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過ぎ越し方、先往く方 17

 タリアの家を出て、再び街を散策するように歩き出す。しばらくして、街のいたる所にあるベンチの一つに、グランは座ろうと誘った。


 大地はこの街に漂う静かで穏やかな雰囲気が一体何を礎に成り立っているのか、人々がどうしてこうも明るく屈託なく、また向上心にあふれ、篤さに抱かれているようなのか、と思う。


 愛想笑いなら嫌というほど見てきたから、真の優しさというのは身に染みて分かる。少なくともこれまで生きてきたところでは。大地の人生の中で安寧の日々はほとんどないと言ってよかった。警戒心、身構えてしまう癖が大地の心を縛り付けている。


「不安なのですか?」

 不意にグランが尋ねた。唐突過ぎて大地は言葉を選び出すことができなかった。


「大地は誰をも信用できないくらいに心を閉ざしてきたのでしょう?」

 そう言われて、グランには隠し事などできないのだろうという、むしろ安堵感を覚えた。一緒にいても強がりや虚栄、不信感などに縛られる必要のない、あるがままの自分をさらけ出せる存在なのだと思った。


 ──そのせいなのか。

 幾度か感じたあの不安感は、束の間の幸福の次にやってくる負の反撃を警戒してしまう自分の悪い癖。そして、タレスターフの穏やかさが本物なのだとしたら、これこそがかつて味わったことのない温かさであり、それ故に心の芯まで届くからなのだと。


 グランの冬空の色をした虹彩はとても澄んでいて、落ち着いた深い静けさをたたえている。人は目に、表情に、言葉に、それから文章にも、絵画にも、写真にも、音楽にも、その者の本質を現す。同じ手法を用いたとしても、同じ景色を切り取ったとしても、そこには、はっきりと創る者の心が落とし込まれている。


 浅い霧に包まれた幻想世界や、耽美主義を貫く緩やかな時の狭間や、毒の染み渡った禍々しい暗闇など、直接的な表現とは別の、奥底からにじみ出てくる、まるで心を映す鏡のようだ。それらは隠そうとしても隠しきれるものではない。


 大地が生きてきた蟻地獄、あるいは底なし沼のような環境にあっては、自分というものを守るために心を閉ざすことは必至であったのだ。


 グランからは、静かで、寛容で、凛として、なのに何にも揺るがない強さを併せ持っている自然体そのものという印象を受ける。


「手を」

 そう言ってグランは大地の左手を取り、細く綺麗な指を絡ませた。大地も同じように指を曲げ、グランのなすがまま、委ねる。


 ──いったい何を?

 大地はグランの瞳から目を逸らすことができない。どんどん瞳の奥深くまで自分が吸い込まれていくような感覚に陥る。やがて、自分の精神と肉体が分かたれたような浮遊感を覚えた。身体は疲れ切って休みたいのに、神経が研ぎ澄まされているような、逆に脳が休息を求めているのに、肉体にパワーがみなぎっているような、幽体離脱とでも言えそうな乖離感。


 ──あの時も同じように……。

 新しい領域の情報を膨大に取り込んだ結果、『簡単な演算にどうしてこんなに時間がかかるのか』、『何故すぐに答が出せないのか』、まるで自分の身体の外から大地の脳を観察している大地の意識があった時のことを思い出す。


 一語一語辞書と首っ引きで、一文一文翻訳機にかけて読まなくてはならない言語で書かれた、大ざっぱな説明書を片手に、用途も構造も知らない機械をたった一人で組み上げていかなければならないタスクを、短期間で処理しなくてはならなかった時。通常ではとてもじゃないがさばききれないほどの膨大な量の情報が流れ込み、脳内のネットワークを伝わっていくのを待機している処理しきれない信号を抱えながら、同時に日常生活というものにもキャパシティを割かれながら、バックグラウンドでは取り込んだものを知識として咀嚼し、理解し、応用するという手順が遅々として実行されていたといった感覚だった。


 あの乖離感は処理が終わった途端に何事もなかったように消えてしまった。同時進行でゆっくり、ゆっくりと実行されたのか、それとも普段使わない領域が補足的に作業に駆り出されたのかは分からないが、脳の働きが普段と違っていることは実感できた。


 病巣が脳に転移した患者から、『自分はどうなってしまったんだ』と、向こうとこちらとを自分の意思ではなく行き来していることによる、意識と行動とが同調しない嘆きを聞いたこともある。


 通常とは違う細胞の働き。グランとつないだ手の辺りだけ特に大きく脈打っている気がする。まるでそこだけが大地の身体から独立して存在でもしているように。


 そうしているうちに、ピッ、ピピッと身体の中で何かが閉じ、同時に別の何かが開いていくような感じがした。


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