って来る今宵の結婚前夜の宴をなんとか先送りにしたい。そんな心理が無駄なあがきをみせているのだった。
ソルの心にはまたあの問いかけが戻っていた。
(王女が兄上と。何故?)
あの、自己中心的で、横暴で、かんしゃく持ちの、王女よりも十才も年上の、すでに五人も愛人を持つ、歴代のシニャック大公の中でも最悪の色狂い。ソルの心の中で兄への罵詈雑言が爆発する。
その兄とソルの恋する王女をむすびつける運命にソルは納得がいかない。三年前に会った時の王女の姿を何度心に思い描いたことだろう。
(あの、見るものの心を溶かす笑顔。まさに伝説の乙女アーミーの再来)
恋するイア姫が兄と夫婦になるなどということはソルにとってまさしく悪夢だった。
苦悩するソルはいつの間にか、庭園の塔の入り口にたどりついていることに気がつく。
そして、扉の前になつかしい顔を発見した。
「オリョレサ」
思わずその人の名前がソルの口からもれる。
オリョレサは王女の乳母であり、王女付きの女官長だった。
五歳になるまでは出入りを自由に許されていた王女の間で、ソルもイア王女も遊びつかれるとオリョレサの語るリンシード神話物語を聞きながら昼寝を楽しんだ。
物心つく前に死別してしまい母親を知らぬソルにとってオリョレサは母性の象徴でもあった。
オリョレサはソルに豊満な体を折ってうやうやしく礼をすると昔と変わらぬ優しく穏やかな声で語りかける。
「ソル様、王女様がお待ちかねでございますよ」
「わざわざ、出迎えてくれたのか」
「王女様のお命じで。さあ、どうぞ、王女の間へ」
オリョレサの合図で庭園の塔の王女の間への扉が衛兵によって開かれる。
ソルはつかの間、憂鬱を忘れ、王女の間へと続く回廊に足を踏み入れた。
「まあ、ソルなのね。たくましくなったわ。ずいぶんと背が伸びたのね。私よりも十カトクは高いみたい。三年前は私と同じくらいだったのに。ラングーンの水は栄養があるのかしら。三年も会わなかったなんて。嘘のようだったけれど、三日ではこんなに変わりはしないものね。でも、お顔はあまり変わってないみたい。髭でも生やしているのかと想像してたの。素敵な衣装ね。かっこいいわ。ラングーンにもいいデザイナーがいるのね。旅は大変だったの。お疲れになったと聞いたけど。でも顔色も良いみたいだし。また、仮病でしょう。ソルはさぼり上手だものね。熱を出して寝込んだなんて言って部屋教師を騙して歴史の講義をさぼって牙犬でこっそり遠乗りに行ったりしてたもの。あの賢い牙犬。この世界で一番強いエスは元気かしら。乗って来たんでしょ。タロスと同じ牙犬小屋につないであげたんでしょうね。牙犬だって兄弟ならなつかしくてうれしいはずよ。私なんかタロスを遊ばせっぱなし。十五歳を過ぎた王女が牙犬に乗ってはいけないなんて誰が決めた法なのかしら。ひっぱたいてやりたいわ。あなたの部屋にもぎたてのディーンを一籠とどけておいたけど、味はどうだった。ディーンが大好きだったでしょ。ディーンはやはりこの季節が一番よ。春から夏へ移る今頃が。温室ものじゃ、イマイチでしょ。なんてったってディーンは春の神様と夏の女神様の縁結びの妖精ですものね。覚えてる? 庭園のディーン畑で妖精捜ししたでしょ。もうずっと昔のことね。ねえ、ソルったら私にばかりしゃべらせて。声を聞かせてよ」
ソルが顔を見せるなり、ソルに飛び付いて、ソルの両手を握りながら、ソルの目を見つめ、爆発するように言葉を紡いだイア王女がようやく、息をついた。
「饒舌の悪魔ツーツーがとりついたのかと思いました」
ソルは顔にかかる王女の甘い匂いのする吐息に頬を赤らめながらやっとの思いで言葉を返した。少し離れたところに立っているオリョレサが口を挟む。
「まったくですよ。イア様。まるでいつもおしゃべりを禁じられているみたいじゃありませんか」
