過ぎ越し方、先往く方 9
「裏を返せば、何もしない者には生きていく環境だけが与えられる、ということか」
「平たく言えば、食べて寝る場所があるだけ、ということです。ユーゴはああして日がな一日風景を眺めているのですが、実際は雲や風や、時には足元を過ぎる昆虫の行列を観測、観察しています。気象についてのアナログ的観測官とでもいいますか。彼が晴天の日中急に自宅に戻ると、近くの者は慌てて洗濯物を取り込みますよ」
大地には遠くの山並みに掛かる雲の動きを眺めているユーゴの姿が想像できた。
グランの言葉にはユーゴに対する親しみが込められていた。ここには生きる意味を持たない者などいない、ここには意味のない人生などない、そう言い切っているほどの思いがあふれていた。
『マタイによる福音書』の一節が大地の脳裏に浮かんだ。
モーリはいつの間にかティニたちと同席していて、三人が一緒になって熱心に何かを話し合っていた。マルベレクの思惑は的を射ていたようだった。
「ところで、次に何を書こう」
大地は、スビニフェニス星にとっては初めての地球からの来訪者であり、つまるところとても良い素材であると言えるだろう。推測ではなく、事実を知ることのできる生きたサンプルなのだ。大地が書いたそれは未知の惑星についての確かな情報となる。
「そうですね。地球人である大地に関するデータはとても貴重ですし、あらゆる項目を知りたいところです。ではこうしましょう。このカイには、大地がスビニフェニスにいる間の行動や感じた事と地球についての比較を含めて、箇条書きや単語でも構わないので記録してくれますか。一日の終わりにでも、気の付いた時にでも、自由に」
「そうしようか。その方がいいかな」
大地は了承した。
しかし、と思う。もし逆の立場で地球に異星人が現れたらいったいどういう措置が取られるのだろう。この星のように、『大切なお客様』扱いをするのだろうか。いや、それは極秘扱いとされ、人知れないどこかの研究所の一室で、脳波計やら何やらをたくさん身体にくっつけて軟禁状態の研究対象とされる、そんなイメージしか湧かなかった。
温かな待遇はこの星の人々の特徴、性質によるのだろうか、とも思う。それでは、少なくとも地球人と何がどう違うというのだろうか。いや、それこそ地球人を中心に据えた発想こそがナンセンスだ。星の一生に比べたら人間の一生なんて計る単位すら比較にならない。「あり得ない」という井の中にいるような否定的思考はやめようと思う。
グランはそんな大地をやはり静かな微笑みで見つめて、それから立ち上がり一緒に来るよう促した。
「ここが、大地のカイを保管する場所です。慣れるまでは、この場所に仕舞う、この場所から取り出す、という動作をイメージしてください」
そう言って、壁一面の書架を出現させると、一冊分の空いたスペースを指し示した。
一度目を閉じて、自分の動作をシミュレーションしてから、大地はカイを書架に戻した。大地の手からカイが離れた瞬間、書架はまたあの不思議な色に揺らめく色の壁に戻った。
「カイの内容はマルベレクと連動しています。それから、次に書き込む時には、大地がこの星のどこにいてもここにあるこのカイを取り出せるようになります。屋内にいても、屋外にいても」
大地はなんだか別な場所にいる自分が、ここミューズムに向かってどこまでも伸びる腕を伸ばし、行く手を阻むあれやこれやをかき分けるように、縫うように、くねらせながらカイを手にする様子を想像してしまった。いや、それよりは一本のロープの途中にある、離れたA点とB点を強制的にくっつけるような、途中の空間が歪曲して、別な場所とこことがつながるというイメージの方が近いのかもしれない。
「では、外に出ましょう」
グランはそう言い、先に立って歩き出した。大地も後に従う。二人が移動用の空間の方へ向かうのにティニが気付いたようだ。モーリにしきりに何かを質問しているようだったのが、一転その目が大地に注がれる。
ティニの視線が、大地の頭から足元、右から左へとまるで大地を輪切り、縦切りにして検証しているかのように動く。大地はMRI検査でも受けている気がした。




