82 〈幻夢(VR)〉で女神と再会す
「再び、会い見えることができるとは思っていませんでした。やはり、貴方とは〈宿命〉で結ばれているのですね…」
「姉様、それは我の台詞です。我と永久に生きるのが〈宿命〉ですよ」
『門』を抜け、そこに待っていたのは、星々の輝きの中に浮かぶ、周囲を取り巻く岩々の間から、滔々と流れ落ちる水を湛えた、半球状の湖に浮かぶ宮殿だった。
そして、宮殿の中で出会ったのは、目に涙を浮かべながら恍惚とした表情を浮かべる金髪の女神と、その横で同じように、だが笑みを浮かべる黒髪の女神だった。
「あー、まさか二人に再会できるとはね」
予想外の成り行きに、戸惑いを隠せない俺に、シェアトとマフデトは、感極まったのか我先にと俺に飛びつき、抱き締めてくる。
「マフ、貴方は妹なのですから、分というものを弁えなさい」
「姉様、女としての立場に上も下もありません。あるのは想い人にどれだけ想われるのか、ということだけです」
俺を抱き締めたまま、笑顔で火花を散らす二人に、俺は思わず頭を抱えたくなる。
正直に言って、再会できたことは嬉しいのだが、露骨にいがみ合うのは嬉しくない。
「兎に角、離れてくれないか? このままじゃ落ち着いて話もできないぞ」
「マフが離せば良いのです」
「姉様、ヴァイナスが困っています。さっさと離れた方が良いですよ」
二人の美女は抱き着いたまま、一向に離れる気配がない。仕方がないので、俺は二人の腰に手を回すと、一気に肩に担ぎ上げた。
「「ちょ!?」」
「埒が明かない。悪いが我慢してくれ」
左右の肩の上で慌てる二人を抱えたまま、俺は奥へと進み、クッションの効いた長椅子へ、二人をそっと降ろした。そして、向かいの席へと腰を降ろす。
二人が体勢を整えている間に、スマラ達は合一を解き、エメロードとマグダレナが人化した状態で俺の左右に腰を降ろし、スマラは猫の姿で俺の膝の上で丸くなる。
あっという間に女性を侍らせた俺を見て、二人の表情が変わる。だが、俺の横でニコニコと笑顔を浮かべるエメ達の雰囲気を察し、恨めしそうな視線を向けつつも大人しくしていた。
「さて、久し振りの再会に、お互い積もる話もあるだろうが、まずは確認しておきたい。今回の試練は何だい?」
俺の問いかけに、二人は顔を見合わせ、そのまま首を傾げた。
「試練、と言われましても、ここは私たちの私的な『領域(世界)』ですわ。ここを訪れることができるのは、私たちを除けば〈宿命〉を持つ者のみ」
「ですから、貴方はここで我と共に、悠久の時を過ごすものと思ったのですが?」
二人の女神はそう言い、お互いを牽制するかのように視線を交わす。えーと、つまりはここでは試練がない、と。
「それじゃあ次の『世界』への門は開いてくれるんだよな?」
「開けます、開けますけど…」
「我たちとの再会は迷惑でしたか?」
俺の問いが性急過ぎたのか、二人はこの世の終わりというような表情で目を潤ませている。
「折角の再会をそのように言われてしまうと、悲しくなります」
「我はこれ程の喜びはないというのに…。新たに女性を得てしまったゆえ、我には興味がないと」
どうやら、俺の言葉が二人を大いに傷つけてしまったらしい。俺は慌てて、
「いや、そういうわけじゃない。二人に会えたことは予想外であったけど、とても嬉しかったし、試練がないと聞いて安心もしてる。けれど、前にも言ったように、俺はここを出なくちゃいけない」
それは変わっていない、と伝えると、二人は笑みを浮かべる。その瞳に哀しみの光を湛えたまま、
「承知しておりますわ。ヴァイナスの意志が変わっていないということは。けれど、再び出会えた奇跡を喜ぶ気持ちがあるのであれば、もっと素直に出して欲しいものですわ」
とシェアトが言い、
