過ぎ越し方、先往く方 12
エンディングを繰り返し終えた時、大地が歌うのを聴いていたマーシが立ち上がった。大地に向かって一度立てた人差し指を、もう一回なのか、もう一曲なのかどちらにしろ、ククイッと誘うように曲げると、ワンダのマリマトラムの椅子に座る。
マーシが何をしようとしているのか様子見のために、大地はコード進行を繰り返す。一度聴いて覚えてしまったらしいマーシは、それにメロディを乗せてきた。
──この感覚は……
まるで、まだ足を踏み入れたことのない領域に、大地の手を強く握りしめ、マーシがいざなうように引っ張り上げていくような感覚。
君のことを教えて、君の世界をもっと見せて、君の想いを受け止めよう、そして君に伝えよう、君がこれから知る場所、新しく開かれていく世界、マーシの感性が静かに、時折激しく流れ込んでくる。
普段以上の演奏ができてしまう相性があるという。これが、そうなのか、と大地は思う。もちろん、大地は音楽を生業としてはいないが、それでもそれは充分すぎるほどに実感として得られた。音響担当が誰であるか、にこだわるミュージシャンの知人のことをとてもよく理解できる気がした。
心が、想いが、寄り添い響き合い、不思議に満ち足りた空気感が広がっていく。
山の頂に立った時に見える景色は、どれだけ自分が小さな存在かを思い知らせる。自分の中にある闇や荒んだものたちがきれいさっぱり消失していくような清々しさ。
沈む夕陽が海の色を染めていく、ただそこに在るだけで涙が出てくるほどに美しい自然が語り掛けるものは、心の中にある弱さが本当は、自分自身が作り出した幻影のようなものだと思えてしまうほどに大きく深い。
マーシの音楽がまるで普段とは違う世界へ連れて行ってくれるようだった。
(行くよ)
そう、言われた気がした。マーシは今度はタレスターフの音楽の世界へ大地を引き込んだ。最初はコードだけ合わせていたのに、いつの間にかメロディを紡ぎ出せている自分に気付いた。大地の深層部分に眠るものをマーシが迷いなく引き上げている、といった感覚だった。
気が付くと、幾人かが打楽器や管楽器、弦楽器を手に取り演奏に加わっていた。
グランが何かの調整をしたのか、スタジオ内の照明も変化する。その光はまるで、心の在りようを反映しているふうにも見えた。
いつの間にかギャラリーも増え、ライブ会場と化したワンダのスタジオは、踊り始める者、ハミングする者、演奏する者、観、聴く者たちの笑顔であふれている。そうやって、どれだけの時間が過ぎたのか。
「さあ、みんな、お腹がすいたろう」
もう昼時なのか、朝食とは違う、いかにも家庭料理という幾品かを、どこかの女将といった印象の女性と、娘たちが運んできた。
──これが、タレスターフの流儀なのか。
自由、なのだろうか。正の方向だけを向いているようなこの世界では、相反する何かが存在しないでもバランスが取れているのだろうか。
皆でたっぷりと音楽を堪能し、食事を済ませると、大地、グラン、そしてマーシが残り、それぞれがスタジオを後にする。
「ワンダ、鍵盤の押さえ方で、どちらの弦を強調させるか変化を付けられるのはいいと思うよ。でも、このままでは演奏家泣かせだ。その技術に走るようになったら指を壊しかねないからね」
マーシがワンダに倍音マリマトラムを弾いた感想を告げた。
「分かった、分かった。もう少し鍵盤を軽くしとくよ」
ワンダが頭を掻きながら答えた。
「うーん……」
どういう意味なのかマーシは小さくつぶやいた後、大地に向き直って握手を求めた。その表情は何か新しいものを得た、という輝きで生き生きとしていた。
「今日はありがとう。楽しかったよ」
「こちらこそ。ありがとう」
マーシの手を握り返し、大地も同じ気持ちでいるという思いを込めて答えた。
帰っていくマーシの後ろ姿を見送っていた大地の後ろで、グランが不意に大地の手を取った。重ね合わせ、何もない空間に向けて手を伸ばす。何かに触れたような気がしたと思うと、グランの手の動きなりに大地の手は空間からカイを取り出していた。
グランが言外にカイへ書き込むタイミングを提案してくれたことは分かった。
──そうか、こういう感覚なのか。
忘れないうちに、と大地は幾つかの単語と断片的な文章、そして明確な意思を綴った長い文章を書き加えた。