イアはオリョレサをふりかえり言った。
「禁じられていないって言うの。そりゃ、オリョレサ。あなた相手ならいつものように何でもしゃべれるけれど、この部屋を一歩出たら、まともな話相手なんて一人もいないじゃない。まして、いつも一緒のあなたとじゃ自分と話してるみたいで、ちっともはりあいないわ。私はソルとおしゃべりすることを、この三年間、毎晩のように夢に見たのよ。牙犬や海鷹のこと。迷宮や回廊のこと。新しく覚えた神話の歌のことを私が話してあげて。それから、見たこともないセラ街道の町、マーオーやウクリル、タネーンの様子をソルの口から聞きたかったの。待ち焦がれたわ。それなのに昨日着いたくせに顔も見せないで寝ちゃうなんてひどいじゃないの。私、くやしくて涙が出ちゃったわ」
ソルは思わず、イアの顔を見つめ返した。
十四歳の時に別れたときよりもずっと女らしさを増し、リンシードの天使と噂に聞いた美貌はまさに光輝くような瞳を中心に様々な細部まで神の配慮が施され、賛美されるために生まれた者の気品を漂わせていた。抱きしめたい。そんな衝動がソルの体を駆け巡った。しかし、辛うじて思いを堪え、ソルは静かな声で言った。
「イア様のお気持ちも知らず、挨拶が遅れ、失礼しました」
イアの目が大きく見開かれた。
信じられぬものを見たいぶかしさが表情にあらわれる。
「まあ、なんてこと。冗談なんでしょ。ソル。その口の聞き方はなによ。まさか、あなたも三年たったら貴族の仲間入りなの。あの退屈で、心なく、儀式ばって、死んでるみたいな人たちのお仲間に。リンシードで一番の悪ガキのあなたが。私の下着をスリンダの塔のてっぺんに旗の変わりに結びつけた人が。私、恥ずかしくて三日も寝込んだのよ。まさか、もう大人になったなんて言わせないわよ。どんな猫をかぶっているの。オリョレサだって信じないわよ。サリダの祭りの時にオリョレサをプールに突き落としたのが誰か、私はちゃんと教えてあげたんだから」
誘いをかけるようなイア姫の瞳にほどかれそうになる心の帯を無理やりしめながら、ソルはありきたりの言葉を返した。
「若気のいたりでしでかしたこと、お咎めとあれば、この場で首を落とします。どうかお慈悲を」
イアはまだしばらく期待を持ってソルを見つめ、やがて、あきらめたようにやんちゃな笑顔を引っ込めた。それは何よりも大切なものをなくしてしまった子供の悲しみの色を通過して、とりすました、これ以上高貴なものはないという自信に満ちた、そして実際に美しいリンシード王女の顔へと変貌した。声にはまだすがるような疑いの響きが残っていたが、言葉はすでに形式的な語句に変わっていた。
「なつかしさのあまり、ありもしない昔の御伽話をしてしまいました。どうか、お気になさらぬように。この度は私のような者の婚儀のためにラングーンからの長旅、まことに大義でした。どうか、ゆるりと疲れを癒し、今夕の宴へ参列してくださるようにお願いします。あなたの素晴らしい兄上様に嫁ぐことができるこの身の幸せをどうか、お察しください。あなたの義理の姉になれることもまた同様に我が身の無上の喜びです」
伏し目で王女の言葉を聞いていたソルははりさけそうになる胸の痛みにたえかねて、顔をあげ、王女の瞳に微かな潤いを見つけた。
ソルはうつむき、儀礼的な言葉を短く返して、すべての運命から逃れようとするように王女の間を退出した。
4
「ソル・シニャック・リンシードでございます」
リンシード王宮の中心、庭園の塔の中央、リンシード玉座の間。
はるかな高みにいるイア姫の父親。オルトスタ・リンシード王帝に挨拶の言葉を述べるソルの胸中にはイア姫の冷たい笑顔が焼き付いていた。語る言葉と心の言葉が分離して、まるで体が二つに分かれてしまったようだ。
「王帝陛下にはご機嫌うるわしく・・・」
