95 〈現夢〉で引き合う因果
「一体全体、何がどうなってるんだ?」
俺達は、迷宮の一室にある古びた鉄格子のある部屋で、囚われた一人の〈狼頭人〉と格子越しに酒を酌み交わしていた。何故、こんなことになっているのか? 少々、説明が必要だろう。
彼の名はトルベン。ル=グルゥのスラムの住人で、街中での喧嘩が原因で逮捕され、懲罰房で懲罰の執行中なのだそうだ。
懲罰房とはル=グルゥの街の刑務所に設置された施設で、地下水道に直結した場所だ。他のエリアから隔離された場所で、下水道の汚物処理や害獣の駆除、傷んだ設備の点検などを、服役中の囚人に行わせる矯正施設である。
今回の迷宮化に、懲罰房も例外なく巻き込まれた。結果、元々隔離されていたエリアが更に分断され、房ごとがランダムに再構成されたらしい。
俺が彼に出会うきっかけとなったのは、探索中に聞こえた奇妙な音だった。警報のような音を頼りに近づいて見ると、トルベンが格子越しにメガ・ラットを倒しているところに出くわしたというわけだ。
倒したメガ・ラットを引き裂き、皮を剝いで生のまま齧り付く姿に思わず攻撃しかけたが、ワルワラに止められ思い留まる。
トルベンも突然姿を現した俺達に驚き、慌てて釈明する。聞けば最近配給が滞り、倒したメガ・ラットを食べていたということだった。
「こいつら肉は固いし、見た目よりも細っこくて食いでもないんだが、腹も減ったし、仕方なく、な」
そう言って笑うトルベンだったが、俺が街の状況を説明すると、成程な、と頷いた。
「それじゃあ、これが〈黒鱗病〉か」
トルベンはそう言って襤褸けた囚人服をはだける。そこには黒い鱗のように変色した胸元があった。
「あんたも罹患してたのか…」
「これができてから、妙に身体が怠いと思ったんだよな。まぁ、こんな場所で生活していれば、病気の一つにも罹ろうってもんだから、気にしてなかったが」
そう言ってニヤリと笑うトルベン。妙に余裕があるが、元々そういう性格なのだろう。
「それにしても、お前らも物好きだよなぁ。態々こんな下水道に入って来るとはな」
「言っただろ? 仲間が罹患したんだ。助けるためには原因を取り除くしかない。何とかできる方法が他にあるなら、今ここにはいないよ」
俺が差し出した酒瓶を旨そうにラッパ飲みし、盛大に息を吐き出すと、血と酒の入り混じった香りが鼻を突いた。
「ふいー、美味い酒だったぜ、ありがとさん。こんな旨い酒は生まれて初めてだったぜ。ここから出たとしても、飲めないだろうしな」
「刑期が明ければ飲めるでしょう?」
「出た所で金もないし、仕事もないしな。街から病がなくなっても、俺の生活が変わるわけじゃない。日に一度とはいえ、飯がちゃんと食えている分、ここの方がマシかもな」
もっとも、その飯も出なくなっちまったがな。そう言って笑うトルベンに、俺は問いかける。
「それで、何か知っているかい? 何でも良いんだ、少しでも気付いたことがあれば教えて欲しい」
俺の問いに、トルベンは肩を竦めた。
「悪いな、何しろ服役中の身の上だ。外のことだって今聞かされたばかりだぜ」
悪いな。そう言って頭を掻くトルベンに、俺は首を振る。状況を見ればある程度予想はついていたので、それほど落胆はない。折角知り合ったのだし、それならと、俺は提案した。
「良かったら、脱出するのを手伝おうか?」
「有難いが、遠慮するよ。もう少しで刑期が終わるんだ。このまま釈放されるまで待つさ。なに、食事は何とかなるからな」
俺の提案をトルベンは笑って断る。先程聞こえた警報のような音は、この辺りの魔物を引き寄せる効果があるらしく、集まった魔物を駆除するのが、懲罰なのだそうだ。
スライムは流石に食べられないらしいが、ネズミやヘビなどはそれなりに食えるから、今までも配給だけじゃ食べ足りないので、倒しては食べていたらしい。
この分なら大丈夫そうだ。俺はワルワラに頷きを送ると、トルベンに別れを告げ、その場を去ろうとする。そこに、
「そうだ、旨い酒の礼に、こいつを持って行ってくれ」
トルベンはそう言うと、ガサゴソと懐を探り、何かを取り出した。
「これは?」
