act.2-4
走り始めたカナリは自然と入っていた肩の力を抜いた。
──ゼン
音のする方向へ駆けながら、今しがた別れた相手のことを思う。
──大きく、なってた。顔つきも、変わってた。……ジンに少し似てる。
手合わせをしたときに感じた腕の痺れや、光の加減で赤く見える瞳が強く印象に残っている。
──いつ、気づくのかな。最初会った時はすぐ気づいてくれそうな気がしたのに。
何かを思い出そうとしたあの顔つき。彼の記憶の中の自分は薄れてしまったのだろうか。かなり前のことだから、もう忘れてしまっているのかもしれない。そんな悲しいことをふと思い、慌ててかぶりを振った。
──大丈夫。きっと、ゼンは思い出す。……ううん、たとえ忘れてしまっても、私のことをずっとわからなくても、私が覚えてる。私が、約束を守るだけ。
彼女の口元に、淡く笑みが浮かんだ。
目的地に近づくにつれ、空気が冷たく張りつめたものに変わる。前方に砂埃が立ち込めているのが見え、思考を切り替えたカナリは口を一文字に引き結び素早く抜刀した。
「いくよ、風疾」
声をかけると、応えるように風疾の刀身が淡く光った。両手で一度強く握りしめ、構えると地を蹴る。狙うのは、砂埃の向こうにある妖しげな影。勢いに任せて降り下ろす。だが、それは簡単に防がれた。
「──っ!?」
強い力で弾き返され、空中で回転しながら体勢を整え着地する。
砂埃が治まり、視界が開ける。
その魔物は女性のような姿をしていた。細身のシルエットだけ見ればヒトとそう変わりはなかったが、肌は赤黒く口は異常に尖った耳元まで裂けている。そしてその片腕は鋼のような鈍い光沢を持っていて、手は指の代わりに鋭く長い爪が生えていた。
魔物はカナリを見るとニイッと笑った。
「アラァ、もう来ちゃったの? 残念ねェ、もっと遊びたかったのに」
カナリの目の前で魔物は爪に付着していた赤を舐め取る。どこか恍惚とした表情を浮かべ、ざらりとした女性とも男性とも判別しがたい声で歌うように言った。
「やっぱり、ヒトの血は甘いわァ。──《守護者》の血は、もっと甘いのかしらねェ?」
「──!」
カナリは魔物から放たれた殺気に微かに身を震わせた。だがしっかりと魔物を見据え、風疾を構え直して口角を上げる。
「……試してみたら?」
「そうねェ……じゃァ、そうしようかしら」
ぎらり、と魔物の目が鋭く光る。魔物が地を蹴るのと同時にカナリは走り出した。自分を追いかける音や殺気で魔物の位置を把握しながら建造物の間を駆け、時折応戦してはまた逃げる。目指すは東、ゼン達とは真逆の方向へ。
「逃げられるとでも思ってるのォ?」
しばらく誘導と牽制を繰り返し、とうとう痺れを切らした魔物は高く跳躍してカナリを飛び越えて進路を防いだ。
これ以上引き離せないと悟ったカナリは素早くその動きを攻撃へと転じさせた。走っていた勢いを殺さず魔物の懐に飛び込み一閃。黒い体液が飛散し、一拍置いて絶叫が響く。続けてもう一太刀振るおうとしたその時、腹を殴られそうになって咄嗟に後ろに跳んだ。距離を取ると、殺意の込められた目がカナリを射貫いた。
「──ッ油断したわァ。この小娘が……でも、もうそうはいかない」
斬られた腹部を庇いながらも魔物は口元を歪め高らかに笑う。直後、その口から黒い霧が大量に吐き出された。瞬く間に周囲に黒い霧が充満し、カナリの視界を遮った。
──魔物の能力!!
カナリはすぐにコートの袖を口に当て、霧を吸わないようにしながら周囲をうかがう。黒く染まる視界の中、耳障りな魔物の笑い声が木霊していた。
──完全に霧に紛れてる……魔物は何処?
片手で得物を構えながら感覚を研ぎ澄ませる。背後に何かが動く気配を感じ、振り向きざまに斬りかかった。
「!?」
刃を合わせた甲高い音が響くのと同時に霧が晴れ、自身の刃を受け止めた相手を視認したカナリは目を見開いた。彼女の目の前には、この場にいるはずのない人物が立っていた。
「ゼ、ン……!?」
赤のラインが入った自分と同じようなデザインのコート、さらりと揺れる赤がかった茶髪。ゼンとおぼしき人物が、カナリの一撃を受け止めていた。しかし、受け止めているのは刀ではなく片腕。異常に鋭く尖った長い爪が鈍く光る。ゼンの姿をしたそれは、口の端を吊り上げるとカナリを弾き飛ばした。カナリは後ずさるもその表情は驚いたまま。
「──っなに」
「驚いたァ? これがアタシの力、相手が大切に思う人の姿を見せるの。手が出せないわよねェ? だって、大切な人なんだから!!」
「──うるさい!!」
吠えるように返し、カナリは再び地を蹴ってゼンの姿をした魔物へと突っ込む。数度打ち合い、鍔迫り合いのような形になった。魔物はぐっと顔を近付け、ゼンそっくりな声音でカナリに話しかける。
「──悪かった、お前に気づけなくて。約束を、果たしに来てくれたんだろ?」
『 』
「──っ!」
付け足すように紡がれた名前に、カナリは息を止めて肩を震わせた。
──直後、強い力で凪ぎ払われ、カナリの身体は近くの建物まで飛ばされる。強い衝撃に耐えられなかった壁が崩れ、倒れた彼女の上に落ちた。その様子を見て、魔物は高らかに笑う。
「アンタはまだ生かしといてあげる。一番最後にじっくり味わうわァ」
ぴくりとも動かない瓦礫の山に向かってそう言うと、魔物は黒い霧を身に纏った。
「西の方から人間の臭いがするわねェ、楽しみだわ」
霧の中から出て来たのは、緑のラインが入ったコート。高い位置で結われた黒髪が揺れる。カナリの姿をした魔物は、歪に顔を歪めながら楽しそうにその場から去った。
しばらくして、瓦礫の山が崩れ中から一つの影が立ち上がった。
ゆらり、と一度ふらつくも体勢を立て直し、服の誇りを払わないままカナリはすぐに西へと走り出す。
「──ゼン」
その黒曜石の瞳に差す緑色が濃く美しく変化していることを、彼女が知ることはなかった。