「貴方の態度は、我を哀しみの海に浸らせました。この切ない想いを、貴方はどう癒してくれるのです?」
とマフデトが言う。
しまったな、少々事務的に事を進め過ぎたか。悪気はなかったんだが…。
「すまない。話を急ぎ過ぎたようだ」
俺が頭を下げると、シェアトは頬を膨らませ、
「謝罪の言葉なんていりませんわ」
と言い、マフデトも、
「我の耳は、そんな言葉を聞くためにあるのではありません」
とそっぽを向く。うーむ、どうしたもんか。
『はぁ~。貴方って本当に女心が分からないのね』
俺の膝の上で成り行きを見守っていたスマラが、呆れたように心話を送って来た。
『あの二人が欲しいのは、貴方の謝罪じゃないでしょ? 貴方が二人に会えてどういう気持ちなのか、じゃない?』
スマラはそう言って影の中へと姿を消す。エメロードとマグダレナは、成り行きを楽しんでいるのか、ニコニコと微笑んだままだ。
俺は「あー」と言いながら頭を掻き、立ち上がると二人の元へと近づく。そして笑顔を浮かべると、
「本当に驚いた。また会えて嬉しかったよ」
と言い、二人を抱き締めた。俺の言葉を聞き、二人も俺を抱き締め返してくる。そして、
「私もですわ」
「我をこんな気持ちにさせた責任、取ってもらいます」
と耳元で囁かれた。その唇がそっと、頬へと押し付けられる。俺達はその後しばらくの間、お互いの存在を確かめるように、静かに抱き締め合っていた。
「ふふ、夢の様ですわね。このまま時が止まれば良いのに…」
シェアトはそう言いながら、俺の胸に頬を当てたまま、うっとりと微笑んでいる。
この『世界』を訪れてから数週間、俺はシェアトとマフデト、二人の女神との逢瀬を続けていた。二人はスマラ達を交えて話し合った結果、順番に俺と過ごすことになった。
今はシェアトと過ごす時間だ。俺達は湖の畔で流れ落ちる水を眺めながら、何をするともなしに過ごしていた。俺は傍らに用意された、葡萄酒の注がれた盃を口に運ぶ。
限られた時間の中、シェアトとマフデトには執拗に求められることになった。
二人の求めに対し、無尽蔵に応える俺。シェアトは最初訝し気な表情を浮かべたのだが、特に聞いて来るようなことはなかった。
だが、回を重ねる毎に気になったのか、
「ヴァイナス、私と別れてから、どのような試練に巡り合ったのですか? 随分と『力』が衰えているように思えるのですが」
と尋ねてきた。確かに、シェアトと出会った時に比べると、全体的に〈能力〉が減っているからな。
「私に優しく接してくれている、というのであれば嬉しいのですが、以前の力強い貴方の方が魅力的です」
シェアトはそう言って微笑んだ。俺は苦笑すると、俺はマフデトに『不死なる者』とされたことを告げる。
するとシェアトの表情が見る見るうちに変わる。瞳に怒りの焔を宿らせ、大気を震わせる程の神気を纏いながら宮殿へと戻り、マフデトへと詰め寄った。俺も後を追って宮殿へと入った。
「ヴァイナスに何てことを…!」
「でも、姉様、お蔭でヴァイナスは不滅の肉体を持ったのですよ?」
「それは問題ではありません! 彼の〈能力〉は著しく低下しているのですよ? それではこの先の試練に、耐えられないかもしれないではありませんか!」
殺意すら感じる剣幕に、マフデトは頬を引き攣らせて言い訳をするが、シェアトは言い訳無用! と更に詰め寄っていく。
「ですが、最早どうとなることでもありません」
「何を言っているのです? 『霊蜜』があるでしょう?」
「姉様、あれは薬とは名ばかりの『毒』ですよ!」
二人の会話に、俺は傍観するしかなかった。霊蜜? 何となく嫌な予感がする…。
「この先を考えるなら、必要な『試練』でしょう」
いや、シェアト、この世界では試練は無いんじゃ?