差し出されたものを受け取ると、それは小さな指輪だった。金色に鈍く光る指輪は、獣が大きく口を開けて咆哮する意匠が施されている。金…じゃないな。真鍮か。
受け取った際の重さからそう判断したが、意匠は立派なものだ。それなりに価値がありそうだと思い、聞いてみる。
「俺のダチが下水管理をやってる。もし会うことがあれば、それを見せて俺の名を出してくれ。手を貸してくれる筈だ」
生きていればな。そう言って笑うトルベンに、俺は頷くと礼をする。追加の酒瓶と保存食を残した。
「無事、解決したら、娑婆で酒を奢ってくれ!」
「ああ、約束しよう」
トルベンに別れを告げ、俺達は部屋を後にした。
「随分と静かだったな」
俺はワルワラに声を掛ける。トルベンと話している間、ワルワラは静かに俺の傍に控えていた。会話に興味がないというよりは、敢えて黙っていたように感じた。
「あたいが余計な口を挟んで、邪魔をしたくなかったです」
ワルワラは周囲を警戒しながら、それだけを呟いた。まだ、失敗したことを気にしているみたいだな。
俺はそっとワルワラの肩に手を乗せた。ビクリと肩を震わすワルワラに、
「さっきも言ったけど、気にするな。気持ちを切り替えて、次に備えるんだ」
「でも…」
「失敗することは悪いことじゃない。経験し、次に活かせば良いんだ。成功から学ぶことより、失敗から学ぶことの方が多い」
ま、これは俺の持論だけどね。異論もあると思うから、無理強いするつもりはないけど。ワルワラは、俺の言葉に何度も頷きつつ、
「分かりました。頑張ります!」
『素直で良い子ねぇ。誰かさんと違って』
スマラが茶々を入れてくる。悪かったな、素直じゃなくて。
『そうね、スマラと違って素直だわ』
私!? マグダレナの思わぬ口撃に、俺はクスリと笑ってしまう。不思議そうに見上げるワルワラに何でもない、と手を振りつつ、通路を進んで行った。
この辺りは上水道になるらしく、下水特有の臭気は殆ど感じなくなった。代わりに、湿度の高い空気と強い水の匂いを強く感じる。
ふと、小さな水音を聞いた気がして、俺はその場に足を止め、水面を警戒する。ワルワラは俺の動きを見て慌てて足を止めた。
俺が水面を見続けていると、ゆらりと水面が揺れ、ゆっくりと姿を現したのは、妖艶な美女だった。
しとどに濡れた髪が、透き通るような白い裸身の上を這い、豊かに盛り上がる双丘を覆い隠している。
美女は俺を見て微笑みを浮かべると、ゆったりとした動作で手招きをする。明らかに場にそぐわぬ状況に、俺は警戒しつつも、話をしようと近づいた。何となく、手掛かりに繋がる気がしたのだ。
「君は誰だい? どうしてこんなところにいるんだい?」
俺は近づきつつ問い掛ける。美女はそれに答えず、微笑んだまま手招きを続けている。
仕方がない、言う通りにしてみるか。俺は更に美女へと近づいていく。俺は近づいて目線を合わせるため、片膝を着いた。
俺と美女の距離が手を伸ばせば届くまでになった時、美女は手招きを止め、俺の首に両手を回してきた。
そして、しっかりとしがみつくと、全体重を掛けて水中に引き摺りこもうとする。
「ヴァイナス様!」
ワルワラが背に手を伸ばすが、そこにあった長剣は、既に穴の底だ。慌てて俺の服を掴もうとするが、その動作がピタリと止まった。
悪いけど、想定済みさ。
美女の顔が驚愕に歪む。俺は引き摺りこまれるどころか、その場から一歩も動くことなく、片膝を着いた姿勢のまま微動だにしていなかった。
予め気構えをしっかりしていれば、女性の力程度で引き込まれることはない。それどころか、メガ・アネモネアンの触手にだって負けることはない。
俺はゆっくりと立ち上がった。美女は俺に捕まったまま、逆に水上へと引き上げられる。その姿が露わになった時、俺は成程と頷いてしまった。
美女の下半身は、深い蒼色の鱗に包まれ、尾鰭がゆらゆらと揺れていたのだ。彼女は人魚だった。
『〈人魚〉ね。こんな地下水道にいるのは珍しいけど』
スマラが念話で伝えてきた。やっぱり人魚で間違いないらしい。
マーフォルクの美女は呆然としたまま俺を見つめていたが、慌てて離れようとする。だが、俺はそれに先んじて、美女を横抱きにすると、水路から距離を取る。
