過ぎ越し方、先往く方 20
川べりから一段高い場所に着いて、グランはベンチに腰を下ろした。大地も続いて隣に座る。
「大地はお酒を飲む習慣はありますか?」
グランがグラスを傾けるしぐさをした。
「付き合い程度には」
「そろそろ宴が始まりそうです」
グランの言葉で質問の意味が分かった。
空が茜色に染まりつつある。大地はこの一日で触れたたくさんの事柄を記録しながら、そして感嘆しながら、グランと共に今日という日を過ごしたのだ。その心の中には不安よりも断然に多くの充実という感覚が満ちていた。
下方に目をやると、たくさんの人々が忙しそうに動き回っている姿が見える。その中にはマーシの姿もあった。
「宴?」
「大地を歓迎するために誰かが企画したのかもしれませんね」
グランの言葉が本当なのか冗談なのか、どちらとも判断できかねて大地は言葉を続けることができない。そんな大地に、グランは静かな眼差しで、そう思っていて構わないと言っているようにも見えた。
いつしか夜の帳は降り、それまで気付かなかった地球の月ほどの大きさのスビニフェニスの衛星が、白く輝いてその存在を強調している。いつからともなく音楽が鳴り響き、肉を焼く匂いに混じって、甘くかぐわしい香りも漂ってくる。
宴。クラシックに分類されるような雨音を聴かせたマーシが、今度はデジタルのマリマトラムを演奏している。周囲には自分たちの核心を主張したような衣装を身にまとったデジタルアラティク弾きや、グランの説明によるとドラムのような楽器はエトゥクレフという名で、その演奏者が、得も言われぬ独創的な世界を披露している。
足元から突き上げてくるような、激しい衝動。もっと、もっと高く、もっと、もっと遠くへ、究極を目指してどこまでもどこまでも突き進んでいくような……
音に包まれていた大地の肩に、グランの手がそっと置かれたのを感じた。大地がはっと我に返ると、グランは堤の下方、野外ステージの方を指さした。その先には大きく手を振って、大地を呼んでいるマーシがいる。
──あの感覚をもう一度分け与えてくれるというのか。
特別な何かができるわけでもないのに、そうやって同じ場所にいて同じ音を紡ぎ出していくことに至幸を求め始めている自分を、大地は意識していた。
マーシとのセッションは、ワンダのスタジオの時ともまた違っていて、わくわくと心が弾む気がした。それは新しい感覚だった。自分の中で奥深く眠っていた何かが不意に覚醒したような気がした。自分の範疇ではないと決めつけていたのは、もう少し深く知ろうと思わなかったから。興味の対象外を片っ端から排除してしまうことで可能性を狭めてしまう自分とはさよならだ。何かが身体の奥深くから湧き上がってくるような高揚感……
しばらく音の世界を堪能した後は、次の演奏者にステージを譲った。マーシがとても楽しそうに幾種類もの飲み物や肴をドローンに積み込んで堤に向けて飛ばした後、大地はマーシと共にスロープを駆け上がり、ベンチで待っているグランの元へ戻った。
「素敵でしたよ。マーシも新境地に突入ですね」
三人は乾杯をして、グラスを空ける。
「僕は君の声と表現の仕方が好きだよ。うん、とても好きだ」
マーシは演奏が終わって心のモードが変化したのか、それとも演奏の余韻を楽しんでいるのか、グラスを口に運ぶペースが早い。それともいつもそうなのだろうか。グランが何も言わないなら、この酒は地球のものとは何かが違うのだろう。
大地は、ふと自分が『この感覚、この居心地の良い環境を失いたくない』と思ってしまえば、この先どうすればいいのだろうと思った。
──まあ、いいか。明日以降考えよう。
静かに揺らめく心地良さに、大地はグランとマーシを見やる。グランもグラスを空けながら、それでもしっかり酒食と音楽とに興じる人々を見守っている。まるで、グラン自体がこの世界を包み込んでいるみたいに。
「始まったよ」
誰かの声が聞こえた。
一斉に空を見上げる人々に釣られて大地もそちらへ視線を移す。まるでフェニックスが空を舞っているかのような、あれは花火でもなく、ドローンのマスゲームとも違う、レーザーか何かの光の饗宴なのかとも思うが地上から伸びる光は見えない。ふうわりとした優しいトーンの無数の滲む光の点が、火炎の翼を羽ばたかせながら舞う鳥の姿を形作って、あたかも生きた鳥が飛んでいるように、優雅に、美しく空を彩っている。
どこかからの投影なのか。光の点の正体が球体のドローンなのか、それともまったく別物なのか。そんなふうに理屈を考えることさえ後回しでいいやと思わせてくれるような美しい光が織りなす光景に、今はただこの時に、身を任せるだけだ。大地は今日のように純粋に時を楽しむことができたのは、いったいいつぶりなのだろうと思った。




