過ぎ越し方、先往く方 8
「あの子、ティニは」
(人体の神秘に興味を持っています)
途中から聞こえ方が変わったグランの言葉は、大地の脳内に直接イメージだけが伝わったように感じた。グランの唇は言葉の通りに動いているようだ。しかし、それまで室内を満たしていた音、耳から入ってきていた音が消えてしまった。
(教えている方、ルディは定評のある教師ではありますが、実はティニとは思考パターンが違うのです)
そこで再びグランは指を動かした。
「例えば、人体に有害な毒や放射性物質などの項目に触れたとき、ティニは悪影響についての好奇心が膨れ上がり、どんな物理的現象が引き起こされるのか充分に把握しないうちは次から次へと連鎖する疑問のせいで次に進めず、一般的な学習の過程から逸れてしまうのです」
最初の状態に戻った音の聞こえ方で大地は理解した。
──会話をする者同士に、必要な音だけが選択されて聞こえるように設定されているのかもしれない。
「この場所は、デフォルトで音を消す機巧が働いているのか?」
「その通りです。逆位相の重ね合わせ領域は任意に調節できます。もちろん誰もがその調節機能を使用できるわけではないですが。彼、モーリは現在、分子物理学を学んでいて、ティニの知的欲求を満たすに充分な教師役となります。ティニのために新しく開示された部分と、モーリがすでに学んだ部分が重なる、つまり今日この場にお互いが同時にいるというのは偶然ではなく、マルベレクによる意識的思考、つまり必然的提案です」
大地の推測に答えるようにグランは言葉を挟み、それから一人でいた男、モーリを示すとティニの話題に戻った。
「なるほど。音についてはそういう仕組みか。あの子は公式に当てはめて答を導くより、公式そのものを理解したいタイプなんだろうな。それで、その出会いや資料が提供される過程には、常にマルベレクの意識が関わっているということか?」
──まさか、マルベレクのシナリオ通りに人間が生かされているということなのだろうか。
何もかもお膳立てされたレールの上をただ進むだけの人生と言えないだろうかと、大地はマルベレクの意識的思考というものに興味を抱いた。
「モーリがティニにとって最適な資料について助言をするか断るかは、モーリ自身が決めることですし、マルベレクは断らない確率の高い人選をしています。そこでティニの興味が『人体』にとどまるか、新たな分野に発展するのかは、ティニの自由意志に委ねられます」
好きな時に好きな事を学び、したい事をする。貨幣制度のない世界。人々の意欲や意義はどこにあるのだろう。堕落したくなる人間はいないのだろうか。大地は個人の資質や業績に応じて得られる環境が変わってくるという部分に気持ちを向ける。
──他者との比較という認識はないのだろうか。
大地が考えを口にする前にグランは続けた。
「例を挙げるなら有益な研究成果を出した者、人々を感動させる作品を生み出した芸術家には次のステップに進むために必要な環境や資材など、時には猶予さえが必要充分に提供されます。休息が欲しければそれもまた同じように」
グランはランダムに人々の日常や、余暇を過ごす映像をモタルドクで見せた。少なくともそこに見える人々の表情は、目標や希望を持たない人のそれではなかった。
元々がまったく違う社会にいたのだから、完全には理解できないこともあるだろうとは思った。しかし、完全なる暗号通貨を採用するとしたら、売買や対価などの金の動きは数字の移動にすぎなくなる。実体つまり数値という概念をなくした暗号通貨システムと置き換えて考えるなら、大地は、そういう社会制度が成り立つ可能性がなくもない、と思った。評価の方法が変わるだけだ。
肉体労働であったり創作、芸術活動であったり思想であったり、個人が成し遂げたあらゆる事が貨幣という数値ではなく環境で返ってくる、そう考えると騙されたり、盗まれたりすることのない社会は公平であると言えるのかもしれない。