美女は振りほどこうと暴れるが、力はヒューマンの成人女性と大して変わらない。振り払うこともできずにジタバタと暴れる美女を抱えたまま、俺は通路を戻ると、広くなった通路に彼女を降ろす。
この位置から水路に戻るためには、俺を何とかしないといけない。美女は諦めたように項垂れると、その場でシクシクと泣き始めてしまう。
うわ、すげー気まずい…。
取り敢えず話を聞くために、逃げられないように連れてきたのだが、これじゃあ俺が悪いみたいだ。
「ヴァイナス様、どうします?」
ワルワラも困り顔を俺に向けて来た。まさか泣き出すとは思わなかったからなぁ…。俺は頬を掻くと、彼女の前にしゃがみ込み、
「あー、強引に連れて来て済まない。俺は話を聞きたいだけだったんだ。君に危害を加えるつもりはないよ」
と話しかける。美女はそれに反応することなく、泣き続けている。
困ったな、言葉が通じていないのかな? 俺は共通語で話しかけるのを止め、代わりに〈精霊語〉で話しかけた。
『これなら分かるかな?』
俺の言葉に、美女は不意に顔を上げ、俺をまじまじと見つめて来た。どうやら通じたようだ。俺は内心ほっとすると、改めて話しかける。
『俺の名はヴァイナス。君の名は?』
俺が微笑みながら話しかけると、美女は声を出そうとして、哀しそうに首を振った。どうやら喋れないらしい。
〈人魚姫〉か…。
喋ることのできない人魚という状況に、ヒトの足を望み、声を捧げた人魚の悲恋を思い出した。彼女が件の人魚だとは思わないが、オーラムハロムでは、現実世界の伝説や神話を准えたシチュエーションも多い。現実世界とオーラムハロム、どちらがどちらをモチーフにしたのかは分からないが、何かしらの因果関係があるのかもしれない、とは感じていた。
この美女もかの物語に関連しているのであれば、声を失い、叶わなかった恋を儚んで、泡と消えてしまうのだろうか。
俺が思考している間、どうしても言葉が紡げなかった美女は、再び泣き出してしまう。俺は慌てて、
『済まない。無理に話すことはないんだ。俺の質問にはい、か、いいえで応えられるかい?』
と聞いてみる。美女は顔を上げると、小さくコクコクと頷いた。俺は頷くと、『はい』『いいえ』で答えられるように内容を考えて、ゆっくりと質問をしていく。
美女に質問した結果、このまま上流に向かえば、何かが分かるかもしれない、ということが何とか確認できた。少なくとも手掛かりらしきことが分かっただけでも、探索の指針になる。
『ありがとう。手荒な真似をして済まなかったね』
そう言って微笑むと、美女は頭を振り、微笑みを浮かべてくれた。俺は彼女を水路に戻してあげるため、もう一度横抱きにした。
美女は素直に俺の首へと手を回すと、ギュッとしがみついてきた。その時、彼女の髪が揺れ、胸元が露わになる。そこに浮かび上がる『黒鱗』に、俺は思わず動きを止めてしまった。
「君も〈黒鱗病〉に…」
俺の呟きに、美女は不思議そうに首を傾げた。俺が〈精霊語〉で問いかけると、美女は再度頭を振る。
どうやら、深刻な病状にはなっていないらしい。彼女が呪いに強いのか、単に進行段階によるものなのかは分からないが、酷い体調ではないことに、安堵する。
『待っててくれ。君のその胸の呪い、俺達が必ず祓うから』
そう語りかけると、美女は嬉しそうに頷き、俺の頬へと唇を寄せる。冷たさの中に仄かに温かみを感じるキスを頬に受けながら、俺は美女を連れ、水路へと連れて行った。
水路へと辿り着き、そっと水面へと降ろすと、美女はもう一度俺の首に手を回し、今度は唇を重ねてきた。そして、微笑むと静かに水中へと姿を消す。
「ヴァイナス様、流石です! 先程のトルベンとの会話もそうですが、思慮深さ、力強さ、優しさ、慈悲深さ…」
美女を見送り、立ち上がった俺にワルワラがキラキラした目で声を掛けて来た。大したことをしていないのに、尊敬の眼差しを向けられると、こそばゆく感じてしまう。
『相変わらず、女にはモテるわねぇ』
『ヴァイナスは優しいもの。甘いと思うけど、そこも良いところ』