「それを言うなら、『神蜜』も試すべきでは?」
「もう試しています。これ以上の使用は、かなりの危険を伴います。流石に…」
何でしょう、神蜜って。不安しかないんですが。それに、試してるって初耳なんですけど。
「ですが、霊蜜を試すならそれほど違いはありませんよ?」
「それもそうですね。それなら…」
二人はそう言って頷き、俺の方へと向き直る。
えーと…。
「大丈夫です。貴方ならやり遂げられますわ」
とても良い笑顔で俺を見るシェアト。
「見事耐えることができれば、貴方は以前とは比べ物にならないくらいの力を得るでしょう」
やはり良い笑顔のマフデト。
あ、これ、断れないやつだ。
やっぱり試練がないなんて、都合の良いことはないんだな。俺は諦めて腹を括り、二人に頷いた。
「それで、俺は何をすれば良いんだ?」
俺の言葉に、マフデトは胸元からそっと何かを取り出す。それは蒼く透き通った小瓶で、中には黄金色の液体が入っている。
「これは『霊蜜』と呼ばれるものです。その強力な作用により、本来であれば魔法具の素材として使われるものですが、直接摂取することで、その恩恵を直に受けることができます」
聞けば〈隣世の魂〉の素材だそうだ。あの指輪は身に着けた者の〈能力〉を全て2倍にするという、強力なマジックアイテムだが、一度身に着けた者は、二度と外すことができないという、呪いのような効果も持ち合わせている。
俺の場合〈捻双角錐の拳〉に吸収されているので、2倍効果の恩恵だけを受けているのだが、オーラムハロムでは、同一の効果を持つアイテムは、複数装備しても効果が重複しないため、俺が〈隣世の魂〉を複数吸収したとしても、意味がない。
それを尋ねると、
「『霊蜜』は〈隣世の魂〉とは別のものですから、効果はあると思います」
とマフデト。何とも頼もしい言葉である。まぁ、効果がなかったとしても、試す価値はある? と信じよう。
「それは飲めば良いのかな?」
「はい。一息に飲んで下さい。その後に訪れる『試練』に耐えることができれば、効果を発揮するはずです」
俺は小瓶を受け取り、早速飲もうとして、ふと気づき、
「これって、小瓶から直接飲まないと駄目?」
「? どういうことでしょう?」
俺は〈極光の宴〉を取り出し、杯を用意した。
「これに注いでから飲んでも大丈夫かな?」
「大丈夫だとは思いますが、態々移し替えるのは手間が増えるだけでは…」
俺は〈極光の宴〉の効果を説明する。マフデトはそれを聞いて頷き、
「成程、注がれた液体を複製するのですか。〈霊酒〉や〈神酒〉も複製できるのであれば、可能かもしれませんね」
試してみる分には問題ないかと。そうマフデトに言われ、俺は小瓶から霊蜜を盃へと注ぐと、一気に飲み干した。
味は蜜というだけあって甘い。飲み込んだ瞬間、何か起こるのかと思って構えていたが、特に変化はない。俺は首を傾げつつ、マフデトに話しかけようとし、
ズン
急に世界が反転したかのような衝撃と共に、今まで経験したことのない『苦しみ』に襲われる。
痛みではない。痛みの全く伴わない純粋な『苦しみ』に、俺はその場に蹲り、耐えようとする。息をしている筈なのに、吸うことができないかのような苦しみ。思わず喉を掻きむしろうとして、意志の力で無理矢理抑え込んだ。
そして、身体の中を『何か』が縦横無尽に疾走り回る。それは光のような、力のような何かであり、『何か』が動く度に、苦しみが増していく。
この感覚は、以前に覚えがある。
感じる『苦しみ』は初体験だが、体中を巡る『何か』の感触は、かつて〈慈悲の剣〉の中で受けた、黒い光にそっくりだった。
ならば、と俺は六能を研ぎ澄まし、抗っていく。
体力、器用、幸運、知性、魅力、耐久。
全ての〈能力〉を駆使しての抵抗は、〈隣世の魂〉で倍加した能力を以て尚、どれもギリギリのものだった。こんなことなら【倍化】の魔法も掛けておけばよかった。
今更後悔しても遅い。〈古の印〉や〈宿命〉といったリソースまで使った抵抗は、どうにか、といった感じで成功した。
すると、それまで感じていた『苦しみ』は嘘のように消え去り、代わりに『何か』が身体中を駆け巡り、吸い込まれるように消えていくのが分かった。
俺は大きく息を吐く。無意識に握り締めていた掌は、右手は爪が食い込んで血を流している。俺は強張る指をゆっくりと開くと、
「無事に乗り越えたようですね。思ったよりも落ち着いているようで安心しました」
瞳に心配そうな光を宿しながら、マフデトが未だ血を流す俺の右手を胸元に抱え込むと、暖かな光に包まれ、傷が癒された。
「ありがとう。もう大丈夫だよ。以前似たような経験があったからね。対処法が同じで助かったよ」
