opening 忘却と旅立ち
ストライズ界の最も高い場所に在ると言われている《光の塔》は、その名の通り《光の神》に最も近い場所ともされている。またそこは、《光の守護者》と彼等を手伝う者達の住む場所でもあった。大小様々な塔がいくつも寄り添い合うようにしてできた城のような大きな建物の中では、毎日が慌ただしく巡っていた。
……夜も更けきった時間、一番大きな塔にある一室で、一人の女性が作業をしていた。彼女のいる部屋はとても広々とした造りで、中央辺りに二、三人座れるサイズのソファが二つ置かれている。それらと向かい合うような形で彼女の座る椅子と山のように資料が積み上げられた机があった。彼女の背後には続き部屋があるのか、仕切るように紅色の天鵞絨のカーテンが垂れ下がっていた。
彼女の外見は二十代中頃。襟足から肩口にかけて斜めに切りそろえられた山吹色の髪に、眦が少し下がった同色の目。服装はジーンズとタートルネックの長袖の上に胸に幾何学模様の紋章が金糸で縫いつけられただけの白いコートを羽織っているという、飾り気のないものだ。彼女はこの広い部屋で一人、細い銀縁の眼鏡をかけ資料に目を通し何かしら書き込むという一連の作業を繰り返していた。
……と。何処からか軽い足音が聞こえ、彼女はふと顔を上げる。程なくして彼女の背後にあった天鵞絨の端が揺らぎ、寝巻き姿の少女が飛び出した。
「っ姉さま、ナギ姉さまっ!!」
背中に垂らした金髪に、菫色の大きな瞳。歳はようやく十を越したぐらいだろう。その可憐な顔立ちは目の前の女性――ナギとよく似ていた。少女は強い焦燥と興奮をあどけない顔に乗せ、肩で息をしていた。
「どうしたの、ヒカリ。そんなに慌てて」
ナギは視線を体ごと少女に向け、落ち着かせるようなゆっくりと少女に問うた。すると少女は無意識に胸に当てていた手をきゅっと握った。震えている、だがよく通る声で言葉を紡ぐ。
「……夢を…………見ました……」
「!!」
少女の報告にナギは目を見開く。何の夢かと続きを促すと、頬に熱を浮かべたままの少女は一度こくりと唾を飲み込み、やや早口で語り出した。
「……《風の守護者》の夢です。名は……」
♪
山奥のある場所で、その少女は泣いていた。
周りの木々の枝は折れ、吐き気を催すほどの悪臭が立ち込めている。そして、原型を留めていない生物の肉片と共に大量の血が至る所に飛び散っていた。
その、紅に彩られた凄惨な舞台の中央で、一人の少女が座り込んでいた。少女の手は血で紅く染まり、震えながらも一人の壮年の男を細腕に抱いていた。男の胸には刺し貫かれた痕があり、彼女の傍らには血で濡れた刀があった……
少女は喪失の悲しみと何かに対する恐怖で混乱している頭で、師であり育ての親でもあった腕の中の男――ジンの言葉を思い出そうとしていた。
――『逃げろ。今のおまえの力では奴の前では無力だ。おまえをあいつに渡す訳にはいかない』
何度も聴いていた、深くよく響く声が記憶の底から蘇る。
――あの時私が頷いていれば、ジンは死なずに済んだのだろうか……
そう思わずにはいられなくなる。亡骸の冷たさを感じる度に、瞳孔が開ききった虚ろな眼を見る度に、胸が締め付けられるように苦しくなる。
――……でも、私は嫌だと言った
『自分だけ逃げるのは嫌だ。私も戦う。大丈夫、私も戦える』
次に耳元で再生されたのは、切羽詰まったような自身の声。……そして思い出す、ジンの最後の言葉。……辛そうな、苦しそうな微笑……
――『そうか……ならば戦え。そして、おまえにとって一番大切なモノを守れ。ここを離れ、あいつのもとへ。おれが奴を喰い止めている、その間に――』
……少女は目を開けた。
――その先は……
思い出そうとしても、どうしてか思い出せない。思い出そうとしただけでずきずきと頭の奥が痛み、溢れる悲しさでまた涙がこぼれてしまう。まるで、思い出す事を無意識に拒否しているような――
……だが、今はもう、泣いている場合ではなかった。
少女は体温を失った師をもう一度だけ強く抱き締め、そっと地に横たえると立ち上がった。
ゆっくりと血濡れの刀を拾い、一度振って血糊を飛ばす。次に地に向かって何か呟くと、強い風が吹き、目の前の地面が深くえぐられた。その中に亡骸を入れ、もう一度風を呼んで土をかける。辺りを見回し、少し離れた場所に刀――師の刀が落ちているのを見つけると、それを墓標の代わりに突き立てた。
その前でしばらく胸に手を当て目を閉じていたが、ふと目を開けて空を見上げる。
――行かないと。あの人の所に行かないと。私の願い……二人の約束を果たしに。
「行ってくるね、ジン」
再び自分の刀を握り、今度は自分の胸の前で刀を横に構える。刃のない部分を指先でつっと撫でると、少女の身体はひとりでに浮かび上がって夜空へと上昇した。
静かに揺れる黒く長い髪。僅かに幼さが残る顔立ち。そして前を見つめる緑がかった黒い瞳には、意思の強い者が持つ強い光が宿っていた……
少女が旅立つのと同時刻。闇の底で、影達が囁き合うように話していた。
「若様。《灰色の風》が………」
「解っている。今は放っておけ」
「ですが」
「今は好きなようにさせておけと言っているんだ。時が来れば、迎えに行くさ」
まるで全てを飲み込むかのように、闇は、笑った。
「力が目覚めれば、な………」