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鵬程の前夜、定離への向背 1

「おはようございます」

 グランの声で大地は目を覚ました。天井が徐々に透明になっていくのが見えた。どうやら大地が眠った後、透明な青いグラデーションは外界の光を遮る物に変化していたらしい。客室でのあの朝陽の昇るイメージはここでは浮かんでこなかった。


 それがこの部屋の特徴なのか、それとも大地の言葉にグランが何かしらの配慮をしたのかは測りかねたが、眠りのサイクルの一番気持ちよく起きられるタイミングで目覚めたような爽快感があった。


オグヌイから大地の体温や心拍数、血圧などの情報を読み取った後、グランは言った。


「経過時間を考えると、副反応は出ませんね」

「そうか、なら朝寝の後は朝湯を満喫させてもらおうかな」

 現在に伝わる史実や伝承が、誰かの恣意的な改編によって、本来の姿から遠く離れて、あるいは真逆に成り代わり在る場合、真意を捻じ曲げる相手にどう向き合おう。


 ──自分にとっての是が他人の非であるなら、永遠に歩み寄る事はかなわないだろう。


「では食事の用意をしてきます。ごゆっくりどうぞ」

 ほんの少し、大地の言葉と唇の端に浮かんだものの関係性について不思議そうにしていたが、グランは大地の着替えをソファの上に置き、食事のオーダーをロボット任せにはせずに自ら部屋を出ていった。


 大地は起き上がり、窓もしくは壁の向こうを眺めた。昨夜とは一変してそこに広がるのは淡色から濃色まで目で違いを見分けて数えるとすれば途方もないほど多彩な緑であった。はるか遠くまで続く大森林。ずっと向こうに山脈の輪郭がおぼろげに見えている。


 ──街、都市、大自然、まるで位置関係がつかめない。

 それでも美しさと壮大さを堪能するだけで今は、いい。なんとなくではあるが、宇宙から見たスビニフェニス星の、遠ざかるにつれて暗い闇に溶け込んでいくかのような姿を思い起こすと、不思議だともなんとも思わなくなっている自分がいる。


 ──こんな贅沢な時間も今日まで、だな。

 客室で最初に目を開けた時から今までの事が、ついさっき起こった出来事のように、また遠い過去のように思い出される。この星の人々には感謝してもしきれない思いを抱く。ほんの短い間に、ここまでの温情と有り余るほどの好意を受け取った。


 報いることが、その存在すら認知されていなかったどこにあるかも分からない星の、一個人の持つたわいもない情報だなど、あまりにも小さすぎはしないか。グランの言葉に甘えるとしても、もっと他に自分にできることはないのだろうか。


 離れるとなると、そんなことばかりが思い浮かぶ。ああ、自分は本当にここが好きなのだ、と大地は思った。


 マーシの演奏したマリマトラムの曲を再生し、その情感あふれる音色を聴きながら、大地は露天風呂でゆったりとした時間を過ごした。昨夜のワクチンは、どういうふうにとははっきり言えないものの、大地の身体に何かしらの変化をもたらしている。具合は決して悪くはないが、そういうかすかな異質な感覚も相まって、まるで自分が湯治場にでもいるような気になる。


 グランが大地のための宇宙船を用意する一日を、大地はここで静かに過ごせばいいのだ。それはグランの思惑のうちの一つなのかもしれなかった。


 ──今日がここで過ごす最後の日になるのか。

 いざとなるとやはり寂しさが募る。ここにいて欲しい、ここにいたい、互いの間には何の障害もないはずなのに、大地を地球へと向かわせる潜在的な思いは、グランが言ったように必然なのかもしれないと、大地は思った。


 大地がなさなくてはならない何かがあるのかもしれない。それは地球にとってなのか、スビニフェニスにとってなのか、あるいはそのどちらにも関わることなのか、誰もその答を知っている者などはいないし、その何かはないのかもしれない。ただ、グランの言葉は全てではなくてもそのうちのいくらかを知っているのではないか、ということをにおわせる。


 成るようになるだろう。心がそうしろと言っている以上、大地は自分の心に従うことを決めていた。



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