俺はそう言って腕を引き抜こうとしたが、マフデトは抱え込んだまま離してくれない。布越しに感じる柔らかさに、仕方がないのでされるがままになっていると、
「似たような経験ですか?」
と尋ねてきたので、俺は、
「ああ。〈慈悲の剣〉と呼ばれるダンジョンで、黒い光に抵抗する試練? みたいなものを以前経験してね。その時と同じ感じがしたから、全力で抵抗してみた」
と説明する。マフデトは成程、と呟き、
「〈英者の路〉を踏破していたのですか。成程、それで…」
〈英者の路〉? 聞いたことのない名前に俺は首を傾げる。
「〈英者の路〉を踏破した者は、英傑や勇者と呼ばれるような力を得ることができる〈迷宮〉です。今は〈慈悲の剣〉と呼ばれているのですか? ですがそれは間違いなく〈英者の路〉です」
マフデトの説明を、俺は「へー」素直に聞いていた。成程、言われてみれば〈英者の路〉という名の方がしっくりくるな。確かに踏破した俺やヴィオーラが、遥かに強い力を得たわけだし。
「ですが、〈英者の路〉の試練に比べて、遥かに過酷なものだったはずです。よくぞ乗り越えました」
マフデトは、俺の腕を抱えたまま、嬉しそうに微笑んでいる。俺も釣られて微笑むが、マフデトはそのまま、俺の手を引いて移動しようとする。
「どこへ行くんだ?」
「折角力を得たのですから、試してみたいと思いませんか? さぁ奥の部屋で…」
有無を言わせぬ笑顔で、俺を連れて行こうとしたマフデトの後頭部を、背後からの一撃が襲った。
不意の一撃に、マフデトはその場で頭を押さえてしゃがみ込む。容赦のない一撃を放ったのは、やはり笑顔を浮かべたシェアトだ。
「無事に霊蜜の試練を超えたようですわね。それでは神蜜の試練へと移りましょう」
「姉様、流石に今の一撃は堪えましたわ…」
頭を摩りつつ、涙目で抗議するマフデトを無視して、シェアトを俺の手を引いて元の部屋へと戻る。
そして、シェアトがどこからともなく取り出したのは、黄金色に輝く、透き通った杯だ。その中に注がれた、ドライアイスのような煙を発する緋色の液体を見て、俺の背筋を汗が流れた。
「本来は薄めて採るものです。が、貴方は既に一度採っていますから、生のままで採って貰います」
見た目とは裏腹に、杯から漂う香りは非情に甘く馨しい。
「生のままで採ることは、本来であれば百害あって一利なし、とは言い過ぎですが、あまりに危険な使い方です。けれど、更なる力を得るには、挑戦すべきものですわ」
そう言って微笑みながら、盃を差し出すシェアトの目は笑っていない。先程のマフデトの抜け駆けは、余程腹に据えかねたらしい。
「さあヴァイナス、一息にどうぞ。大丈夫、失敗しても死ぬだけですわ」
それって《蘇生》前提の試練てことか?
「貴方は〈不死なる者〉ですから。死んでも蘇ります。神蜜は充分にあるので、頑張ってくださいね」
…本当に覚悟を決めよう。一応、飲む前に確認しておくか。
「あー、シェアト、盃を変えて飲んでも良いかな?」
俺は先ほどと同様、〈極光の宴〉を取り出し、杯を用意する。
「神蜜の複製ですか? 別に構いませんが、貴方以外に挑戦するような無謀はお勧めしませんわよ」
おい、そんなにヤバいのかよ! 俺は思わずツッコミを入れそうになるが、笑顔のシェアトに何も言えずに、大人しく盃へと移し替える。
そして、煙漂う緋色の蜜を一気に飲み干した。
…濃!
咥内に広がる味の濃さに、俺は思わず喉を押さえた。一体どれほどの砂糖を使えば、ここまで甘く出来るのか。そして、ただ甘いだけでなく、コクや風味も濃すぎて、舌と鼻が麻痺を通り越し、壊れそうだ。
いや既に鼻孔は神蜜の香りで支配され、嗅覚は全く機能していない。
香りの大洪水を少しでも紛らわそうと、口で呼吸したことを、俺は後悔した。
空気にすら甘みを感じる舌のせいで、甘いものを食べ過ぎた時の何倍も強い不快感を呼び、思わず嘔吐しそうになる。我慢できなくなり、思わずえずいてしまう。
込み上げてくるものまでが神蜜の甘みと香りを持ち、更なる不快感に全てを吐き出そうとするものの、吐瀉物に喉を塞がれてしまう。
吐き出す筈のものに喉を塞がれ、鼻孔にまで昇った吐瀉物のせいで呼吸することができない。
吐瀉物で窒息死なんて、泥酔者みたいな死は御免だ!
そう思うがどうにもならず、最後の瞬間まで全てを神蜜に満たされたまま、俺は死んだ。
窒息し、そのまま死を迎えるが、〈不死なる者〉の力が発動し、蘇る。が、窒息状態は解除されないため、再度窒息する。吐き出そうにも、死ぬ度に喉や鼻孔を埋める吐瀉物は増し、にっちもさっちもいかなかった。
仕方がない、みっともないがやるしかない!