スマラの指摘に、マグダレナのフォローが入る。確かに甘いと思うが、奪わなくても良い命なら、態々奪うこともない。この世界が異世界であると知ってからは、尚更そう感じていた。
それにしても、出会う者が悉く〈黒鱗病〉に罹患している。やはり呪いの原因は、この地下水路にあるようだな。俺は人魚の言葉に従い、分岐した水路から上流を確認すると、
「彼女の言葉に従えば、上流に何かあるはずだ。行くぞ」
「はい!」
俺は先へ進むことを告げる。ワルワラは元気よく返事を返す。ゼファー達も何か掴んだだろうか。そんな思いを胸に抱きながら、俺は通路を進み、先へと急いだ。
「そうだ、ワルワラ。この剣を使えるか?」
長剣を失ったワルワラに、俺は〈全贈匣〉からトーヤに貰った剣を取り出す。
「ヴァイナス様、この剣は…!」
「今手元にある剣で、ワルワラが使えそうなのはこれくらいなんだよな。使えるなら使ってくれ」
ワルワラは差し出された剣を恐る恐るといった感じに受け取る。そして、ゆっくりと引き抜くと、刀身を掲げ、その場で構えを取った。
鞘を背に回し、両手で剣をしっかりと握る。ゆっくりとした動作で型をなぞると、背負った鞘に刀身を収めた。
「凄いです…。手にピタリと吸い付くようで、初めて持つとは思えないです!」
「そうか、それは良かった。この探索が終わるまで、それを使ってくれ」
俺があっさりと言うと、ワルワラは「ええ!? そんな、畏れ多いです!」と言いながら慌てて剣を外そうとするが、俺はワルワラの手にそっと手を重ね、外そうとする動きを止める。
「剣を失ったのは失敗だったけど、まだ挽回できる失敗だ。今度は無くさないように気を付けること」
俺がそう告げると、ワルワラはコクコクと頷き、もう一度しっかりと鞘を止め直す。
この剣の効果なら、ワルワラもある程度強敵と戦う際の助けになるはずだ。頂き物なので、流石にあげることはできないけど、この探索が終わるか、途中で良いものが見つかるまでの代用品としては充分だろう。
俺には左手の〈捻双角錐の掌〉と〈肆耀成す焔〉があるし、スマラとマグダレナもいる。街にいる間に新しい装備も師匠と一緒に創ったし、手に入れた金で購入もしている。
これで負けるなら、次は総力を結集して挑まないとならない。だが、それは高難易度過ぎて今の俺達では手に余る、ということだ。それまでエメロード達の命が保つかどうか…。
無意識のうちに悲観的になった考えを振り払い、俺は探索に集中する。
奥に進むにつれ、徐々に雰囲気が変わって来た。ハッキリとした変化ではないが、周囲を圧迫するような、チリチリとした空気を感じる。
『ヴァイナス、街にあった嫌な雰囲気が強くなってる』
マグダレナが念話で伝えてくる。俺は頷くと、いつでも剣を抜けるよう、柄に手を当てつつ進んで行く。ワルワラも、〈護身剣〉を抜き、俺の背後を護るようについてきた。
更に進むと、ハッキリと変化が現れた。水路は姿を消し、地底から流れる地下水脈へと姿を変えた。そして、石組みの水路は自然岩の洞窟へと変わり、その壁面には不気味に明滅する、壮麗な文字が刻まれていた。
『これは、〈竜語〉…?』
スマラからの念話に、俺も頷く。刻まれているのは確かに〈竜語〉だ。この先に、ドラゴンに関する何かがあるのだろうか。
強まる気配に、俺の心臓がドクリと脈打つ。燃えるような熱さを感じ、思わず鎧の上から手を当ててしまう。こんなことは今までなかったんだが…。
「ヴァイナス様、大丈夫ですか?」
足を止め、左胸を押さえた俺に、ワルワラが心配そうに声を掛ける。俺は安心させるように微笑もうとするが、ワルワラの姿を見て目を見開いてしまった。
ワルワラもまた、胸を押さえ滝のような汗を流している。
「ワルワラ、お前も大丈夫か!?」
「平気です。それよりヴァイナス様こそ…」
そういってふらつく足で俺へと近づくワルワラを、抱き寄せるように支える。その身体が燃えるような熱を発していることに、俺はすぐさま、
「スマラ、マグ、合一を解いて周囲を警戒してくれ!」
と叫び、その場でワルワラを座らせ、悪いとは思いながら胸元を開けさせた。その胸には黒々とした鱗が浮かび上がっている。
やはり、〈黒鱗病〉か…!