(イア姫、この私にどう振る舞えというのだ。あの野心家の兄はほっておけば戦でもしてこのリンシードの玉座を手にしようとする男。兄上と姫の結婚はこの王宮を戦乱で汚さずにすむ唯一の道なのだ。それを止める手だてなど、この私にあろうはずがないではないか。すでにリンシードの神話時代は過ぎ去ったのだ。王国は分裂の危機にある。リンシード王家とシニャック大公家の婚儀は国の安定にはかかせぬ。町の人々が戦火に巻き込まれぬためにも。ええい、私は何を弁護している。何に対して心を隠そうとしているのだ)
「ソル殿」
ソルははっと我に帰った。
円形階段の上の玉座からオルトスタ王帝がソルに呼びかけている。
「ソル殿もたくましい若武者になったものだな。冥府のそなたの父上、先代のシニャック大公もさぞや胸をなでおろしていることだろう。噂は聞き及んでおるぞ。ラングーン城の若君はリンシード最高の牙犬使いだそうな。どうだ、姫の婚儀の後で、この老いぼれと一手交えてみるか」
オルトスタ王帝は齢六十歳。白髪を肩にたらし、笑顔を含んでソルを見下ろしている。イア姫はオルトスタ王帝が四十歳を過ぎて設けた一粒種だった。
(王帝陛下。もし、あなたにもっと早く子供があれば、兄の野望に火がつくこともなかったかもしれないのですよ)
兄タルはイアが生まれるまで第一王位継承者として教育を受けていた。タルの玉座への執着はその時期に形成されたのだ。ソルの心には理不尽ともいえる王帝へのうらみがましい気持ちが生じていたが口から出るのはぬけぬけとしたお愛想だった。
「私のような若輩ものではまだまだ王帝陛下のおよぶところではありませぬ」
その刹那。
(!)
ソルは「気」の乱れを感じとった。
(何だ)
ソルは心を集中する。
(何かが起こっている)
唐突に、玉座の扉が開き、伝令の兵士が駆け込んできた。
「何事か?」
玉座の衛兵が問いただす。
「賊が王宮に侵入しました!」
その場にいる者すべてが呆然とした。リンシード王宮に賊が忍び込むなどということは前代未聞のことだったからだ。
伝令の兵士が言葉を続ける。
「賊は王女の間に」
その言葉の終わらぬうちにソルは走り出していた。
控えの間にいたラダルトとバロイカに声をかける。
「ついてこい。何か変事があった」
叫びながらすでに王女の間への回廊に向かうソルをあわてて二人の大男が追いかける。
王女の間では剣の打ち合う音が響いていた。
衛兵と侵入者が剣を交えている。床には衛兵が一人、そしてオリョレサが倒れ伏していた。
ソルは王女の間に飛び込むなり、床に落ちていた衛兵の剣を拾いあげた。
その瞬間、衛兵がのけ反る。侵入者に首を突かれたのだ。
「何者だ」
ソルは倒れた兵士の前に出て、侵入者に声をかけた。侵入者は無言でソルに剣を向ける。毛皮のベストを着た目つきの鋭い男はニヤリと笑った。
ソルが間合いをつめようとしたした刹那、男は身をひるがえして窓から飛び出した。
(馬鹿な)
窓の高さは地上から百ジーフはある。ただではすまない高さだった。
追おうとしてソルはオリョレサのことを思い出した。彼女はまだ床に倒れたままだ。ソルはその体を抱き起こして、つかの間、ホッとした。まだ、息があったからだ。オリョレサは足元から血を流している。どうやら賊に足を薙ぎ払われたらしい。
「オリョレサ、しっかりしろ」
ソルの声に意識を取り戻したオリョレサは苦しそうに叫んだ。
「姫様が」
「どうしたんだ」
「海鷹に」
ソルはハッとして窓を見た。
「バロイカ!」
バロイカを呼んで、オリョレサを託すとソルは窓にとびついた。
かなり遠方の青空に二羽の海鷹が飛び去って行くのが見える。その背中には人影が確かに見えた。
「イア姫!」
ソルは一声叫ぶと踵を返し、海鷹の飼い場のあるアリサの塔へ走る。
(おそらく、間に合わぬ)
ソルの心に不吉な思いが生じていた。