吐いてもダメなら吸ってみな! 俺は勢いよく鼻を啜り、鼻孔の中に詰まった吐瀉物を、喉のもの諸共一気に飲み込んだ。途端に沸き上がる嘔吐感を必死に耐える。
ここで吐き出せば、試練は失敗となる。俺は嘔吐を繰り返しそうになる度、必死にそれを飲み込むことを続けた。
他の味を思い浮かべようとしても、即座に埋め尽くされる甘みに打ち消され、他のことを考えようとしても、即座に香りによって塗りつぶされた。
俺を構築する世界全てが神蜜に支配され、いつしか思考することを放棄した俺は、ただ耐えることだけを続けていた。
それは、どれだけの時間が過ぎたのか。気が付いた時には、シェアトの膝枕で介抱されていた。
「大丈夫ですか?」
上から見下ろすシェアトの黄金色の髪が、サラサラと俺の額を擽っている。既に神蜜の香りは去り、シェアトの髪から漂う、爽やかな香りを感じることができるのに気が付き、俺は安堵する。
あれ程猛威を振るっていた甘さも、欠片も残っていない。俺は試しに息を吸ってみるが、甘さは微塵も感じなかった。
「試練は、どうなったんだ…?」
「大丈夫、見事に乗り越えましたよ」
シェアトはそう言って笑みを深くすると、ゆっくりと顔を近づけ、俺の唇をチロリと舌先で拭った。
「ふふ、やはり神蜜は甘いですわ。あれを飲み干すのですから、ヴァイナスも奇特な人ですわね」
そう言ってクスクスと笑うシェアトに、俺も笑みを返す。
「どのような試練だったのかは分かりませんが、お疲れさまでした」
「ああ。こんな試練は二度とやりたくない。暫くは、甘いものを口にしたくないな。香りの強いものも遠慮したい」
シェアトの言葉に、俺は心底嫌そうに顔を顰め、試練の内容を説明する。吐瀉物を飲み込んだことは伏せて、だが。それを聞いたシェアトは笑いながら、
「甘さと香りに五感を含めた全てを支配される、ですか。気が狂いそうですわね」
「ああ。その分、今、普通に感じる五感には、新鮮さを感じるけど」
唐突に元に戻った五感に、俺はまだ馴染めずにシェアトに膝枕をされたまま寝転んでいるが、シェアトは何かを思いついた、というように手を合わせ、
「それでしたら、取り戻した感覚を確認するためにも、奥の部屋で私と…」
と言いつつ、もう一度顔を近づけてきた。シェアトの唇が俺のそれに重なる瞬間、何かに弾かれるようにシェアトの顔が仰け反った。
「姉様、抜け駆けはいけませんね」
俺の視界に映ったのは、腰に手を当て、仁王立ちで見下ろすマフデトの姿だった。
「ちょっと、いきなり危ないでしょ! ヴァイナスの頭が落ちちゃうじゃない!」
「先ほどのお返しです。それにヴァイナスは我が十全に支えるので、問題ありません」
マフデトはそう言って膝を着くと、俺の手を取り、一息に上体を起き上がらせる。
引き上げられた勢いのまま、膝立ちになった俺の頭は、マフデトの胸に抱え込まれる。
豊かな双丘に包まれ、仄かに香るマフデトの汗の香りは、未だ元に戻った触覚と嗅覚に戸惑う俺には、強い刺激として感じられてしまう。
「…どうあっても退く気はないようですわね」
「…それはお互い様かと」
俺の額を抱え込み、引き戻そうとするシェアトと、俺の首に手を回したまま、堪えようとするマフデトに挟まれた俺は、何も言うことができずに、前後から女神の抱擁を受けたまま、成り行きを見守るしかなかった。
「こうなっては仕方ありませんね。ヴァイナスに決めてもらいましょう。私とマフ、どちらが良いかと」
「そうですね。まぁ答えは決まっていますが」
二人はそう言って立ち上がる。自然と俺も立ち上がることになった。漸く解放されたと思いきや、二人に左右から腕を抱え込まれてしまう。そして、
「さあ、どちらが貴方の隣に相応しいのか、選んでくださいませ」
「新たな力を得た貴方が、どのように変わったのか。見せてもらいます」
と言うや否や、有無を言わせずに奥の部屋へと連れて行かれた。
俺に拒否権は…、ないよな、やっぱり。
降って湧いた『試練』を乗り越え、身も心も休まる暇もなく、俺は二人の女神に求められるままに、いつ果てるとも知れぬ、享楽の海へと身を浸すのだった…。