そっと上着を戻すと、俺は鎧を外し、自らの上衣を脱ぎ捨てる。胸元を確認するが、黒鱗は現れていなかった。
ほっとする間もなく、スマラの声に振り返る。
「ヴァイナス、貴方の背中…」
「そんな、ヴァイナスまで…」
二人の表情に、俺は全てを察する。
どうやら、俺も罹患したようだな…。
俺に浮かび上がった黒鱗は、背中側だったらしい。この鼓動の早さは、罹患したせいなのだろう。だが、今のところ、高熱を発してはいないし、体調も大きく崩れてはいない。俺は上衣を纏い、鎧を身に着けると、苦しそうに肩で息をするワルワラに【解呪】の魔法を掛けた。
魔法が発動する手応えを感じ、ワルワラの表情が穏やかになる。だが、次の瞬間、エメロードと同じように、再び息を乱した。やはり、原因を取り除くまで、呪いを解くことはできないようだ。
「ヴァイナス様…」
「進もう。今はそれしかない」
俺はワルワラを横抱きに抱えると、スマラとマグダレナを促し、再び歩き出した。
奥へとと進むにつれ、俺の鼓動は更に強くなっていく。俺は落ち着こうと深呼吸をするが、一向に収まる気配がない。
だが、ここまで来て、これだけあからさまに何かがありそうな場所を放置するわけにはいかない。逸る気持ちを押さえ、頭の中だけは冷静に、俺は慎重に歩みを進めた。
唐突に視界が開けた。そこは巨大な地底湖となっており、満面に水を湛えた湖面が、自生している光苔の光を反射し、キラキラと煌めいている。
そして、湖の奥に佇む巨大な姿を見た瞬間、俺の心臓は、今まで手最も強く鼓動する。
それは、一言で言えば『異形』だった。
全体的なフォルムは竜のそれだ。朧げな明りを受けて輝く鱗は紺碧。しなやかに伸びた尾は体長にも匹敵する。
だが、その半身は瘴気を纏った黒鱗で覆われ、粘液を滴らせる触手や歪に生えた翼腕が、ウネウネと不規則に蠢いている。
右半分の理知的な光を湛えた瞳と、対になる瞳は白く濁り、黒鱗に覆われた口元からは、目に見えるほど濃い瘴気が漂っていた。
こいつが元凶か…!
俺は目の前の竜を見た時から、早鐘のように鼓動を繰り返す心臓を鎮めようとするが、治まる気配のない鼓動に、一刻も早く目の前の竜を倒そうと意識を切り替えた。
瘴気を纏った竜は咆哮を上げる。その声は濁り、不協和音となって俺達に降り懸かった。
ワルワラが歯を食いしばり、必死に耐えている。その表情に余裕はない。無理はさせられないと考えた俺は、ワルワラをその場に降ろし、【障壁】の魔法を唱え、ワルワラの周囲に光の壁を展開した。
「ワルワラはここで待機。身を護れ!」
「ヴァイナス様、あたいも一緒に…!」
ワルワラは立ち上がろうとするが、呪いに蝕まれた身体はいうことを聞かずに膝を着く。
「駄目だ! あいつと戦うには、湖面の上になる。体調を崩し、飛行に慣れていないお前では無駄に危険を増やすだけだ!」
俺の言葉に、ワルワラは悔しそうに唇を噛む。俺はスマラとマグダレナに念話で指示を出し、自らは【飛行】の魔法を唱えて飛び出した。
変わり果てた姿の〈蒼竜〉は、飛び込んでくる俺に向かって、瘴気の混じった水嵐のブレスを放つ。
青白と黒の入り混じったブレスを、合一したマグダレナの盾が正面から受け止め、突き破り、俺達は竜へと向かって突き進む。こうして、幾度目かとなる『竜』との闘いの火蓋は、切って落とされた。




